六 安祥寺隆快叙位状寫
大勝金剛院
權大僧都寛雅
冝叙法眼
(1460)
長禄四年八月廿七日
別當權大僧都法眼大和尚位
判
*書き下し文・解釈は省略。
「注釈」
「大勝金剛院」─西安祥寺のことか。1号文書の注釈参照。ただ、22号文書「安藝国
金龜山福王寺縁起寫」によると、中興の祖禅智上人が後醍醐天皇から
この院号を賜ったことになっています。福王寺の院号は、1号・22
号文書から「事眞院」と判明するので、縁起の記載は単なる誤りか、
あるいは福王寺に「事眞院」と「大勝金剛院」という二つの塔頭があ
ったのかもしれません。もう一つ考えられることですが、この文書で
法眼を叙された寛雅はもともと西安祥寺の僧侶で、安祥寺嫡系隆快の
弟子だったのではないでしょうか。隆快は法流を伝えるために、弟子
の寛雅を福王寺に送り込んだのかもしれません。同日付の8号文書で
は、寛雅は「福王寺別当」として現れています。そうなると、寛雅は
京都の「大勝金剛院」の僧侶でありながら、安芸「福王寺」の別当で
もあることになります。二つの寺に同時に籍を置くという事例が他に
あるのか知りませんが、寛雅は自身の出身寺院の名称を、新たな赴任
先である福王寺の縁起に無理やりねじ込んだのかもしれません。
「権大僧都」─僧正について僧侶を統括する僧官。大僧都・権大僧都・僧都・少僧都・
権少僧都の五等にわかれている(『新訂 官職要解』)。
「法眼」─僧綱の僧位。僧都に対応した僧位が法眼。
「隆快」─出自の詳細は不明。幼少より高野山に居住して、同山宝性院に相承された安
祥寺流(真言宗小野流の一つ)を、宝性院成雄から伝授された僧侶。長禄四
年(一四六〇)までには、高野山を離れ、拠点を西安祥寺(上安祥寺・大勝
金剛院・山科区上野)に戻した。隆快が拠点を西安祥寺に移して以後、嫡系
安祥寺流の活動が活発化する。以前の伝法・教学等の門弟養成を中心とした
活動から、失地回復の訴訟等、法流復興のための積極的な活動が現れ始め
る。隆快はその活動を支えるための収入を得るために、積極的な法流伝播活
動を開始する。隆快の関する一連の福王寺文書(1・5・6号文書)は、こ
の結果と考えられています(鏑木紀彦「中世後期の安祥寺流について─隆
快・光意の事跡を中心に─」『ヒストリア』257、2016・8)。