周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

福王寺文書22 その1

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その1

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

   藝州高宮郡綾谷邑金龜山福王寺縁起

 夫大–道之物タルヤ也、出無–名之始メニ有–物之上、無

 不、何窮–際焉、然レトモ群–彙而不知聖–道陰レテ而不感、

 大–権此出風–化高、我日–域粹–然タルコト矣、欽–明之御–宇西–天之

                                 空海

 玄–風初扇、自尒命–世之偉–人相逐邦二霊–區啓焉、茲當–寺弘–法

 大–師啓–迪也、大–師若シテ名山絶–巘孤–岸幽–渓修–歴、天–下殆、到

 此刕山之神–偉清嵐而攀登リ玉焉、爲

 状也、岡–巒崷–崒𡼏–戸寂–絶佳–木𥿋廡雲–霞流–蕩、不一–鳥之

 鳴–聲、可列–仙之區–陬焉、心–目自カニ塵–事都、大–師

 凝シテ幽–昧–觀、有一–奇–樹、烟–雲厚

 似タリ、大–師就而直シテ自–木不–改為ント不動明王

 雖トモ然若レハ儀–相則希世之凡–流不餘木

        

 焉、於是乎自援不–動明–王之尊様、不シテ而爲

 不根而爲足、威–容儼–然トシテ一–丈有–餘不–日ニシテンヌ焉、鎭

 以國家、人隨聞四–來雜沓シテ而拜–祈異–驗影–響也、遂

   淳和天皇

 達 天–長帝之叡–聞、勅シテ高堂而蓋、塔–婆僧–舎梵–制

 頗事–眞–院、且綾谷九–品–寺大–毛寺三邑

 寶–前之香–燭行–法之僧供

   つづく

 

 「書き下し文」

    芸州高宮郡綾谷邑金亀山福王寺縁起

 夫れ大道の物たるや、無名の始めに出で有物の上に高し、至らざる所無し、何ぞ窮際有らんや、然れども郡彙は踏みて知らず聖道陰れて感ぜず、大権此に出で風化高く揚ぐ、我が日域粹然たることは尚し、欽明の御宇西天の玄風初めて扇ぐ、爾れより邦の霊区を相逐ひ啓く、茲に当寺は弘法大師の啓迪なり、大師若くして名山の絶巘、孤岸、幽渓を修歴し、天下殆ど徧し、此の州に到る時に此の山の神偉を察して高く清嵐を踏みて攀じ登り玉ふ、山の状たるや、岡巒は崷崒として、𡼏戸寂絶の佳木𥿋廡し雲霞流蕩す、一鳥の鳴聲を聞かず、列仙の区陬と為すべし、心目自ずから朗らかに塵事都て捐つ、大師思ひを幽昧に凝らして潜かに掩し観じ所、一奇樹有り、烟雲厚く籠もり光に似たり、大師就きて直に拜して自木を改めず不動明王と為さんと欲す、然りと雖も若し儀相を具へざれば則ち希世の凡流以て余木と分かつべからず、是に於て自ら斧を援き、不動明王の尊様に擬す、枝を折らずして肘と為し根を伐らずして足と為す、威容儼然として長け一丈有余不日成んぬ、以て国家に鎮す、人聞こえに随ひて四来雑沓して拜祈し異験影響なり、遂に迺ち天長帝の叡聞に達し、勅して高堂を建て像を蓋ふ、塔婆・僧舎・梵制頗る備はり名づけて事真院と曰ふ、且つ綾谷・九品寺・大毛寺の三邑を以て宝前の香燭行法の僧供に寄附す、

   つづく

 

 「解釈」

    安芸国高宮郡綾谷村金亀山福王寺の縁起

 そもそも正しい道というものは、名もなき天地の始めに生まれ、万物の上に高く存在する。どこにでも存在する。どうして物事の極地にあるだろうか、いやない。しかし、民衆は正しい道を踏みつけてわからなくなり、仏の教えは隠れてしまい感じることができない。ここに、仮の姿で現世に現れた仏菩薩が現れ、人を教え導くという誓願を高く掲げた。我が日本は純粋に神を信仰して久しい。欽明天皇の御代に天竺の深遠な仏の教えが、初めて風のように吹き付けた。それ以来、名高い偉人たちが、国内の霊域を探し求め開いた。それで、当寺は弘法大師空海が開創したのである。大師は若くして名山の険しい峰や孤絶した岸壁、奥深い静かな渓谷を修行しながら遍歴し、国中ほとんどくまなく訪れた。この安芸国にやってきたときに、この山の神威を感じ取り、高く春霞を踏み分け、よじ登りなさった。山は高くそびえ、谷間の家は静寂で人里から隔絶し、立派な木々は馬のたてがみのように繁茂し、雲や霞は流れ揺れ動いている。一羽の鳥の鳴き声も聞こえない。仙人たちのすみかとみなすべきだ。心や目は自然と朗らかになり、世間の煩わしい俗事をすべて捨て去る。大師は思いを奥深く暗いところに集め、ひそかに覆い隠し仏法の真理を観察・熟考していたところ、一本の優れた木があった。雲のように高く立ちのぼる煙が厚く立ち込め、光に似ている。大師はその木に近寄り直に拝んで、自然のままの木を切らず不動明王にしようとした。しかし、もし規定どおりの尊いお姿を備えていなければ、末世の普通の人々は、他のただの木と見分けることができない。そこで自ら斧を引き寄せ、不動明王のお姿にしようとした。枝を折らずに肘とし、根を切らずに足とした。その堂々たるお姿は厳かで、像の高さは一丈(約三メートル)余り、すぐに完成した。その不動明王像を用いて国家を鎮護した。人々はその噂を聞いて四方から大勢やってきて混み合い、拝み祈ったことに応じて霊験が現れたのである。そこで、とうとうその噂が淳和天皇のお耳に達し、勅命を下して立派な堂舎を建立し、不動明王像を覆った。仏塔や堂舎、寺の制度もたいそう立派に整備され、名付けて事真院と言う。その上、綾谷・九品寺・大毛寺の三村を、仏前に供える香や蝋燭、修行僧へのお供えとして寄付した。

   つづく

 

*注釈は数が多すぎるので、ほぼ省略しました。

 

𥿋」=䋣。

福王寺文書21

   二一 別當僧正某安堵状寫

 

   別當僧正書判

 新熊野社領安藝国三入庄領家職事、任相傳知行候、有限社役以下任

 例懈怠、可其心得之由別當僧正御房所仰也、仍執達如件、

    (1368)

    應安元年八月十三日       權大僧都書判

     權大僧都御房

       ◯前号オヨビ本号文書ノ二通ハ福王寺藏天明辰年寫本ニアリ

 

 「書き下し文」

 新熊野社領安芸国三入庄領家職の事、相伝に任せ知行せしめ候ふ、限り有る社役以下先例に任せ、懈怠無く其の心得を致さるべきの由別当僧正御房仰する所なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 新熊野社領安芸国三入庄領家職のこと。相伝の内容のとおりに、権大僧都に知行させます。重要な社役などは、先例のとおりに怠ることなく心がけなさるべきである、と別当僧正御房が仰せである。よって以上のことを下達する。

 

 「注釈」

「新熊野社」

 ─現在の東山区今熊野椥ノ森町。東大路通の西側に位置する。鳥居は東面して東大路通に向かうが、拝殿・社殿はともに南面する。祭神は伊弉冊命。現在の祭日は五月五日。熊野信仰の高まりのなかで、後白河院紀州熊野権現本宮の祭神を勧請し、院御所である法住寺殿の鎮守としたのに始まる(『京都市の地名』)。

 

「三入庄」

 ─現在の広島市安佐北区可部町大林・上町屋・下町屋・桐原(とげ)・上原付近を領域とする。養和元年(一一八一)十二月八日の後白河院庁下文案では新熊野社領三入庄となっており(「新熊野神社文書」)、以後は同社領荘園として存続する(『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)。

 

別当僧正」─未詳。

 

権大僧都」─未詳。

福王寺文書20

   二〇 武田光誠氏信宛行状寫

 

           安北郡

 侍従阿闍梨良海申安藝国可部庄内福王寺別當職事、右就良海由緒申之間所

 宛行也、任先例沙汰之状如件、

    (1375)

    永和元年八月 日         判

  侍従阿闍梨御房

 

 「書き下し文」

 侍従阿闍梨良海申す安芸国可部庄内福王寺別当職の事、右良海の由緒に就き申さしむ

 るの間充て行ふ所なり、先例に任せ沙汰致すべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 侍従阿闍梨良海が申す安芸国可部庄内福王寺別当職のこと。右、良海が別当職を知行する根拠を申し上げたので、給与するところである。先例のとおりに領知すべきである。内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「可部庄」─太田川の流域にあり、現在の広島市安佐北区可部町の西半分の地域を占め

      る。大治二年(一一二七)鳥羽院が可部庄百八石を高野山に寄進したこと

      により高野山領(西塔領)となった。明徳三年(一三九二)の高野山の寺

      領注文には「不知行」とあり、事実上の収納は行われなくなっている

      (『日本荘園史大辞典』)。

「良海」─福王寺住持。

福王寺文書19

   一九 武田信繁安堵状寫

 

 安藝国安北郡可部庄内福王寺領(割書)「後山綾谷」名之事、於而諸役等者不

 可違乱煩候、若致此旨者、不子孫者也、仍爲後證

 状如件、

   (1436)

   永享八年十月十五日       前伊豆守信繁

                         判

   福王寺

      ○以上、一九通ヲ一巻ニ収ム

 

 「書き下し文」

 安芸国安北郡可部庄内福王寺領(割書)「後山・綾谷」名の事、諸役等に於いては違乱・煩ひ有るべからず候ふ、若し此の旨に背く輩に至りては、子孫たるべからざる者なり、仍て後証の為状件のごとし、

 

 「解釈」

 安芸国安北郡可部庄内福王寺領後山・綾谷名のこと。諸役等においては違乱・妨害があってはならない。もしこの内容に背く連中に至っては、子孫であるはずないものである。よって後の証拠のため、安堵状の内容は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「致」─「至」か。

「後山」─未詳。可部庄内の名か。

「綾谷」─安佐北区可部町綾ヶ谷。勝木村の北東に位置する広域の村で、北に堂床山

     南に福王寺山がそびえる。西は堂床山南麓に水源を発する大畑谷川が南流し

     て勝木村に入り、東は小南原川が南流して南原・九品寺両村の境で南原側に

     注ぐ。綾ヶ党という地名や綾織屋敷と伝えるところがあり、往古綾を織って

     いたことから村名を得たとする(芸藩通志)(『広島県の地名』)。

ハゲの悩みは超歴史的か!? (Has humanity been plagued by baldness all the time?)

  文安元年(1444)八月十九日条 (『康富記』2─89頁)

 

 十九日乙丑 晴、供養妙徳庵坊主、山城国水無瀬、(割書)「或ハ廣瀬トモ云、山崎

 ノ南也、」在行基御作阿彌陀佛、金泥、三尺餘、 経数百之星霜、坐一宇之蘭若、近

 年破壊、見路道、侵雨露之間、人不知之處、閏六月三日、俄有頓利之聞云々、傳聞

 分、盲者忽繼離朱之明、瘖瘂俄若予賜之言、或者女之喎僻反而成倩盻之貌、白禿變黒

 髪之粧、貧者遇福海、短折保壽山、其効験非一、近境遠路之道俗、善男善女之参詣成

 群、是則闡提之利生歟、彌陀則観音、観音則彌陀之謂者哉、又如大経所説者、無量衆

 寶随意、所欲応念則至之誓願、不可疑者也、仍今日予令参詣之、下総房同道了、於山

 崎椿屋用駄餉了、

  (後略)

 

 「書き下し文」

 十九日乙丑 晴れ、妙徳庵の坊主を供養す、山城国水無瀬、(割書)「或いは廣瀬とも云ふ、山崎の南なり、」行基御作阿彌陀佛在り、(割書)「金泥、三尺餘り、」数百の星霜を経、一宇の蘭若に坐す、近年破壊、路道に見れ、雨露に侵さるるの間、人知らざるの処、閏六月三日、俄に頓利の聞こえ有りと云々、伝え聞く分、盲者忽ち離朱の明を継ぎ、瘖瘂俄に予め之に言を賜るがごとく、或いは女の喎僻反って倩盻の貌を成し、白禿黒髪の粧に変へ、貧者福海に遇ひ、短折寿山を保つ、其の効験一に非ず、近境遠路の道俗、善男善女の参詣群を成す、是れ則ち闡提の利生か。弥陀則ち観音、観音則ち弥陀の謂ひなる者か。又大経の説く所のごとくんば、無量の衆宝、意の欲する所に随ひて、念に応じて則ち至るの誓願、疑ふべからざる者なり、仍て今日予之に参詣せしむ、下総房同道し了んぬ、山崎椿屋に於いて駄餉を用ひ了んぬ、

 

 「解釈」

 十九日乙丑 晴れ。妙徳庵の坊主を供養した。山城国水無瀬(あるいは広瀬とも言う、山崎の南である)に、行基作の阿弥陀如来の仏像(金泥で三尺あまり)がある。数百年の年月を経て、一宇の寺院に鎮座している。近年その寺院も壊れてしまった。仏像は道端にあらわとなり、雨露に濡れて人に知られることはなかったが、閏六月三日、突如ご利益の評判が立ったそうだ。伝え聞いたことによると、目の見えないものはすぐに目が見えるようにし、口のきけないものは、すぐにあらかじめ言葉を賜ったかのように話すことができ、あるいは女の歪んだ顔は、反対に愛らしい口元と美しい目元の容貌にし、白髪の禿げ頭は黒髪の相貌に変え、貧乏人は海のように深い幸福に出会い、短い寿命は長寿を保つ。その霊験は一つではない。近隣や遠方の出家・在家や善男善女が群れを成して参詣している。これは菩薩のご利益だろう。阿弥陀如来はすなわち観音菩薩で、観音菩薩阿弥陀如来であるということか。また、仏説無量寿経上の所説のように、数限りない宝は望みのままにすぐに現れるという誓願は、疑ってはならないものである。そこで、今日私はそこに参詣した。下総房も同道した。山崎椿屋で食事をとった。

 

 Fine weather on the 19th. There is an Amida Buddha statue created by Gyouki(the monk) at Minase in Yamashiro Prefecture (now Kyoto Prefecture). It has been enshrined in temples for hundreds of years. The temple has been broken in recent years. The Buddha statue was exposed to rain and was not known to people, but on June 3rd, it suddenly began to be rumored to bring good luck to us. The rumor was as follows. The blind people were soon to be able to see, and people with speech impediment could soon speak as if they were able to speak originally. Also, the ill-favored face of the woman changed to a lovely mouth and beautiful eyes, and the bald head of gray hair turned to black hair. Furthermore, the poor meet the deep happiness as the sea, and the short life span is extended. The miracle is not one. Many people from various places come there to worship the Buddha statue. This would be good luck brought by Amitabha. Amitabha ie Guanyin, Guanyin is Amitabha? Also, we should not doubt the Buddha's vow that the Buddha will bring many treasures as soon as we want, as described in Muryojukyo (One of the Buddhist scriptures). So today I went there. Shimousabou also went together. I ate at Tsubakiya in Yamazaki.

 

 

 「注釈」

「妙徳庵」─東福寺山内の三聖寺の塔頭か(『京都市の地名』)。

 

「水無瀬阿弥陀仏

 ─大阪府三島郡島本町広瀬の浄土宗阿弥陀院のことか(『大阪府の地名』Ⅰ)。

 

「下総房」─未詳。

 

「山崎椿屋」─未詳。

 

*寂れた寺院の阿弥陀如来像が、突如霊験を発揮しました。おかげで広瀬の地は大賑わいです。障害が治癒するというのはいかにもという感じですが、その後がおもしろいです。白髪のハゲ頭が黒髪に変わる。この記事では、盲人・唖者という障害の治癒を記載した後に、「或者」を挟んで「女性のブサイクな顔」と「白髪のハゲ頭」を併記しています。このことから、白髪のハゲ頭は病気や障害の類ではなく、コンプレックスの一つであったと解釈できそうです。どうやら、現代人同様、中世人もハゲ頭を好ましくない容貌だと考えていたようです。

 そういえば、なぜ人間はハゲ頭にコンプレックスをもつのでしょうか。あって当然、ずっとあり続けるはず、と信じている髪の毛がなくなるから。他の人にはあるのに、自分だけなくなってしまうから。単純にみっともないから。ハゲ頭が似合わないから。いろいろ考えられそうですが、中世人はどんな理由でハゲ頭を嫌ったのでしょうか。「好き」「嫌い」には本能的な要因と、社会的な要因があるでしょうから、ハゲ頭にも歴史研究が成立するかもしれません。「ハゲの社会史」なんて研究書があるとおもしろいのですが。

 さて、こうした中世人の願いを叶えてくれたのは阿弥陀如来でした。阿弥陀様は衆生西方極楽浄土に導いてくれる仏様であるはずですが、今回の記事では、現世利益を実現している仏様として登場しています。だからなのでしょうか、「阿弥陀様は観音様と同じだろうか」という不確かな言説が語られています。本来、観音様は現世利益を実現する仏様で、阿弥陀様は極楽往生の仏様と認識されていたからこそ、現世利益を実現する阿弥陀様は観音様と同体だという考えを生み出したのでしょう。「阿弥陀・観音同一説」が、地域・階層ともに、どれほどの広がりを見せているのか、またどのような教義的根拠があって同じと見なしているのかわかりませんが、きっと民間信仰のなかで語られていたものなのでしょう。

 

 Amitabha statue in the ruined temple suddenly made many miracles. Thanks to that, a lot of people gathered in Hirose. I often hear the miracle that the disorders heal thanks to the Buddha, but the next topic is interesting. The bald head of gray hair has turned to black hair. The author wrote "ill-favored face of the woman" and "the gray-haired bald head" after writing the topic that the disability of the blind and the disabled has been cured. From this, it may be possible to interpret that the gray-haired bald head was not a disease or a disorder but one of inferiority. Apparently, as with modern people, it seems that medieval people also regarded bald head as an undesirable appearance.

 By the way, why do humans have a sense of inferiority in baldness? It is natural for us to have hair, but the hair that we should have for a long time is getting thin. Other people have hair, but our own hair is getting thin. The bald head is unsightly. The bald head does not suit me. There are many possible reasons, but why did the medieval people dislike the bald head? There are social factors as well as instinctual factors in "like" and "dislike", so it may be possible to study baldness historically.

 Well, it was Amitabha who realized these medieval people's wishes. Originally, Amitabha is a Buddha who guides people to paradise, but in this article, it appears as a Buddha who realizes the wishes of people in this world. So it would be rumored that "Amitabhai will be the same as Guanyin". Originally, Guanyin was a Buddha who realized the wishes of people in this world. So, Amitabha who realized the wishes of people in this world would have been considered to be the same as Guanyin. I do not know how popular the idea of ​​“Amitabha-Guanyin isomorphism” or by what doctrinal basis the two sides are regarded as the same body, but it probably came from the folk religion.

 (I used Google Translate.)

 

 

*2019.6.1追記

 「阿弥陀・観音同一説」ですが、私はこれを、民衆が勝手に考えた発想だと思っていましたが、『理趣釈』・『理趣釈口決鈔』などの経典注釈書や口伝が根拠になっていたようです。この同一説が、いつの時点でどの階層にまで広まっていたのかは、よくわかりませんが、平安時代の仏教者にはある程度知られていた考え方だったようです(赤坂祐道「『五輪九字明秘密釈』における阿弥陀曼荼羅図『密教図像』14、1995・12、34頁、http://tokuzoji.news.coocan.jp/research.htmlhttp://tokuzoji.news.coocan.jp/img/file10.pdf)。