周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)6・7

    六 吉川元春書状

 

 今日鉄炮可令放せ之由、従安国寺承候、聢其御催候哉、左候ハヽ爰元之儀

 申触候、御返事可示給候、恐々謹言、

       卯月廿六日       元春(花押)

 (後闕)

 

 「書き下し文」

 今日鉄炮放たせしむべき之の由、安国寺より承り候ふ、聢と其の御催候ふか、左候はば爰元の儀も申し触るべく候ふ、御返事示し給ひ候へ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 今日鉄炮を放出させなければならない、と安国寺恵瓊からお聞きしました。しっかりとご催促があるでしょうか。そうであれば、こちらの件も伝え申し上げるつもりです。お返事をお示しくださいませ。恐々謹言。

 

 

 

    七 小早川氏奉行人連署書状

 

 (端裏書)

 「於厳島四十貫文可渡御奉書〈天正十」七月四日〉」

    呉々来十三日より内ニ厳島へ御着肝要候べく候、

                         (内侍方、小早川氏御師

 於厳島舞楽御調候間、御段銭方百貳拾貫文被仰談、急度竹林殿へ登せ可被置候、

 然者俄之儀候間、四拾貫文宛御調専一候、恐々謹言、

     天正十午(1582)        鵜飼新右衛門尉

       七月四日        元辰

                横見和泉守

                   景俊

       井上但馬守殿

       東光寺

 

 「書き下し文」

 厳島に於いて四十貫文渡すべき御奉書、天正十七月四日、

 

 厳島に於いて舞楽の御調候ふ間、御段銭方百貳拾貫文仰せ談ぜられ、急度竹林殿へ登らせ置かるべく候ふ、然れば俄の儀に候ふ間、四拾貫文ずつの御調専一に候ふ、恐々謹言、

 

    呉々も来たる十三日より内に厳島へ御着肝要候ふべく候ふ、

 

 「解釈」

 厳島で四十貫文を渡さなければならないことを指示した御奉書。天正十年七月四日。

 

 厳島舞楽の奉納がありますので、御段銭から百二十貫文支出することをご相談になり、きちんと内侍方で小早川氏の御師である竹林殿へお渡しにならなけばなりません。したがって、急な件ですので、四十貫文ずつ奉納することが第一でございます。恐々謹言。

 

    くれぐれも、来たる十三日よりも前に、厳島へ費用がご到着になることが大切でございます。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)5

    五 吉川元春書状

 

 去廿五日御状今日廿九拜見候、

          (播磨)

 [  ]州人質之儀、上月一着之上にてハ可返置之由堅約諾候而差出候、付而

 重畳被[  ]可有御推量候、就夫以使者申入候、御方様色々御短息候て、

                (宇喜多)

 黒岩所へも人共被遣内儀御聞候而、直家への御理彼是相しらへられ、此度相調候様

 にと被思食候へ共、此方使被仰聞候所不致分別、得御意候欤、若輩者事候間、然々

 と不申理候ハヽ、其許御事繁も候する、又直家御蹡深々と可有御座候間、

 礑可申由申聞付而不預御気色申候欤、今程彼方此方為使差遣、 為然々者

          (恵瓊)

 不進之候而迷惑候、安国寺岡山への儀を被罷上之由肝心存候、弥被仰登候て

                         (備中)

 可然候、已前之此方使にも申聞候、定而得御意候哉、北賀茂人質を返候事ハ、

            (伊賀家久)

 対景継御遠慮之儀候ハヽ、賀茂へハ不遣候て我等預り可置候条、以此段可被

 仰分通申入候キ、左様なく候へハ、神文辻咲止候、去とてハ直家此方神文数通

 取置候而こそそれを辻ニ諸事被申事候、手前之儀をハ役ニたて人の手前をハ

 役ニ立間敷との儀ハ、余恣之申事候不及沙汰候、百ニ一ツ千一つ分別候ハヽ

 可預御飛脚之由候間、則賀茂へ可申遣候、尚吉事重畳可申述候、恐々謹言、

     天正六年・1578)

       十月廿九日       元春(花押)

      隆景まいる  御返報

 

 「書き下し文」

 去る二十五日御状今日二十九拜見し候ふ、

 〜?〜 州人質の儀、上月一着の上にては返し置くべきの由堅く約諾し候ひて差し出し候ふ、付して重畳 〜?〜 せられ御推量有るべく候ふ、夫れに就き使者を以て申し入れ候ふ、御方様も色々御短息し候ひて、黒岩所へも人どもを遣はされ内儀を御聞き候ひて、直家への御理彼是相調べられ、此の度相調へ候ふ様にと思し食され候へども、此方の使ひ仰せ聞けられ候ふ所分別致さず、御意を得候ふか、若輩者の事に候ふ間、然々と理を申さず候はば、其許の御事繁も候はする、又直家御蹌も深々と御座有るべく候ふ間、礑と申すべき由聞き付け申して御気色に預からず申し候ふか、今程彼方此方使ひとして差し遣はし、然々たらば之を進らせず候ひて迷惑し候ふ、安国寺岡山への儀を罷り上らるるの由肝心と存じ候ふ、弥仰せ登せられ候ひて然るべく候ふ、已前の此方の使ひにも申し聞かせ候ふ、定めて御意を得候ふか、北賀茂の人質を返し候ふ事は、景継に対し御遠慮の儀候はば、賀茂へは遣はさず候ひて我等預り置くべく候ふ条、此の段を以て仰せ分けらるべき通り申し入れ候ひき、左様なく候へば、神文の辻笑止に候ふ、去りとては直家も此方神文数通取り置き候ひてこそそれを辻に諸事申さる事に候ふ、手前の儀をば役にたて人の手前をば役に立つまじとの儀は、余恣の申事に候ひ沙汰に及ばず候ふ、百に一つも千一つも分別し候はば御飛脚に預かるべき由候ふ間、則ち賀茂へ申し遣はすべく候、尚ほ吉事重畳申し述ぶべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 去る二十五日のご書状を今日二十九日に拝見しました。

 〜?〜 州の人質の件であるが、上月城の戦いが決着しうえで返し置かなければならない、と厳格に約束しまして差し出しました。付して重ねがさね 〜?〜 なされご推量にならなければなりません。それについて、使者を遣わして申し入れます。御方様もいろいろとご尽力なさいまして、黒岩の所へも人どもを遣わされ、内々の取り決めをお聞きになりまして、宇喜多直家へのご説明もあれこれと調べられ、今回で調整しますようにとお思いになっています。しかし、こちらの使者に言い聞かせなさいましたことを、私は理解しておりません。お考えを伺えますでしょうか。若輩者ですので、それほど説明し申さないでおりますなら、そちらのことはさまざまなことがございますのでしょう。また宇喜多直家の動きはひっそりと静まりかえっていらっしゃいますので、こちらから強く申し上げるべきだと言っていることを直家は聞き付け申して、毛利輝元様のお考えを聞かずに申し上げているのでしょうか。今ほどあちこちへ使者を派遣し、そのままであるなら、これを差し出さないままで迷惑します。安国寺恵瓊が岡山へお出かけになることが大切だと存じ上げております。ますます岡山に向かわせるようにご命令になることが適切です。以前、こちらの使者にも言い聞かせ申しました。きっと宇喜多直家のお考えを伺えるでしょう。備中国北賀茂の人質を返しますことは、草刈景継に対してご遠慮がありますなら、賀茂へは返さずにおきまして、我らが預り置くつもりでおりますことを、この折に言い聞かせなさるとおりに申し入れました。そうでなければ、起請文の書いた結果がばかばかしいことになります。だからといって、直家もこちらの起請文を数通取り置いておりまして、それを根拠にいろいろなことを申し上げなさることでしょう。こちら(宇喜多側)の起請文を役に立て(〜起請文は信用におけて?)、相手(毛利側)の起請文を役に立てない(〜信用がおけない?)とするのは、あまりに恣意的な訴えで、取り合うまでもございません。百に一つも千一つも取り合いますのなら、ご飛脚を用いてすぐに賀茂へお知らせ申し上げなければなりません。さらに、喜ばしいことを重ねがさね申し述べるつもりです。恐々謹言、

 

*書き下し・解釈ともにさっぱりわかりませんでした。

 

 「注釈」

「上月」

 ─佐用郡上月町上月・荒神山佐用川西岸の標高194メートルの荒神山山頂にある中世の山城跡。荒神山上月城とも称する。通説では荒神山から谷を挟んだ北側の太平山(280メートル)の山頂に築かれていたが、のち荒神山に築城されたとされるが不詳。太平山にも小規模な山城遺構が認められ、太平山上月城の通称が残る。当城は赤松円心の嫡男範資を祖とする赤松七条家が拠ったことから七条城ともいう(天正六年一月二日「羽柴秀吉感状写」生駒家宝簡集など)。一方、「播磨鑑」は築城者を上月景盛とし、赤松氏の一族である上月氏が在城したと記す。荒神山東麓を古山陽道山野里宿(現上郡町)で分岐して、佐用村(現佐用町)へ至る道が通り、また地内で北西に分かれ美作国境の杉坂峠に出る道も通っていた。天正五年(1577)一一月二七日、城主赤松政範が毛利方であったことから、羽柴秀吉勢に城を囲まれた。そして後詰に駆けつけた毛利方の宇喜多勢が敗退し、水の手を絶たれ、三重の鹿垣を結いめぐらされて攻められ、一二月三日に落城する。このとき秀吉は降伏を許さず「女子供二百余人、備・作・播州三ケ国之堺目ニ、子ともをハくしニさし、女をハはた物ニかけならへ」たという(同年一二月五日「羽柴秀吉書状」下村文書)。この惨状ののちに入城したのが出雲尼子氏の遺臣山中鹿介である(同書状)。しかし同六年四月中旬には、織田方の撤退によって孤立した当城は逆に毛利勢に囲まれ、籠城の末落城した(七月一八日「足利義昭御内書」吉川家文書など)。この戦いの後、佐用郡の中心は利神城(現佐用町)に移ったようで、当城はほどなく廃城となった。遺構は頂上の二ヵ所の郭を中心に尾根筋や斜面にも郭を配置する。しかし各郭とも大規模なものはなく、防御施設も西側に二重、北側に一重の堀切が認められるのみである(『兵庫県の地名Ⅱ』平凡社)。

 

「北賀茂」─現津山市加茂町のことか。

小室直樹著書

小室直樹『危機の構造〔増補〕 ─日本社会崩壊のモデル─』(ダイヤモンド社、1982年、初版1976年)

 

 *単なる備忘録なので、閲覧・検索には適していません。

 また、誤字・脱字の訂正もしていません。

 

第五章 危機の構造

P142

 しばしば論じてきたように、現代日本においては、企業や官庁や学校などという機能集団が同時に共同体となる。これこそ現代日本最大の組織的特徴であり、また、現代日本社会の「機軸」であるといえる。

 年功序列や企業間移動の困難さなど、日本社会の構造的特色だと思っている人が多い。だが、社会学的に分析してみると、決してそうではないことがわかる。(中略)

 そもそも、年功序列制や集団間移動の困難さなどは、共同体の特徴であって、日本社会の特徴ではない。アメリカであろうとどこであろうと、共同体においては、これらの特徴はみられるのである。

 しかし、一般的にいって、アメリカなどの近代社会においては、普通、機能集団と共同体とは分化する傾向がみられる。つまり、宗教共同体、人種共同体、地域共同体などが、企業などの機能集団と重なることはなくなってゆく傾向が一般的で有る。

 ところが、戦後の日本においては、これと正反対の現象がみられる。つまり、企業、官庁、学校などという機能集団が、そのまま、共同体を形成するようになってきたのである。

 

 →前近代も機能集団と共同体は一致していたのではないか。たとえば、武士の家は戦闘を目的とした機能集団であると同時に、惣領とその家族を中核に据えた共同体が拡大したものと呼べそうだ。

 

 

P144

 アノミーとは、無規範(状態)あるいは無規制と訳されることが多いが、直訳ではなくて意訳をしてみると、むしろ、無連帯(状態)とでも訳すべきか。いずれにせよ、このような社会的状態だけでなく、それによって生ずる心理的な危機をもあわせ意味するのが従来の用語法における慣用である。アノミー概念は、社会学の始祖デュルケムによって提案されたものであり、その後多くの社会科学者によって展開せしめられ、現在では、政治学および社会学における最も有効な分析用具となっている。その後の展開のうち、ディグレイジァによるそれが注目に値しよう。彼は、規範の全面的解体を意味する急性アノミーと、規範の葛藤を意味する単純アノミーとを区別した。これらは、それぞれ、次のようなものである。

 ⑴ 単純アノミー。これは、すでにデュルケムによって定式化されている。かつて、デュルケムは自殺について研究した。まず彼は、経済恐慌時のように、急激に生活が悪化したときに自殺率が上昇することを確認した。このことを説明することは容易であろう。しかし経済繁栄時のように、急激に生活が向上したときにも自殺率が上昇することが発見された。この思いがけない発見について、彼は次のように説明する。すなわち、急激な生活の変化に適応することは、それが生活向上の場合でさえも、著しく困難であるからである、と。その理由について彼は、さらに次のように論ずる。一般に、人間の欲望は無限であるにもかかわらず、常に有限の充足しか得られないから、社会的歯止めが必要となる。この歯止めの機能を果たすのが規範である。規範により無限の欲望が制約を課せられ、人は足ることを知るようになる。この意味で規範は、心理的安定の条件でもある。ところで、経済の繁栄によって生活水準が上昇すれば、さらに高い生活水準が要求されるようになり、その充足の困難性はますます増大するであろう。他方、生活水準の上昇は新環境への適応を要求する。しかも、各水準の生活はそれぞれのレヴェルにおいて欲望を制御する規範を有し、異なるレヴェルの生活に対応する規範は、それぞれ内容を異にする。ゆえに、新生活水準によっていて規定される新環境への適応は新規範の需要を必要とするが、この新規範は旧生活水準における旧規範とは内容を異にするであろう。かくて、新旧両規範の間の葛藤は不可避となる。

 これが、デュルケムによって示された単純アノミーの発生過程である。ところが、この規範葛藤は、激しい心理的緊張を生む。人間はこのような心理的緊張に永く耐えることはできない。精神病、破壊行動の全面化からさらに、自殺に追い込まれることもありうる。

 

 ⑵ 急性アノミー。これは、簡単にいえば、信頼しきっていた者に裏切られることによって生ずる致命的打撃を原因とし、これによる心理的パニックが全体社会的規模で現れることにより、社会における規模が全面的に解体した状態をいう。このことを、体系的に説明すると次のようになる。社会において権威ある権力が成立し、秩序が保たれるためには、実力的威嚇のほかに、情緒的保護による心理的安定が保たれなければならない。とくに重要であるのは後者である。この心理的安定が保たれるためには、心理的関係として、「権力者とその支持者との間にいわばそうむけいやく」がなければならない。すなわち、「服従する側では、権力の定めるルールにかなった畏敬と服従とを提供し、これに対して、権力の側では、秩序を維持し生存を可能に─あるいは豊かに─して与える、というのがこの双務契約の内容である。もし服従する側がこの契約に違反すれば、服従する側の心理には、不安や安心の呵責が生まれ、もし権力の側がこの契約に違反すれば、服従する側の心理に『唯一の正しい秩序』の崩壊、宇宙の秩序と宇宙の中における自分の正当なあり場所との喪失、という混乱感が生まれる」のである。このことの帰結としての規範の全面的解体を急性アノミーという。ひとは、このような状態に永く耐えることは不可能であり、急性アノミーは、自殺、精神病、破壊性の奔出のような形で収拾されざるをえない。

 ⑶ 複合アノミーと原子アノミー。単純アノミーと急性アノミーとは、すでに従来の社会科学において定式化されたものである。これらの両概念は、本稿においても重要な分析的役割を演ずるが、現代日本における危機的状況を十分に分析するためには、これら両者のみでは不十分である。十分な分析を行なうために案出されたのが表記の二概念である。複合アノミーとは、現代日本のように、多くの規範システムが構造化されず、それぞれの断片としてのみ存在している場合に、かかる状況における情報効果によって生ずるアノミーである。また、原子アノミーとは、複合アノミーを前提とし、これが日本社会のように、「所有」が社会的文脈から分解不能であることによって生ずるアノミーである。なお、これら両者については、後に詳論する(一六六〜一七二ページ参照)。

 構造的アノミー 右に、とくに重要な四つのアノミー概念について論じたが、その発生源については触れなかった。それらは社会システムの外から侵入することもあろうし、社会システムの中にその原因を見出すこともあろう。とくに動学的に重要であると思われるのは、社会構造がアノミーを再生産するような作動過程の原理を内包している場合である。このような原理によって造出されるアノミーを構造的アノミーという。

 

P147

 さて、右の諸概念を用いて、現代日本の危機構造を分析しよう。

 現代日本における急性アノミーは、社会を根底からくつがえす契機を内包しているが、その源泉は、①天皇人間宣言、②デモクラシー神話の崩壊、③共産主義神話の崩壊、の三者である。もとより、最も致命的であるのは①であり、②も③も、①の原形をたどりつつ急性アノミーに導かれたことに注目されるべきである。つまり、戦後デモクラシーも共産主義も、天皇人間宣言によって「失われた秩序の再確立」を目指したものではあったが、そのために必要な条件が満たされず、同様な過程をたどりつつ(逆コース。スターリン批判および中ソ論争)崩壊したと思われる(本項では、この点に関する分析省略)。ゆえに、以下では①に焦点を合わせて分析を進める。

 戦前の日本において、「象徴としての『天皇』は、或いは、『神』として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として超出し、或いは又、温情に溢れた最大最高の『家父』として人間生活の情緒の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する。しかし又その間にあって、『天皇』は政治的主権者として万能の『君権』を意味していた」のである。ゆえに、天皇人間宣言は、根本規範の否定であり、全宇宙の秩序の崩壊である。そのことによって生じた急性アノミーは致命的なものとならざるをえない。そこで、頂点における天皇シンボルの崩壊によって、「国民の国家意識は、……その古巣へ、つまり社会構造の底辺をなす家族・村落・地方的小集団のなかに還流」することになる。このことによってのみ、致命的な急性アノミーによって生じた「孤立感と無力感を癒し」、「大衆の心理空白を充たす」ことが可能であるからである。いかにも、村落共同体(およびそれを原形としてつくられた集団)こそ、底辺から天皇制を支えた日本の基底であった。

 ところが、村落共同体もまた安住の地ではありえない。すでに村落共同体は、身分秩序と共同体的生産様式に内在する矛盾の展開により解体の危機に直面していたが、終戦とともに、確実に解体を開始する。そして、この解体過程を全面的なものとし決定的に加速化したものこそ、高度経済成長のスタートである。

 

P149

 解体した村落共同体にかわって、組織とくに機能集団が運命共同体的性格を帯びることになる。これを、共同体的機能集団と呼ぶ。このことこそ、現代日本の最大の組織的特徴であり、現代の危機構造も、かかる社会学的特徴をもった共同体的機能集団の独特な運動法則によって規定される。

 この、共同体的機能集団こそ、大日本帝国の組織的特徴たる頂点における天皇制的官僚機構と、底辺における(村落)共同体的構造とを再編し、一つに統合するものである。

 

 →運命共同体的機能集団は、日本の場合、前近代社会でも一般的に見られたのではないか。公家・武家・寺家だけでなく、商人・職人の徒弟制度なども、まさに「イエ」という共同体の拡大ではないか。

 

P150

 現在においては、共同体的身分秩序と資本主義的機能集団(としての要請)という相互に矛盾した景気の微妙な均衡は、この共同体的機能集団という同一の集団に基礎をおくこととなる。

 官庁、学校、企業などの機能集団は、同時に生活共同体であり、運命共同体である。各成員は、あたかも「新しく生まれたかのごとく」この共同体に加入し、ひとたび加入した以上、他の共同体に移住することは著しく困難である。しかも、彼らは、この共同体を離れては生活の資が得られないだけでなく、社会的生活を営むことすら困難である。かくて、共同体は、各成員の全人格を吸収しつくし、個人の析出は、著しく困難なものとならざるをえなくなる。

 

P151

 このような共同体構成からくる社会学的帰結は、第一には、二重規範の形成であり、第二には、共同体が自然現象のごとく所与なものと見えてくることである。このことにこそ実に、既述の盲目的予定調和説的行動を生んだ社会的基盤であるとともに、後に論ずるように、両者は相互に補強しあいつつ、特殊日本的行動様式の構造的特徴を再生産するものであると思われる。

 すでに述べたように、内外が峻別され共同体が各成員のパースナリティを吸収しつくすことにより、共同体独自のサブカルチャーはますます進化し、彼らのパースナリティ構成までこのサブカルチャーによって再編されることになる。かくて、共同体外とのコミュニケーションは、マスコミの介在により外面的には頻繁でありながら、その内実においては、ますます無意味なものとなる。このようにして、外部に対する鋭い関心を喪失することと比例して、各成員の主要関心は共同体内部にのみ集中し、共同体組織は天然現象のごとく所与不動のものと見えてくる。そして、このことからの当然の結果として、共同体における規範、慣行、前例などは、もはや意識的改正の対象とはみなされず、あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求されるようになる。とくに共同体の機能的必要は絶対視され、その達成のために全成員の無条件の献身が要求されるようになる。

 

 →「共同体が各成員のパースナリティを吸収する」というのは、共同体にとって各成員は、共同体構成員としての特徴を備えていれば(与えられた役割をその通りに演じていれば)よいだけで、個性的である必要性はないということか。また、「共同体独自のサブカルチャーはますます進化し、彼らのパースナリティ構成までこのサブカルチャーによって再編される」というのは、その共同体でしか通用しない特有の文化(サブカルチャー)の発展によって、共同体内での役割が明確化し、その役割を与えられた各成員がそれを自身の個性だとみなすようになる、ということか。

 前近代の社会も同様であり、共同体間・集団間を移動しにくいからこそ、そこでの役割を適切に演じることを重視せざるをえなくなり、自身の命を手段・方法とみなしてしまう思考になってしまうのではないか。移動しやすい時代と移動しにくい時代、たとえば戦乱期と安定期では、自殺率や自殺の理由が変化するのではないか。

 

P152

 このような社会学的背景において、前述の盲目的予定調和説的行動が作動するとき、それは直ちに技術信仰に結びつく。すなわち、自己が所属する海軍、通産省、企業、赤軍などの共同体の機能的要請は絶対視され、それを達成するための技術は、社会分業における役割遂行のための手段とはみなされず、日本国存立(革命達成)のための条件として物神的に崇拝されるにいたる。したがってこの技術発揚という神聖なる任務遂行を妨害する徒輩は、許すべからざる国賊(人民の敵)であるということになり、彼らの批判に対して向けられるのは、反批判ではなく、「反逆者への怒り」である。(中略)。

 

 ところで、右に述べたような(共同体の機能的要請を達成するための)技術を信仰する人びとは、いかなる意味においても、自らを権威とする決断主体ではありえない。ゆえに、彼らがリーダーとして決断を迫られれば当惑せざるをえない。このとき救いとなるのは、彼らが所属する共同体の機能的要請である。その達成は神聖なる任務ではなかったか。ゆえに、彼にとって、この神聖なる任務を遂行する以外に、いかなる決断を下しえようか。かくて、決断の責任が漠然とした使命感の中に解消するとともに、この決断がいかに特殊なものであり、多くの選択肢の中の一つの選択に過ぎないことが意識にのぼらなくなる。したがって、この選択に対する責任が背後に押しやられ、ついにするごく意識化されなくなることによって、この神聖なる所与に向けられた批判に対しては、本能的な全身をつらぬく「聖なる怒り」が向けられることになる。このようにして、いわば体質的であった批判拒否症は、規範性を獲得しついに宗教的正当性を具有するまでに高められるのである。ところで、この「規範性」は、共同体の機能的要請に依拠することからも明らかなように、客観的な判定基準を有せず、きわめて状況的、流動的である。ゆえにそれは、合理的制御の可能性を有せず、情緒を通じての無限の恣意性の流入を阻止しえない。

 

 →「神聖なる」という認識であったかどうかまでは、言い切れないのではないか。言葉の使用には注意が必要。

 「宗教的正当性」とは、神への批判を許さない、絶対的に信じるという感覚のことか。

 

P156

 しかし、さらにそれ(アノミー)を深刻ならしめる理由として、生活変化における非対称的二重構造に注意しなければならない。つまり、一方では自動車、カラーテレビなど十数年前には高嶺の花であった商品が容易に入手できるようになるほど生活水準のある側面が上昇する反面、他の側面は、住宅不足、公害、交通地獄などによって、シビル・ミニマムの維持すら困難になる程下落しているのである。このような生活水準の構造的変化に際しては、ひとはこれを消費生活の上昇と感ずべきかどうかとまどい、心理的不安は著しいものとなる。また、インフレによる物価上昇もこのような二重構造を有するため、実際の物価上昇率以上に痛切に感じられることになる。たとえば、高級ウイスキーやカセットテープが値下げになっても、豆腐や風呂代が値上がりするとき、たとえ物価指数計算の上で両者がバランスしたとしても、人びとの感覚においては、前者は後者の埋め合わせになるとは感じられないであろう。この理由によってインフレは、「生活水準」を全体としては下落させない場合においてすら、生活そのものに対する挑戦と受け取られることになり、本能的拒否反応と心理的不安とを生む。これらの意味において、「生活の上昇」による新環境への適応は、想像にあまる困難なものとならざるをえない。

 以上が現代わが国における単純アノミーの分析である。われわれが対決を迫られている構造的アノミーは、単純アノミーの段階においてすら、非対称的二重構造に裏打ちされて、右のように史上類例を見ないような特異なものとなっていることに注意されなければならない。ところが構造的アノミーは、これにとどまるような生易しいものではない。

 

P157

 高度成長の結果、まず、経済財の意味が根本的に変わる。すなわち、生活水準が低い間は、経済財は、もっぱら、物的欲望達成のために求められる。しかし、生活水準が高まるにつれ、物的欲望の比重は低下し、社会的欲望の重要性が増大し、経済財といえども、その物的欲望のゆえにではなく、社会的欲望のゆえに求められる。この場合には、デモンストレーション効果が中心的役割を演ずる。

 金持ちと貧乏人との間に、衣食住のような基本的欲求充足の程度に大きな差異が見られるのは、所得水準が比較的低い国においてである。現在アメリカでは、食については、貧乏人も、かなりの大金持もほとんど差がないといえるであろう。(中略)住居についてはもちろん大きな差異がみられるが、家もある程度以上になると、住みごこちのよさ(residential comfortability)よりも威信(prestige)のような社会的欲望によって求められる比重が大きくなるであろう。

 

P158

 さて、以上はアメリカの話であるが、近い将来、日本も高度成長の結果このようになるであろう。すなわち、経済財は主に、社会的欲望によって求められるようになる。そうすると、デモンストレーション効果(demonstration effect)が中心的役割を演ずるようになる。このことは、電気洗濯機、テレビ、自動車などの耐久消費財の普及過程を思い出すと容易に理解できるであろう。周知のように、隣人、知人などが買ったという理由が、この場合、最大の購買動機になっている。このことは、自動車のモデルチェンジ、衣服における流行などを考えても容易に理解されようが、この傾向が極端にまで進むと、財はすべてそのデモンストレーション効果のゆえに求められるようになる。

 

P159

 現在にあっては、効用関数は所与ではなく、コミュニケーションによって改造され、創作される。現在の消費者は、商品のイメージを消費するといわれるが、商品そのものの品質よりも、イメージがより重要視されるようになってきた。つまり、はじめに効用ありき、という伝統的思考法にかわって、効用はイメージによって創作されるとの思考法によらなければ現実は説明しがたくなりつつある。ここにも従来の経済理論は限界を見出し修正を迫られている。イメージの創出過程とイメージによる効用決定課程を分析しえない経済理論は、現在ではあまり意味がない。

 すでにデモンストレーション効果や、ラチェット効果(ratchet effect)─過去の最高消費水準によって、現在の効用の高いか低いかが左右されること─の重視は、経済理論の内部においてみられたが、現在ではむしろこれらの効果こそ、消費を決定する中心的要因なのであって、これらを伝統的思考法に対する修正因子とみるには、あまりにもその重要性が増加している。

 

P161

 デモンストレーション効果も、アメリカの場合には、零次の同次性を持つといわれている。つまり、各人の効用(財やサービスの消費によって得られる満足度)の高さは、自分の消費だけ(絶対的消費水準)によって決まるのではなく、他人の消費との間の相対比によって決まるのであるが、零次の同次性が成立する場合には、自分より高い消費水準の人びとの生活をみることによって自分の効用が低められる半面、より低い消費水準の人びとの生活をみることによって自分の効用は高められる。

 

 →他者の消費生活を見ることによって、自分の効用も変動する。

 

しかし、日本独特の共同体構造は、このような対称性をもたらさない。共同体の内外は峻別されるから、共同体外にどんな消費水準の低い人があっても比較の対象にはならない。他方、機能集団としての共同体は、各成員の人格のすべてを吸収しつくしてしまっているから、共同体内における人間関係は全人格的なものとならざるをえない。したがって、共同体的基準が要求する最低の消費水準は、共同体内での地位を維持するため不可欠である。それどころか、共同体における地位を離れて社会的存在はありえないから、このことは、社会的存在維持のための不可欠の条件でもある。ところで、極度に発達したマスコミによって理念化された高水準の消費は、繰り返し宣伝されることによって比較の基準となり達成目標を与えることになる。

 このように、日本におけるデモンストレーション効果は非対称的なものであり、下にガッチリと歯止めが付されている半面、上には歯止めはなく、上限は常に上昇の可能性を含む。消費水準上昇の必然的傾向は、構造的に内包されているといえよう、そして、この下の歯止めと上方における比較基準とは、双方とも、高度成長の結果、普段に上昇する。

 

 →最低の消費水準も上昇すれば、理念化された高水準の消費水準も上昇する。つまり、高度成長は、常に上昇することを要求しつづける。

 

 このようにして、常に加速化されつつある高水準の消費は、一種の社会的義務となり、たえず遂行を迫られる。この恒常的に上昇する消費生活を維持するため、日本人は必死になって働かなければならない。この必死の労働への要請は、泥沼のようなアノミー状況と日本経済の共同体的特性のもとにおいては、容易に無限の献身に転化する。深刻なアノミー状況において、「宇宙の中で失われた自己の位置」を再発見する一つの有力な方法は、すべてを忘れてガムシャラに馬車馬のごとく働くことである。

 

P163

 そもそも、欧米型の資本主義社会においては、労働力は商品である。労働者はそれを最も有利な取引において売っただけのことである。したがって、生活水準が高まり、レジャーが上級財となれば、労働力の供給は減少する。しかし、労働者が共同体に丸ごと召し抱えられた日本においては、事情は根本的に異なる。労働と労働力とは分化せず、企業共同体の支配は、従業員の全人格に及ぶ。しかもこの「全人格」は、共同体に吸収されつくしているから、共同体の組織的要請はまさに根本規範である。たとえば、現代日本においては、レジャーさえも一種の義務のごとく、ステレオ化された集団行動によって費やされるから、労働とレジャーとの境界は明確ではない。

 

 →生活水準が高まってお金が余り、余暇がみなの望む高級財となれば、余暇の消費に時間と金を使うようになるから、労働力は減少する。だが日本の場合、労働力の提供のみならず、会社への忠誠や規範への従順さも求められる。労働とレジャーとの境界が明確でないという事例としては、休日を自己啓発の時間に使うように求められたことなどが当たるか。

 

 かくて、企業の側における組織的要請が従業員の側における必死の労働への要請と合致するとき、それは直ちに、無限の献身への要求に転化する。このようにしてエコノミック・アニマルが誕生する。それが、欧米型資本主義社会における労働者の理想像とどれほどかけはなれているかは明らかであろう。必死になって働いて、車も買った、ゴルフ用具も買った、モーターボートも買った。しかし、これらをどう楽しんでよいのか用途もわからない。これは、マンガというよりも、見事にエコノミック・アニマルの本質を衝いている。

 

P164

 このようにして、高度成長による消費水準の上昇は、さらにいっそうの上昇への衝動を生むだけであって、なんら満足度の上昇を生まない。働いても働いても生活は楽にならないという感覚は、急速な消費水準の上昇にもかかわらず、というよりも、それによってますます拡大再生産される。もっとわるいことに、消費の変化は、単純な上昇ではなく、前述のように非対称的である(つまり、他面における下落を伴う。ひとは、従来享受してきた製品に新製品享受の可能性が加わるとき、消費水準の上昇を実感するであろう。そうでなく、享受可能性そのものが根本的に変化した場合には、これを消費水準の上昇とみなすべきであるかどうか、とまどうであろう)。物価上昇も、このタイプであることにより、物価指数の上昇以上に痛切に感じられる(すなわち、クーラーや高級ウイスキーが値下げになっても、豆腐や風呂代が値上がりするとき、人々の感覚においては、前者は後者の埋め合わせになるとは感じられないであろう)。

 かくて、アノミー状況は、高度経済成長と互いに育成しあいつつ、無限に拡大再生産される。ゆえに、新環境に対する再適応と新規範の受容という困難な作業は、すべての人びとに強制される。しかもこの強制は、一度だけでなく、繰り返し何度でも、定常的に行われることになる。

 

P165

 デュルケムが分析したように、アノミーからの帰結の一つは自殺である。しかし、別の帰結もある。破壊衝動である。ひとは、アノミーによって生ずる恐ろしい心理的混乱から逃れるため、爆発的破壊衝動を発動せしめる。現在日本に蔓延する不気味な破壊衝動は、深刻なアノミー状況を雄弁に物語る。それはいつ爆発するかしれず、点火を待っている。

 

P166

 現代日本における規範状況の特徴は、多くの規範システムが併存して体系化されず、それらの断片がバラバラのままに放置されていることにある。(中略)

 この規範状況からの第一の帰結は、規範的行動における非対称性である。規範がまとまったシステムとして構造化されている場合には、必ずカウンター・バランスするようなサブシステムが発生する。たとえば、親分子分の関係において、子分の側において「白いものを黒い」といわれても服従することが要求される反面には、親分も親分として必要な修行を積むことが要求される。これが不足すると「親分の器でない」として地位が危ないのである。そのほか、西欧にける権利と義務、貴族社会におけるノブレス・オブリッジなど、このカウンター・バランスの例である。これがあってはじめて、規範は社会において有効に機能しうる。ところが、各規範が断片としてのみ存在している場合には、ひとは「自分に都合のよい」断片のみを享受し、これとカウンター・バランスするサブシステムを棄ててかえりみないことになる。かくて、子分に無理のみを要求して立場や気持などを思いやってくれない親分、義務を忘れ権利のみを主張する若者、特権のみを享受して責務を引き受けようとしないエリートなどが群生するようになる。このことからの必然の帰結として、巨大な「責任の真空地帯」が発生する。それは、だれかが生さなければならないことではあるが、だれの責任であるか明確でない領域である。この場合には、責任のなすりあいすら不可能である。その理由は、この責任領域の対極にある社会的利益を保証する規範の断片はあまりにも多種多様であるため、どれがどれに対応するか識別不可能であるからである。

 

 →戦国時代の大名対家臣の構図のよう。カウンター・バランスは、地域の問題ではなく、各時代のパワーバランスの問題にすぎないのか。

 また、規範の断片とは、権利のみを主張し、義務を果たさないこととほぼ同様のことか。自分にとって都合のよい規範の断片を集めて、自分にとって都合のよい規範を作り上げているが、それに対するカウンターノーム(規範)がないため、自己規制が働かないということ。

 

P167

 かくて人びとは、自己においてはこの巨大な責任の一端をも引き受けることを拒否するとともに、「どこか間違った人びととの大海」にかこまれているような疎外感にさいなまれることになる。

 

P168

 このことから、さらに次の第二の帰結が導かれる。それは一般的正当化の可能性である。すなわち人々は、各規範の断片を適当につなぎ合わせることによって、いかなる行動をも正当化しうるようになる。しかも一般に、かかる行動は、共同体の機能的要請から発せられ、独自のサブカルチャーに心情的根拠を有するために、行動者にとってはあまりにも自明であると同時に、外部の者にとっては了解不可能なものである。ゆえに、この「規範の断片のつなぎ合わせ」は、当事者にとっては疑う余地のないほど正当に見えるにもかかわらず、他人には想像を絶するデタラメに見えてくる。これは、単なる断層などという生易しいものではない。お互いにとってそれぞれの相手は、一方では、明確に存在する断層を認めようとしないだけでなく、他方では、断層とはとてもいえないものを「越えがたい断層である」として騒ぎ回っている奇妙な人種に見えてくるからである。そして、この相手は、自明のことすら理解しえないだけでなく、こちらとしては絶対に容認できない不合理な主張をなんべんでも繰り返して押しつけてくる“言語道断な暴力人間”にみえてくるであろう。こうなれば、人びとの疎外感は、「この宇宙の中に身のおき場所がなくなる」どころではなく、宇宙そのものの消滅感となって迫ってくるであろう。このようなディスコミュニケーションによる規範の錯綜を、複合アノミーという。とくに既述の共同体的規範状況、すなわち客観的判定基準を有せず、情緒を通じて無限の恣意性の流入が可能であるような規範状況において複合アノミーが作動するとき、情緒を共有しない人々との間においては、相手の行動はお互いに全くナンセンスにみえてくる。たとえば、大学紛争の団交において、教授の言は学生には全くナンセンスであったが、学生の主張もまた教授にはナンセンスであった。このようにして、規範的正当性は、きわめて不安定な情緒の大海の中にことごとく見失われてしまうことになる。

 

 →安倍派の裏金問題もそうであるし、プーチンウクライナ侵攻の思想的背景や、ハマスイスラエルの戦争も、すべて複合アノミーが原因になっている。

とくに、トランプによる分断現象などは、まさにお互いの理屈が通用しない、情緒のみの応酬になっている。この主張は、日本だけを分析対象にしているが、日本だけの問題ではない。

 

P169

 川島武宜教授が指摘したように、また後に詳論するように(179ページ参照)日本社会における「所有」概念は独特のものであって、西欧型の近代資本主義社会におけるそれと著しく社会学的意味を異にする。

 近代資本主義社会における「所有」の社会学的特徴は、その抽象性にある。たとえば、現実にその「物」が手許にないことは、全く所有権の有無に影響を及ぼさないのである。

 日本では、「所有」は抽象的ではなく、たえず状況に左右されるから、その「物」を実際に保有している者は、なんらかの意味での「所有権」を有するようになる。たとえば、「役得」「社用族」などは、このことからの必然的帰結である。欧米人の倫理感覚からすれば、「株主の金をみさかいもなく私用に流用するような人物」は、それだけで信用がおけないことになるであろうが、日本においては、必ずしもそうは思われていない。その理由は、会社は株主だけの占有物であるとは考えられていないからである。会社は、株主のものであると同時に、経営者のものであり、従業員のものでもある。従業員の家族のものでさえある。しかも、だれがどこまでこれを所有し処分権を有するかに関しては、その境界は明確ではなく一義的でもない。会社はみんなものであるとともに、この「みんな」は、それぞれの状況に応じてこれを享受し処分しうることになる。ゆえに、それは状況に応じて無制限に拡張されうる契機を有する反面、「権利」として確立されたものではない。

 このような法則は、企業だけでなく、あらゆる共同体的機能集団(機能集団としての共同体)において働く。

 

P170

 ところで、すでにみたことから明らかなように、共同体的組織状況において複合アノミーが作動するとき、ひとは結局、情緒を共有し「本当に気心の知れたグループ」の中にしか安住の地を見出し得なくなる。しかも、当然このグループはきわめて小さいから、この小さなグループを単位として「内外が峻別」されることになる。そしてこの小さなグループにおいて右に述べた法則が働くとき、このグループは成員の私有物と感じられ自我との同一視が進む。そして、内外が峻別されることによって生じた断層が、批判拒否症が宗教的規範性を獲得するという既述の社会過程に投入されるとき、右の同一視によってこの小グループはトーテム的に機構信仰の対象となる。さらに、この過程の前提とされる複合アノミーが真正の「正当性」に基礎をおかず、ある「許容範囲」に基礎をおくようになるとき、この小グループ内外のディスコミュニケーションはほとんど絶望的となる。

 

 →P170真ん中の「このような法則」と「右に述べた法則」は、「公私混淆」と言い換えてよいか。

 

P171

 そもそも、規範は必ずしも完全な遵守を要求せず、許容範囲(お目こぼしの幅)を有する。これを下位規範というが、右の小グループのように、規範的判定の基礎を情緒におく場合には、情緒を共有しないグループの間における下位規範の相互理解は、絶望的に困難である。すなわち、情緒を共有する仲間の間では「これぐらいのこと」として通ることが、外からは「とんでもないこと」にみえる。たとえば、代議士にとっては生活必需品である政治献金という名前の「賄賂」は、大学教授には厚顔無恥な行為にみえ、逆に、代議士には、「過激派」学生を教育しえないような大学教授には教育者としての資格はないように思える。かくて、各小グループは、単に規範の解釈を恣意的なまでにことにするだけでなく、お互いに自己の理想を基準として相手の「おめこぼし」レヴェルの行為を評価することによって、お互いに相手が言語道断な人間にみえてくる。ヤングにとって「大人」が信用できなくなるのと同時に、大人にとっては、「現在の若者は外国人と思え」ということになる。年齢による断層だけでなく、政治家、知識人、実業家などの間の相互不信、さらに細分化されたグループ間の断層は、このようにしてはてしなく進む。かくて、すべての人が、「何をするかわからない言語道断な不徳漢の大海にかこまれた孤島に住むような心理」となり、疎外感は極点に達する。このような規範の粉末化を、原子アノミーという。

 

 →SNSの炎上の説明がよくできている。

 

P172

 この原子アノミーは、もし収拾されうるとすれば、小グループにおける機構信仰によるほかにないのであるが、この小グループは、日本社会の構造的特徴からして、他のグループと縦に連結している。そして、右に述べた原子アノミー社会学的特徴からして当然に、この小グループの成員は、より上のグループの言語道断な横暴に対して「聖なる怒り」を爆発せしめるであろう。しかもこのことは、より上のグループにとっては、理由なき反抗であり、ゆるすべからざるわがままにみえる。ゆえに、断固弾圧あるのみである。さらに、このディスコミュニケーションにもとづく闘争はより下のグループとの間にもくりひろげられる。

 はたして、各グループは、それぞれの機能的要請の命ずるところに従ってより上のグループに対しては、はてしなき反乱を続けるとともに、より下のグループに対しては、問答無用の弾圧を加えることになる。これをセルローズ・ファシズムという(そもそもファシズムの本質は、ドグマではなく、集団の機能的要請にもとづいて行動するにある)。かくて各社会集団間の機能的協同は絶え、社会は解体への道を進むことになる。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)3・4

    三 穂田元清書状

 

 此状自吉田只今罷越候、則明日人を差返候条、御返事させられ候て可被下

 候へく候、恐惶かしく、

       八月九日         元清(花押)

 (捻封ウハ書)

 「                  四郎

        隆景様まいる人々御中  元清」

 

 「書き下し文」

 此の状吉田より只今罷り越し候ふ、則ち明日人を差し返し候ふ条、御返事させられ候ひて下さるべく候ふべく候ふ、恐惶かしく、

 

 「解釈」

 この書状はたった今、吉田から参りました。そこで明日隆景様は、使者を差し戻しますことをお返事になりまして、それをお与えくださいませ。恐惶かしく、

 

 

 

    四 廣尊隆亮連署書状(折紙)

 

   現形衆之書立御見せ候、御懇之儀ニ候、留申候、

                  (備中)

 昨日廿一御折帋今日申尅到来拜見候、松山儀内々以御調略之旨、竹井宗左衛門尉・

 三村兵部丞・同名助左衛門尉以下致現形、天神丸大松山御仕取之由、誠御太利尤

 目出候、小松山□ニ可為落去候、早々被仰聞候、恐悦ニ候、廣尊事頓可罷出之通

 存其旨候、御吉事重畳可申承候、恐々謹言、

      天正三年・1575)

       五月廿二日     太郎廣尊(花押)

               (三吉)

                 安房隆亮(花押)

    (小早川)

     隆景

    (福原)   御返報

     貞俊参

 

 「書き下し文」

 昨日二十一御折紙今日申の尅に到来し拜見し候ふ、松山の儀内々に御調略の旨を以て、竹井宗左衛門尉・三村兵部丞・同名助左衛門尉以下現形致し、天神丸・大松山御仕え取るの由、誠に御多利尤も目出候ふ、小松山□に落去と為るべく候ふ、早々仰せ聞きけられ候ふ、恐悦に候ふ、廣尊の事頓に罷り出づべきの通り其の旨を存じ候ふ、御吉事重畳申し承るべく候ふ、恐々謹言、

   現形衆の書立御見せ候ふ、御懇の儀に候ふ、留め申し候ふ、

 

 「解釈」

 昨日五月二十一日の御折紙が、今日申の刻に到来し拝見しました。備中松山城の件ですが、内々にご調略になるという戦略によって、竹井宗左衛門尉・三村兵部丞・三村助左衛門尉以下が裏切り、天神丸・大松山も奪い取り申し上げたことは、誠に大きなご成果であり、たいそう喜ばしいことです。小松山もすぐに落城となるにちがいありません。すぐにわれわれへお伝えくださいましたことを、たいそう喜んでおります。廣尊はすぐにそちらへ出向き申し上げなければならないと存じております。このうえなくおめでたいことをうかがうつもりです。恐々謹言。

   裏切った衆の目録を我々にお見せになりましたことは、ご親切なことでございます。目録はこちらに留め申し上げます。

 

 「注釈」

松山城

 ─現高梁市内山下。高梁市街地の北方にそびえる臥牛山頂の小松山にある山城跡。天守閣の現存する山城としては日本で最高峰(標高460メートル)にある城として知られる。

 松山城承久の乱後、新補地頭として有漢郷(現上房郡有漢町)に来住した相模国三浦市一族と伝える秋庭三郎重信が延応二年(1240)に臥牛山のうち大松山に築城したのが創始と伝えられる(備中誌)。その後、小松山にも出城が築かれ、元弘年中(1331─34)には大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟大五郎が居城していたというが(備中誌)、元弘三年五月北条仲時に従って東上した宗康とその子又四郎範時は近江国で仲時に殉じて寺外した(「太平記」巻九)。高橋氏はその後窪谷郡流山城(現倉敷市)に転じたと伝え、正平一〇年(1355)には備中守護高師秀が入場した。同一七年、南朝方の山名時氏が山陰から美作・備中に進出してくると、師秀は時氏麾下の多治目(多治部)・楢崎両氏と結んだ秋葉三郎信盛によって「松山ノ城」を追われ、備中徳倉城(現御津郡御津町)へ退き(「太平記巻三八」)、以後松山城には六代にわたって秋葉氏が在城し、守護代を勤めた。守護細川氏はおおむね在京していたために、当城が備中北部における守護所の機能を果たしていたと思われる。

 応仁の乱では、秋葉元明細川勝元に属して京都洛東の岩倉山に陣を構え、山名方の軍勢を打ち破っているが(「応仁別記」)、やがて秋葉氏の勢力は衰え、永正年中(1504─21)には下道郡下原郷(現総社市)の鬼邑山(木村山)城を本拠としていた上野兵部少輔頼久が周防国山口の大内義興の支援を得て松山城主となった。上野氏は天文二年(1533)頼久の子伊豆守の時、猿掛城(現吉備郡真備町)城主庄為資に滅ぼされた(中国太平記)。庄氏は為資とその子高資の二代にわたって松山城に在城した。この間備中に進出してきた山陰の尼子氏に攻められたが(「鹿苑日録」天文八年九月一二日条)、やがて尼子氏と手を結んで威を振るった。しかし永禄四年(1561)に高資が尼子氏の加番吉田左京亮と対立して城を出ると、秋の毛利元就の支援を得た成羽鶴首城(現川上郡成羽町)城主三村家親が松山城を攻めて左京亮を討ち(同年四月二〇日「小早川隆景感状」萩藩閥閲録など)、松山城主となった。家親は毛利氏と手を結んで美作・備前に進出したが、同九年に久米郡籾村興禅寺(現久米南町)で宇喜多直家のために暗殺され、翌一〇年家親の子元親も明禅寺合戦で直家のために大敗を喫した(備前軍記)。この大敗によって三村氏の勢力が一時後退すると、備中には直家と結んだ尼子勝久の勢力が進出、元親は成羽へ退き、庄高資が再び松山城主となったようである。しかし元亀二年(1571)毛利の加勢を得た元親は再び松山城を回復した(同年二月一八日「穂田元清感状」黄薇古簡集)。

 元亀三年将軍足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏の和睦が成立すると(同年一〇月二九日「小早川隆景吉川元春連署起請文」萩藩閥閲録)、元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻した。かくして天正二年(1574)冬から翌三年夏にかけて毛利・宇喜多連合軍と三村勢との間で松山城をはじめ三村方の備中諸城をめぐって激戦が展開される。このいわゆる備中兵乱によって三村氏は滅ぶが、この頃の松山城は小松山に移っており、臥牛山一帯には大松山をはじめ天神丸・佐内丸・太鼓丸・馬酔木丸などの出城・出丸が設けられ、一大要害となっていた(中国兵乱記)。また城主の居館である御根小屋も後世の場所(臥牛山南西麓)に設けられていたようであるが(同書)、松山城とともにその縄張りや建物などについては明らかでない。三村氏滅亡後の松山城は毛利氏の番城隣、家臣天野氏・桂氏などが在城した(天正四年正月二三日「毛利輝元書状」萩藩閥閲録など)。(後略)(『岡山県の地名』平凡社)。

三原城城壁文書(楢崎寛一郎氏舊蔵)2

    二 小早川隆景書状

 

 備前兒島)

 就元太表之儀、先日者預御尋于今本望候、乍御報如申入候、彼表之儀詰口堅固ニ

 仕寄等申付之由候、急度可有一途趣候、雖然阿州衆事此砌出津候而、後巻必定由

 到来候、此時者非可致油断候之条、我等事出張候て追々人数并舟短息候而、後詰

 之覚悟候、敵於渡海者見合一安否可仕之通、細川野州・三村申合、

 乃美宗勝井上春忠

 従乃兵・井又右所申越候、先備後外郡衆事、急度可被指出之通吉田申談之候、於

 旨儀者重畳可申入候、猶此者申含候、恐々謹言、

       三月十日      隆景(花押)

      (熊谷)

      信直 まいる 申給へ

 

 「書き下し文」

 元太表の儀に就き、先日は御尋に預かり今に本望に候ふ、御報ながら申し入れ候ふごとく、彼の表の儀詰口堅固に仕寄等を申し付くるの由に候ふ、急度一途の趣有るべく候ふ、然りと雖も阿州の衆事此の砌に津を出で候ひて、後巻必定の由到来し候ふ、此の時は油断致すべきに非ず候ふの条、我等の事出張り候ひて追々人数并びに舟短息し候ひて、後詰の覚悟候ふ、敵渡海に於いては見合ひ一安否仕るべきの通り、細川野州・三村申し合わせ、乃兵・井又右より申し越す所に候ふ、先づ備後外郡衆の事、急度指し出ださるべきの通り吉田に之を申し談じ候ふ、於旨儀に於いては重畳申し入るべく候ふ、猶ほ此の者に申し含め候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 備前国本太城の最前線の件について、先日はお尋ねいただき、今、喜んでおります。お返事としてお伝えするとおり、この最前線の件ですが、敵方は詰口に仕寄などを堅固に設置することを申し付けたとのことです。きっと一つの方針がある(守備に専念する)のでしょう。しかし、阿波衆はこの機会に津を出発しまして、我らの背後を取り巻くことは必定であるとの情報が到来しました。そのときは油断してはなるまいと、我らも攻め寄せまして、次第に軍勢や舟を調達しまして、後詰をする覚悟でございます。敵が渡海してきた場合には、時機を見計らって敵の動静を見極めるという取り決めに従って、細川通薫や三村元親と相談し、乃美宗勝井上春忠から申し伝えるところです。まず備後外郡衆を、是が非でも差し出すように、吉田の毛利元就に相談し申しあげます。この件については、重ねがさね申し伝えるつもりです。なお詳細は、この使者に言い聞かせております。恐々謹言。

 

*解釈はよくわかりませんでした。