周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

火事と喧嘩は京の華!?

  文安四年(一四四七)七月三日条 (『建内記』9─5)

 三日、癸巳、

  (中略)                 (教親)

         (勝元)           一色事也、

 今日上邊有火事、細川内前田宿所云々、侍所事也、」被官人在彼近所、不打消之条奇

 恠之由、細川被官人語之、一色被官人聞付之、卽刃傷令殺害之間、自細川可寄一色之

 由、有其沙汰、物忩云々、

 

 「書き下し文」

 今日上辺に火事有り、細川の内前田宿所と云々、侍所(傍注)「一色の事なり、」被

 官人彼の近所に在り、打消さざるの条、奇怪の由、細川被官人之を語る、一色被官人

 之を聞き付け、即ち刃傷殺害せしむるの間、細川より一色に寄すべきの由、其の沙汰

 有り、物忩と云々、

 

 「解釈」

 今日、京都の上京で火事があった。細川勝元の被官前田の屋敷だったそうだ。侍所一色教親の被官人がその近所にいて、消火にあたらなかったことは不審である、と細川の被官人が語った。一色の被官人がこれを聞き付け、すぐに刀で斬り付け殺害してしまったので、細川方から一色方へ攻め寄せるにちがいないという噂がたった。物騒だという。

 

 「注釈」

「上辺(かみわたり)」

 ─京都の上京。後掲の関連史料より、出火場所は、柳原(上京区室町通寺之内上ル)にある葛野という人物の家だったとわかります。

 

「細川」

 ─細川勝元管領在職期間は、文安二年(一四四五)三月二九日〜宝徳元年(一四四九)九月五日。

 

「一色」

 ─一色教親。侍所頭人在職期間は、文安四年(一四四七)五月五日〜宝徳元年八月二九日。

 

*近くにいたのに、なぜ消火活動を行わなかったのか。細川勝元の被官人が口にした不満が、一色教親の被官の癇に障ります。頭にきた一色の被官は、すぐに細川の被官を殺害してしまいます。後日談は書いてないので、はっきりとしたことはわかりませんが、おそらく細川と一色の戦にまでは発展しなかったものと思われます。

 さて、今回の事件、細川の被官にしても、一色の被官にしても、何が不満だったのでしょうか。一色の被官は火事場の近所に住んでいたのに、消火活動に携わらなかったことが問題だったのでしょうか。もしそうなら、室町時代の消火活動は、近隣住人の自力救済で消火活動に当たっていたことになります。あるいは、侍所頭人の被官であるにもかかわらず、消火活動にあたらなかったことが問題だったのでしょうか。そうであるなら、消火活動は侍所の職務の一つであり、検断沙汰に含まれていたことになります。

 次に、一色の被官人は、なぜ不満を漏らしただけの細川被官人を殺害したのでしょうか。どう考えても、やりすぎのような気がします。二人の被官人はそもそも仲が悪かったのでしょうか。あるいは、近所に住んでいながら消火活動に参加しなかった、侍所の被官人なのに消火活動に参加しなかった、という噂をたてられると、被官人自身や一色教親の面子を潰してしまうことになるからでしょうか。想像は膨らむばかりです。

 

*関連史料

  文安四年(一四四七)七月三日条 (『康富記』2─137頁)

 

             若一

 三日癸巳 晴、玉樹庵坊主弟子等供養了、

柳原焼亡事、

 訪坊城頭左大丞亭、松坊覺空、参会、須臾之後上邊有火事、柳原也云々、

 (頭注・割書)「葛野ト云者家ヨリ失火出来、小川アカサウ此三人家焼云々、笛吹安

 藝守景勝宅焼亡、公方御笛取出云々、」細河典厩之被官人小川等宿所炎上、其餘烟及

                                   右京大夫

 松坊了、松坊焼亡、今日参会之仁也、言語道断、痛敷存之、火事之終後、又自細川管

 領可被押寄侍所一色亭之由有風聞、其故、一色方者令刃傷管領方者云々、雖然早屬無

 為、其間両方之被官人、自遠所随聞及馳集、其形勢近来之見物也、予於坊城殿車宿終

 日見物之了、

山野井文書4

   四 大内氏奉行人連署書状(切紙)

 

               (安芸安南郡

 去廿七日、爲夜搦乗船、仁保嶋敵船壹艘引取之由、弘中越後守注進之趣

 遂披露候、尤神妙之由候、[   ]旨候、恐々謹言、

 

    (大永二年)          (弘中)

      三月廿九日         正長(花押)

                   (杉)

                    興重(花押)

 「書き下し文」

 去んぬる廿七日、夜搦のため乗船せしめ、仁保嶋の敵船一艘を引き取るの由、弘中越

 後守注進の趣披露を遂げ候ふ、[  ]旨に候、尤も神妙の由に候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 去る二十七日、夜に敵方を捕縛するために船に乗り、仁保島の敵船を一艘奪い取った、と弘中越後守が注進してきた内容を、大内義興様に申し上げました。「いかにも感心なことです。この称賛の内容は、くれぐれも能美氏(仲次ヵ)に申し伝えられるべきだ」、という仰せです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「夜搦」─読み方も意味も未詳。「よがらめ」とでも読むのでしょうか。夜に敵方を捕

     縛にいく、ということか。大永三年(1523)友田興藤が挙兵したことに

     対して、三月十八日に大内方の多賀谷・能美が仁保島に、同二十七日に府中

     へ押し寄せています(『広島県史』中世)。敵方は友田興藤と結んだ武田氏

     のことでしょうか。

「仁保嶋」─広島湾奥東部、府中村(現安芸郡府中町)の西南に浮かぶ仁保島を中心と

      して、猿猴川を隔てて東の向灘浦と、南方海上の金輪島宇品島似島

      峠島・珈玖摩島(弁天島)・小珈玖摩島(小弁天島)を村域とするが、各

      島とも平地は乏しい。このうち仁保島と向灘は近世に、宇品島は明治二二

      年(一八八九)の宇品築港でそれぞれ陸続きとなった。室町時代には出張

      城(跡地は現府中町)に拠った武田氏家臣白井氏の一族が仁保島に進出し

      黄金山(仁保島山)頂に築いた仁保城を拠点にして周辺海域を治下に置い

      た。その後、、天正十九年(一五九一)までに三浦元忠が仁保島の領主と

      なっていて、検知の結果、当島は一三三石八斗六升とされた(『広島県

      地名』)。

「弘中越後守」─弘中武長か。6号文書の説明注に武長とあります。大内氏家臣。永正

        五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守護代(『戦国人名

        事典』)。

山野井文書3

   三 大内氏奉行人連署奉書

 

 山口雜説之由、就風聞馳参之次第、尤神妙之至也、何様至京都

 注進之、仍 御感之旨、所仰執達如件、

 

     (1509)          (杉武清)

     永正六年十一月二日      左兵衛尉(花押)

                  (杉弘依)

                    木工助(花押)

                  (杉重輔)

                    伯耆守(花押)

                  (陶弘詮)

                    兵庫頭(花押)

           (仲次ヵ)

          能美四郎殿

 

 「書き下し文」

 山口雑説の由、風聞に就き馳せ参らるるの次第、尤も神妙の至りなり、何様京都に至り之を注進せらるべし、仍て 御感の旨仰する所執達件のごとし、

 

 「解釈」

 山口での反乱の噂によって馳せ参じなさった事情は、いかにもこの上なく感心なことである。きっと京都に至りこの件を注進したはずだ。そこで、大内義興様が感心なさっているというお言葉を通達します。

 

 「注釈」

「山口雑説」─未詳。大内義興に対する山口での反乱の噂か。

「能見四郎」─七代仲次(秀依)。

山野井文書2

   二 大内政弘感状(切紙)

 

          (陶)

 其堺之儀馳走之由、弘護注進京着悦入候、弥無如在候者、可神妙候也、

 謹言、

      十月二日          政弘(花押)

         (重秀)

       能美若狭守殿

 

 「書き下し文」

 其れ堺の儀馳走の由、弘護の注進京着し悦び入り候ふ、弥々如在無く候はば、神妙た

 るべく候ふなり、謹言、

 

 「解釈」

 そもそも堺の件であなたが奔走したことについて、陶弘護からの報告が京に到着し嬉しく思っております。ますます手抜かりなく奔走してくれれば、感心なことです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「堺之儀」─未詳。

「陶弘護」─周防守護代

「能美若狭守」─六代重秀。

山野井文書1

  解題

 山野井氏は中世には能美氏を称し、おそらく能美島生え抜きの庄官武士の系譜を引くものとみられるが、伊予方面との交渉が深く、長年にわたって河野氏一族と再三の婚姻関係を重ねた結果であろうか、現存の系図では河野氏の支族とされており、河野秀清の子清景が能美島へ来島し、能美(山野井)氏初代となったと記されている。二代景親 三代景真 四代真氏 五代氏重 六代重秀 七代仲次(秀依) 八代景頼(世次) 九代景秀 十代景重 十一代重久 十二代重吉とつづくが、本文書に所収されている時期は、応仁元年(一四六七)から慶長五年(一六〇〇)までであり、六代重秀から十代景重までにあたる。

 二十八通の文書は巻子に仕立てられているが、その配列は雑然としており、部分的には二段に貼りつけられたり、折り紙の半分を切り落とし切紙様にしているので、編年順に配列しなおして本編へ収めた。能美島の豪族として広島湾を中心に会場に活躍する様子が知られる。一号から一六号までは大内氏・陶氏、一七号から二二号までは来島氏、二三号から二八号までは毛利氏との関係を示すものである。

 

 

   一 大内政弘書状(切紙)

 

                               (惟参周省)

 今度早々着岸神妙無極候、殊依堪忍難一レ叶、既雖津候保壽寺

 下旨逗留候、旁以感悦之至候、京都之儀肝要之時節候、今一左右之間在津可

                     (道圓)

 入候、一段必自是可申談候、委細内藤駿河入道可申候也、謹言、

 

     (応仁元年)(1467)        (政弘)

       ⬜︎月一日           (花押)

         能美若狭守代

 

 「書き下し文」

 今度早々の着岸神妙無極に候ふ、殊に堪忍叶ひ難きに依り、既に津を出で候ふと雖も、保壽寺を以て申し下す旨に任せ逗留し候ふ、旁々以て感悦の至りに候ふ、京都の儀肝要の時節に候ふ、今一左右の間津に在り悦び入るべく候ふ、一段必ず是れより申し談ずべく候ふ、委細内藤駿河入道申すべく候ふなり、謹言、

 

 「解釈」

 この度早々に到着したことは、この上なく感心なことです。とくにこらえきれず、先に津を出立しましたが、私(大内政弘)が保壽寺の惟参周省に申し下した内容のとおりに、あなたは津に逗留しています。いずれにせよこの上なく嬉しく思っております。京都のことは最も大切な時期です。今この一通のお便りを送りましたからには、そのまま津に留まってくれれば満足です。この件については、必ずこちらからご相談するはずです。詳細は内藤駿河入道が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「着岸」

 ─未詳。応永元年(1467)五月十日に大内政弘は山口を出発し、七月二十日に兵庫に上陸、八月三日まで兵庫に滞在し、同二十三日に入京しています(『広島県史』中世)。おそらく、大内政弘のあとを追って、能美氏が着陣したものと考えられます。

 

「津」─兵庫津か。

 

「保壽寺」

 ─以参周省。牧松和尚。大内教弘の子。保寿寺は山口にある大内氏と深いかかわりのある寺院で、大内氏の対外交渉を担う禅僧の拠点(貝英幸「中世後期における地域権力の対外交渉と寺院」『佛教大学総合研究紀要』別冊、一九九八・三、http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/1998/SK19981R131.pdf)。

 

「京都之儀」─応仁の乱のこと。

 

「内藤駿河入道」─未詳。