周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書12

   一二 武田氏信安堵状寫

 

    福王寺領安藝国可部庄内重吉名事

 右當名者、爲往古寺領之上者、寺務不相違之状如件、

    (1359)

    延文四年十一月廿二日      伊豆守判

   別當兵部卿律師御房

 

 「書き下し文」

    福王寺領安芸国可部庄重吉名の事

 右当名は、往古寺領たるの上は、寺務相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

    福王寺領安芸国可部庄の重吉名のこと。

 右の重吉名は、昔から福王寺領であるうえは、寺務を取り扱うことに間違いがあるはずもない。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「重吉名」─安佐北区可部町大毛寺・可部町虹山。古くは重吉村といったが、のちに大

      文寺と改め、さらに大毛寺としたという。重吉の地名は建武三年(一三三

      六)六月二八日の守護代沙弥恵一宛行状写(福王寺文書)に「可部庄内重

      吉名主職事」、「延文四年(一三五九)一一月二二日に武田氏信安堵状写

      (同文書)に「福王寺領安芸国可部庄内重吉名事」とみえる。長禄四年

      (一四六〇)の安芸国金亀山福王寺縁起写(同文書)では、天長年間(八

      二四〜八三四)のこととして綾谷・九品寺・大毛寺三邑の朝廷よりの寄進

      を記しているが、遅くとも長禄年間には大毛寺の呼称が行われている

      (『広島県の地名』)。

「別當兵部卿律師御房」─未詳。

福王寺文書11

   一一 法眼郎舜奉書寫

 

 福王寺免田等事、御寄進之状進之候、此上者爲當寺御祈禱所、可

 年御巻数候也、仍執達如件、

    (1329)

    嘉暦四年八月廿八日       法眼郎舜奉判

    謹上 福王寺別當御房

 

 「書き下し文」

 福王寺免田等事、御寄進の状之を進らせ候ふ、此の上は当寺御祈祷所として、毎年巻数を進らせらるべく候ふなり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 福王寺免田のことについて、寄進状を進上します。この上は当寺をご祈祷所として、我々に毎年御巻数を進上なさるべきです。よって、以上のことを通達します。

 

 「注釈」

「巻数」─「かんず」とも。経供養を依頼されて読誦した経巻の数を記した文書。経の

     名目、度数を記した文書を花枝につけて願主に送った(『古文書古記録語辞

     典』)。

「法眼郎舜」─未詳。

「福王寺別当御房」─未詳。

福王寺文書10

   一〇 備後権守長兼書状寫

 

                   (候脱)

 御巻数入見参候了、神妙之由所御気色也、恐々謹言、

      十二月十三日       備後権守長兼判

      福王寺別当御房 御返事

 

 「書き下し文」

 御巻数見参に入れ候ひ了んぬ、神妙の由御気色候ふ所なり、恐々謹言、

 

 「解釈」

 ご巻数をお目にかけました。感心なことであるとのご意向であります。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「巻数」─「かんず」とも。経供養を依頼されて読誦した経巻の数を記した文書。経の名目、度数を記した文書を花枝につけて願主に送った(『古文書古記録語辞典』)。

「備後権守長兼」─未詳。

「福王寺別当御房」─未詳。

 

*書止文言は「恐々謹言」になっていますが、「御気色」とあるので、身分の高い人の

 意を、長兼が伝達した奉書なのだと思います。

こんなところで産まなくても… (No one thought of giving birth in such a place.)

  嘉吉二年(一四四二)十月十九日条 (『康富記』1─306頁)

 

七社奉幣事、

 十九日丙午 晴、

  (中略)

 是日管領両使(割書)「飯尾肥前入道、松田対馬入道、」於石清水、是

 自社家注進云、猪之鼻辛櫃石邊にて妊婦令子令触穢、件石破裂

 云々、爲検知、且又有社家例哉之由爲尋也云々、後日承分、如此事社

 家有先例云々、

  (後略)

 

 「書き下し文」

 十九日丙午 晴る、

  (中略)

 是の日管領両使(割書)「飯尾肥前入道、松田対馬入道、」を石清水に立てらる、是

 れ社家より注進有りと云ふ、猪の鼻辛櫃石邊にて妊婦に子を産ましめ触穢せしむ、件

 の石破裂すと云々、検知の為、且つ又社家の例有るかの由尋ねられんが為なりと

 云々、後日承る分、此くのごとき事社家に先例有りと云々、

 

 「解釈」

 この日、管領が両使「飯尾肥前入道と松田対馬入道」を石清水八幡宮にお遣わしになった。これは社家から注進があったからだという。猪鼻坂の辛櫃石辺りで妊婦が子を産み触穢になってしまった。その石は砕けたそうだ。両使の派遣はその注進を検知するため、また社家にこのような先例があるのかをお尋ねになるためであるという。後日聞いたことによると、このようなことは社家に先例があるそうだ。

 

 On this day, Kanrei (shogun's deputy) sent two messengers "Iio Tametane and Matsuda Sadakiyo" to Iwashimizuhachimangu Shrine. That's because the Shinto priests reported the incident below. A pregnant woman gave birth around Karabitsuishi in Inohanazaka and Iwamimizuhachimangu Shrine was contaminated with birth stains. The stone (Karabitsuishi) seems to have shattered naturally. Kanrei has sent a messenger to examine the incident and to ask the Shinto priests if there is such precedent. According to what I heard later, there are such precedents.

 

 

 「注釈」

管領

 ─畠山持国管領在任期間は、嘉吉二年(一四四二)六月二十九日〜文安二年(一四四五)二月二十三日(『新版 角川史日本史辞典』)。

 

「両使」

 ─鎌倉期以来、土地相論に関する幕命を現地において履行するために派遣された御家人。二人一組で派遣されたのでこのように称した。鎌倉後期以降、同じ機能を常時当該国の守護が担うケースが増大した(『新版 角川日本史辞典』)。この場合、両使は管領の命を受けて検知のために派遣されたようです。

 

「飯尾肥前入道」─室町幕府奉行人飯尾為種(永祥)か。

 

「松田対馬入道」─室町幕府奉行人松田貞清(常守)か。

 

「猪之鼻」─猪鼻坂のことか。二の鳥居と神幸橋の間にある上り坂。現在は存在しないようです(谷村勉「安居頭諸事覚を読む」『会報』五五、八幡の歴史を探究する会http://yrekitan.exblog.jp/iv/detail/?s=23217675&i=201411%2F02%2F25%2Ff0300125_10595954.jpg)。

 

「辛櫃石」─唐櫃のような形の石か。

 

*地元の人か、遠方の人かわかりませんが、安産祈願にでも来たのでしょうか。とある妊婦が石清水八幡宮で突如産気づき、そのまま出産してしまいました。よくぞ、無事に?産んだものです。ですが、おかげで石清水は穢れてしまい、また辛櫃石が砕けるという怪異まで起きてしまいます。こんなことがあるとは驚きです。しかも、先例があるとはさらに驚きです。そういえば、庶民の出産はどのように行われていたのでしょうか。医療の知識や設備は、現代とは比べものにならないほど拙いものであったはずです。路上で産んでしまうことも珍しくなかったのかもしれません。現代人ならこのような出産は恐ろしくて仕方ないように思いますが、当時の人はどんな感覚だったのでしょうか。意志や理性では、人間の生理現象をコントロール仕切れない。その典型例のような記事です。

 

 I do not know where she came from, but she probably came to Iwashimizuhachimangu Shrine to pray for safe delivery. A pregnant woman suddenly went into la at Iwashimizuhachimangu Shrine and has given birth safely as it is. However, because the shrine became soiled, the strange event that Karabitsuishi shattered also happened. And it's even more surprising that there were similar cases before.
 By the way, how was the birth of common people in the Middle Ages done? Medical knowledge and equipment should have been much immature than today. Like this time, it may not be uncommon to give birth on the street. Modern people would be afraid to give birth like this, but how did the people of the Middle Ages feel it? Will and reason alone can not control human physiological phenomena. This article is the typical example.

 (I used Google Translate.)

福王寺文書9

   九 足利義満御判御教書寫

 

 爲天下安全、可祈禱之精誠之状如件、

    (1394)           (義満)

    應永元年十一月九日      御判

        (良海)

    福王寺院主侍従律師御房

 

 「書き下し文」

 天下安全の為、祈祷の精誠を致すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 天下の安全のため、真心を込めて祈祷するべきである。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「良海」─未詳。