周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

山野井文書14

   一四 陶晴賢安堵状

 

 対縫殿允賢俊割分地之事、令易之房次々男万菊丸譲与之旨、

 令領掌訖者、早任先例知行可肝要之状如件、

    (1553)           陶晴賢

    天文廿二年三月廿日      尾張前司(花押)

 

 「書き下し文」

 縫殿允賢俊に対し割分地の事、之を改易せしめ房次次男万菊丸に対し譲与せらるるの

 旨、領掌せしめ訖んぬ、てへれば早く先例に任せ知行肝要たるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 縫殿允賢俊に対して分割した土地のこと。これを没収し房次の次男万菊丸に対して譲与されたことを了承した。というわけで、早く先例のとおり知行することが大切である。

 

 「注釈」

「縫殿允賢俊」─能美氏の一族か。陶晴賢から「賢」の一字をもらったのでしょうか。

「房次」─未詳。

次男万菊丸」─15号文書の説明注より、九代能美景秀か。

山野井文書13

   一三 陶晴賢加冠状

 

      加冠       賢次

    (1553)

    天文廿二年三月七日        晴賢(花押)

           (景頼)

         能美四郎殿

 

 「注釈」

「加冠状」─武士が元服して実名を名乗る場合、将軍、大名などから名乗りの一字を与

      えられる際の文書(『日本国語大辞典』)。

 

 *書き下し文、解釈は省略。

 *能美四郎景頼が、陶晴賢から「賢」の字をもらって、「賢次」と名乗ったものと考

  えられます。

山野井文書12

   一二 大内義隆安堵状

 

         (義隆)

          (花押)

  (仲次)               大内義興

 父秀依一跡事、任去明応九年十一月十五日凌雲寺殿證判、天文十七年八月二日

 譲与状之旨、能美弥三郎景頼可相続之状如件、

    (1550)

    天文十九年十一月廿九日

 

 「書き下し文」

 父秀依一跡の事、去んぬる明応九年十一月十五日凌雲寺殿の證判、天文十七年八月二

 日譲状の旨に任せ、能美弥三郎景頼相続すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 父秀依の跡目のこと。去る明応九年(一五〇〇)十一月十五日付大内義興様の安堵状と、天文十七年(一五四八)八月二日付の譲状の内容のとおりに、能美弥三郎景頼に相続するべきである。

 

 「注釈」

「秀依」─七代仲次(秀依)。

「能美弥三郎景頼」─八代景頼(世次)。

 

*凌雲寺殿證判と譲状は残存していません。

山野井文書11

   一一 大内氏奉行人連署奉書(切紙)

 

          越智郡                    (冷泉)

 去月十五日、於豫州中途表動之時、郎従澁屋小次郎被矢疵右肱之由、隆豊注

 進到来遂披露畢、尤神妙之由、所 仰出也、仍執達如件、

 

    (1546)           (青景隆著)

    天文十五年九月十三日      右京進(花押)

                  (杉宗長)

                    沙 弥(花押)

                  陶隆房

                    尾張守(花押)

         (仲次ヵ)

        能美四郎殿

 

 「書き下し文」

 去月十五日豫州中途表に於いて動くの時、郎従渋屋小次郎矢疵「右肱」を被るの由、隆豊の注進到来し披露を遂げ畢んぬ、尤も神妙の由、仰せ出ださるる所なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 去る八月十五日伊予国越智郡中途島沖で河野軍と戦ったとき、能美氏の被官渋屋小次郎が矢傷を右肘に受けたという、冷泉隆豊の注進が到来し、大内義隆様に披露した。いかにも感心なことである、と義隆様は仰せであった。そこで、以上の内容を下達する。

 

 「注釈」

豫州中途表」─愛媛県今治市吉海町椋名の中渡島。能島村上氏の有力な海賊城。この

        史料は『愛媛県の地名』(「中渡城跡」)で引用されています。

「渋屋小十郎」─能美仲次の被官か。

「冷泉隆豊」─大内氏重臣で、安芸国佐東銀山城の城番。

山野井文書10

   十 大内氏奉行人書状(切紙)

 

 去五月十八日、至豊後国薄野浦奥郷動之時、別而有御馳走疵之段、

 則達上聞候之處、如此被遣 御感状候、御面目之至尤以珍重候、弥御

 忠節可専一候旨候、恐々謹言、

   文三年(1534)

     六月廿日           興實(花押)

       (仲次)

     能美縫殿允殿

 

 「書き下し文」

 去んぬる五月十八日、豊後国薄野浦奥郷に至り動くの時、別して御馳走有りて傷を致

 さるるの段、則ち上聞に達し候ふの處、此くのごとく御感状を成し遣わされ候ふ、御

 面目の至り尤も以て珍重に候ふ、弥御忠節専一たるべく候ふ旨に候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 去る五月十八日に、豊後国薄野浦奥郷に行き、大友軍と戦った時、格別に奔走して傷を被りなさったことは、すぐに大内義隆様のお耳に入りましたので、このように御感状をお遣わしになりました。この上ない名誉で、いかにもめでたいことでございます。ますますご忠節を遂げられることが第一であるということです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

薄野浦奥郷」─現大分県西国東郡真玉町臼野。『大分県の地名』(「臼野庄」)に、

        この史料が引用されています。

「興實」─右田興実。玄蕃助・下野守。薄野浦攻撃の軍事指揮官。周防右田氏は、周防

     国佐波郡右田保(現防府市)を本貫地とする大内氏の一族。有力庶家の一つ

     として宗家を支えたが、弘治三年(一五五七)毛利氏の防長侵攻に際し、大

     内氏を見限って毛利氏に味方した。

     (和田秀作「周防右田氏の相伝文書について」『山口県文書館研究紀要』

     四一、二〇一四・三、

     http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/kiyou/041/kiyou41-04.pdf)。

「能美縫殿允殿」─七代仲次(秀依)。