周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 その1

 一 須佐神社縁起 その1

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

  (前闕)

 「                         」の中國

                牛頭天王

 [            ]國こずてんのふ[          ]にあまつ

                       伊弉諾) (さなみふたヵ)

 [              ]七代に當て、いさなきい[    ]はしらの

 尊を、中てん[      ]いこく、東王父天[          ]

 西王母天王)

 せいをうぼてんのふと奉申、男[ ]事をかなしみ、かうすさんの[    ]

 (無熱)             (牛)              (内)

 むねちとて、なん河のしろ[ ]のうしの口よりいずる水をむすびあげ、な伊外清

              祇園精舎

 流しよう[    ]なへ、ぎおんしやうじやゑ行、いろ[   ]七日七夜

 (滿)                (示現)

 まんずる夜、まんざ[   ]わると、じげんをかむり[  ]とまり王子一人も

                        (文字)   (頭)

 ふけ[ ]ちやうかう壹丈五尺、こしにとらといふもんじあり、かうへにいつつの

 (牛)     (面) (三)           (御手)

 うしをいたゝき、おもてみつ、御手わ六つ、左、第一おんてにわほこをもち、第二

           (三)   (瑠璃)(壺)     (第)

 の御手にわ弓を持、第⬜︎の手にわる利のつぼをもち、右、⬜︎一の御手にわ剣をもち、

       (矢)                      (天王)

 第二ノ手にわやを持、だいさんの手にハ四百四病をもち玉而、其時てんのふ御覧

              (似) (畜生)   (形)        (言葉)

 じて、大ニおとろき、人にわにず、ちくしやうのかたち成り、ふかうのことばをき

          (御門)                  (海神)

 かせよと宣ふ、さてみかとをたち出て、元のむねち江入給に依而、わたづみ⬜︎つの

     (素戔嗚)                     (千年)

 君共申、そさのをの尊共、こずてんのふ共申、それよりきゑ國にせんねん、それを

          兜率天            (三千年)   (東天)

 立出、大國に百年、とそつてんに八ねん、とせいてんにさんせんねん、とうてん、

 (西)  (北天)         (須弥山)    (埴安)      (現)

 さい天、ほくてん、中天のめぐり、しゆみせんに而、はにやすの尊地神とげんじて

 (三百年)

 さんびやくねん、みつばめの尊水神とけんじて五十年、れゐい國と申山に而、若君

                              (上天)   (天)

 をもうけ、世になき物とて許の天え帰り、十六ヶ国を廻り玉ふ、ちやうてん下てん

 唐土)(百済

 とうとはくさい國を廻り給て、大日本國江わたり玉ふ、

   つづく 

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)

  (前闕)

 「                         」の中國[  ]牛頭天

 王[  ]にあまつ[  ]七代に当たりて、伊弉諾・伊奘冉二柱の尊を、中て

 ん[  ]いこく、東王父天王[  ]西王母天王と申し奉る、男[ ]事を悲

 しみ、かうすさんの[ ]無熱とて、なん河のしろ[ ]の牛の口より出づる水を

 結び上げ、内外清流しよう[ ]なへ、祇園精舎へ行き、いろ[ ]七日七夜満ず

 る夜、まんざ[ ]わると、示現を蒙り[ ]とまり王子一人儲け[ ]長高一丈

 五尺、腰に虎と言ふ文字あり、頭に五つの牛を戴き、面三つ、御手は六つ、左、第

 一の御手には鉾を持ち、第二の御手には弓を持ち、第三の手には瑠璃の壺を持ち。

 右、第一の御手には剣を持ち、第二の手には矢を持ち、第三の手には四百四病を持

 ち玉ひて、其の時天王御覧じて、大いに驚き、人には似ず、畜生の形成り、不孝の

 言葉を聞かせよと宣ふ、さて御門を立ち出でて、元のむねちへ入り給ふに依りて、

 海神⬜︎つの君とも申し、素盞嗚尊とも、牛頭天王とも申す、それよりきえ国に千年、

 それを立ち出で、大國に百年、兜率天に八年、とせいてんに三千年、東天、西天、

 北天、中天のめぐり、須弥山にて、埴安の尊地神と現じて三百年、弥都波能売の尊

 水神と現じて五十年、れえい國と申す山にて、若君を儲け、世に無き物とて許の天

 へ帰り、十六ケ国を廻り玉ふ、上天下天唐土百済国を廻り給て、大日本国へ渡り玉

 ふ、

   つづく

 

 「解釈」

  (前半部分は解釈できませんでした)

 王子を一人儲けた。背丈は一丈五尺(四・五メートル)、腰に虎という文字があった。頭に五つの牛をいただき、顔は三つ、御手は六つ、左の第一の御手には鉾を持ち、第二の御手には弓を持ち、第三の手には瑠璃の壺を持ち、右の第一の御手には剣を持ち、第二の手には矢を持ち、第三の手には四百四病をお持ちになっていた。その時に東王父天王・西王母天王は牛頭天王の姿をご覧になって、大いに驚き、「人には似ておらず、畜生の姿である。義絶の言葉を聞き入れてください」と仰った。王子はそのまま宮殿を出立して、もとの無熱天へお入りになったことによって、海神□つの君とも申し、素盞嗚尊とも、牛頭天王とも申した。それからきえ国に千年、そこを出立して、大国に百年、兜率天に八年、とせい天に三千年、東天、西天、北天、中天を巡り、須弥山で埴谷尊、土地の神として現れて三百年、弥都波能売尊、水神として現れて五十年、れえい国と申す山で若君を儲け、この世にないものとしてもとの天へ帰り、十六カ国を巡りなさった。上天・下天・中国・百済を廻りなさって、大日本国へお出でになった。

   つづく

 

 「注釈」

東王父

 ─陽の気の精とされる中国伝説上の仙人で、男の仙人を統べるもの。西王母と並び称され、詩題・画題として有名。東王公(『日本国語大辞典』)。

 

西王母

 ─中国、西方の崑崙山に住む神女の名。「山海経─西山経」によれば、人面・虎歯・豹尾・蓬髪とあるが、次第に美化されて「淮南子─覧冥訓」では不死の薬をもった仙女とされ、さらに周の穆王が西征してともに瑶池で遊んだといい(「列子─周穆王」「穆天子伝」)、長寿を願う漢の武帝が仙桃を与えられたという伝説ができ、寛大には西王母信仰が広く行われた(『日本国語大辞典』)。

 

「ふかうのことばをきかせよ」

 ─「小童祇園社由来拾遺伝」(『甲奴町誌』資料編一、一九八八)では、「不幸」と表記されていますが、「不孝」の可能性もあります。また「聞かす」には、「聞かせる」の意味だけでなく、「聞く」の尊敬語としての意味もあります(『古語大辞典』小学館)。断定はできませんが、ここでは「親子関係を断つという(義絶の)言葉を聞き入れてください」という意味で解釈しておきます。

須佐神社文書 紹介

  「須佐神社文書解説」

 当社は「小童(ひち)の祇園さん」の名前で親しまれている。『芸藩通志』によると「文禄三年甲午(一五九四)毛利氏営造」とあるが、これは社殿の造立を指していると思われる。当社の縁起はそれをさかのぼる文明元年(一四六九)の成立である。本縁起は別称を「牛頭天王縁起」ともいう。同社には、永正十四年(一五一七)の墨書のある大神輿もある。この銘文は付録(一一九四頁)に掲げた。須佐神社のある小童保は、平安末の承徳年間から官省符の地として大小の国役を免じられており、早くから京都祇園社領として支配されていた。

 

*次回から紹介する史料の書き下し文や解釈には、以下の文献を参照しました。

西田長男「祇園牛頭天王縁起の成立」(真弓常忠編『祇園信仰事典』神仏信仰事典シリ

    ーズ10、戎光祥出版、2002、初出1962)。

松本隆信「祇園牛頭天王縁起について」(『中世における本地物の研究』汲古書院

    1996、初出1982)。

『小童村誌』(小童村誌編纂委員会、2002・5)。なお、甲奴町情報ホームページ(http://kounu.jp/guide/data/hichi-sonshi)に、同書の内容が紹介されています。

 

【パンフレット】

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須佐神社の写真】

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武塔神社】

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福王寺文書22 その7(完)

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その7

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

     續記

 夫聖–賢道契焉、「辶+本」–作義遠矣、旣歴于世而傳

 于今而酌事、當–山至大–古者雖風–塵仿彿、但因

                     (マ丶)

 前–賢之遺–脩弛–張之事–歴、聊效者記尒、

 熊谷伊–豆守平信直公信スルコト 當–像矣、天–正二甲戌年夏

 六–月廿四日登–山尊–像之時、靈–龜浮池–面、長五–尺有–余

 其甲金–色喉赤無恐、少クアツテ焉沈、公、聞説弘–法大–師

 開–基之後未見者、是希–代之奇–事也、予鄙–拙薄–信ニシテ

 見コト之者可也ト矣若乎感乎、僉曰、公至–誠也ト焉、此後

 益信–敬、自尒登–山之人臨、雖風度水動皆欲シテント

           (十一)

 龜而企–𨀉矣、天正癸未年御室法–親–王遊之時、登當山

 聞山–像之縁–起、見神–石之形–色、喟–歎シテフニ寺–僧

 名之字及門–弟焉、苟一–寺之榮–望也、卒シテ

 寄可–畏之人

     (1590)

     天正十八年五月日       法印學雄

  右縁起相傳有數本者詞筆鄙拙、今住持學譽有才調窈憾焉、

  然恥自衒而要予筆、予不能固辭卒染毫、

                 埜峯寶光雲石堂

  釋自休登當山之佳什書于此備不失焉、

  題福王寺

 攀嶮登臨之字路 始知身在梵天宮 數聲清聲人間外 一箇閑僧法界中

 湛水接藍浸碧澗 青山擎筆聳虚空 偉哉不動明王境 萬像同揚古佛風

                     尺自休

   余書此一巻、鄙懐一絶贅後俲顰者、可絶倒焉、

   嘗聞靈驗亦風流 爽氣絶塵人豁眸 想像古今書一巻

   「ム+ム+几」毫慵坐若之遊

   おわり 

 

 「書き下し文」

 夫れ聖賢の道に契ひ、「辶+本」作の義遠し、既に世を歴て実を伝へ今に欽みて事を酌ぐ、当山太古のごとくに至るは風塵彷彿と雖も、但だ前賢の遺修に因りて以て弛張の事歴を知る、聊か顰みに倣ふ者後に記して云ふ、熊谷伊豆の守平信直公当像を信奉すること尚し、天正二甲戌の年夏六月廿四日登山し尊像を拜するの時、霊亀池面に浮かぶ、長け五尺有余、其の甲金色、喉赤く恐るる所無し、少くあつて沈む、公の曰く、聞き説く昔弘法大師開基の後未だ其の見る者を聞かず、是れ希代の奇事なり、予鄙拙薄信にして既に之を見ることは謂ふべき幸ひなりと、若し時か感ずるか、僉曰く、公の至誠なりと、此の後益々信敬す、而るにより登山の人池に臨み、風度を水動と雖も皆亀を見んと欲して企𨀉す、天正癸未年御室法親王此の州に遊ぶの時、当山に登り、山像の縁起を聞き、神石の形色を見る、喟歎して且つ寺僧の名を賜ふに学の字及び門弟に公の字を以てす、苟に一寺の栄望なり、卒に記して可畏の人に寄す、

     天正十八年五月日       法印学雄

  右の縁起相伝数本有るは詞筆鄙拙なり、今の住持学誉才調に窈憾有り、

  然して自衒を恥じて予の筆を要む、予固辞するに能はず卒に毫を染む、

                 埜峯寶光雲石堂

  釈自休当山に登るの佳什此に書き備へて失はず、

  題福王寺

 嶮に攀じり登り臨むの字路 始めて知る身の梵天宮に在るを

 数聲清聲人間の外 一箇の閑僧法界の中

 湛水藍に接し碧澗を浸す 青山筆を擎ぐるがごとく虚空に聳ゆ

 偉なるかな不動明王の境 万像同じく古仏の風を揚ぐ

                     釈自休

   余此の一巻を書く、鄙懐一贅を絶えす後顰みに倣ふ者、絶倒すべし、

   嘗て聞く霊験亦た風流 爽気塵を絶えし人眸を豁く 古今の書一巻を想像す 

   (ム+ム+几)毫慵く坐して之くのごとく遊ぶ

   おわり

 

 「解釈」

 そもそも聖人や賢人の道に叶い、「辶+本」作の義はまだ遠い。すでに歳月を経て真実を伝え、今謹んで事実を語り継ぐ。当山の大昔の姿は、風に吹かれて舞い上がる砂や埃によってぼんやりとさせるけれども、ただ前代の賢人たちの遺した慣わしによって、おおよその歴史を知ることができる。いくらか人の真似をするもの(私・学雄)が後代のために記して、このように言う。

 熊谷伊豆守平信直公が不動明王像を信じ尊んで久しい。天正二年甲戌(一五七四)六月二十四日に登山し尊像を拝んだとき、霊妙なる亀が池の水面に浮かんだ。長さは五尺余り、その甲羅は金色で喉は赤く、恐れるところはない。しばらくして沈んだ。熊谷信直公が言うには、「聞いたところによると、昔、弘法大師の福王寺開創以後、いまだ神亀を見たものを聞いたことはない。神亀の出現は世にも希な不思議なことである。私は品性が劣り信仰心も薄くて、すでにこの亀を見たことは、言葉にできないほどの幸運である」と。もしかすると時運に恵まれたのだろうか。みなが言うには、「信直公がこのうえなく誠実であるからだ」と。この後ますます信じ敬った。それ以来、登山した人々は池に向かって、風が吹き水が動こうとも、みな亀を見たいと企んでじっとしていた。天正癸未年(一五八三)御室任助法親王安芸国に遊行なさったとき、当山に登り、山の不動明王像の由来を聞き、霊妙なる石の形や色をご覧になった。感嘆して、そのうえ寺僧の名前として、学の字と門弟に公の字をお与えになった。本当に福王寺全体の栄誉である。こうして記し、畏れ多い後代の人に託す。

     天正十八年五月日       法印学雄

  右の縁起で相伝されたものは数本あるが、その表現や内容は稚拙である。今の住持学誉の文才には少し物足りないところがある。

  だから自らひけらかして縁起を作成することを恥じて、私に書くように求めた。私は固辞することはできず、とうとう筆を染めた。

                 埜峯寶光雲石堂

  釈自休が当山に登ったときの優れた七言律詩をここに書き留めて失わないようにした。

  題は福王寺。

 険しい山によじ登り対面した美しい道。そこで初めて梵天の住む宮殿にいることを知った。数々の美しい声は人間の住む世界の外から聞こえ、一人の僧が静かに法界のなかにいる。湛えられた水は藍色に近く、緑の谷間を満たしている。木々で青々した山は筆を高く持ち上げたかのようで虚空に聳え立っている。偉大であることよ、不動明王の霊域は。さまざまな仏像は、どれも古仏の趣を示している。

                     釈自休

   私はこの縁起一巻を書いた。私の感懐がすべての無駄なものを消した後、人に倣って縁起を書いたことは、驚きのあまり倒れそうになってしまうほどだ。

   かつて当寺の霊験や風雅な趣を聞いた。爽やかな雰囲気は塵を絶やし、人は瞳を開く。昔から今までの縁起一巻に思いを巡らす。鋭く筆を進めるのに気が進まず、座ったままこのように書いた。

   おわり

 

 「注釈」

「效顰」─「顰みに倣ふ」のことか。人に倣って物事をする。

 

「𨀉」─「佇」のことか。

 

「御室法親王

 ─任助法親王厳島御室(大聖院)、伏見殿貞敦親王第四子(仁和寺ホームページhttp://www.ninnaji.or.jp/chronicles.html)。

 

「ム+ム+几」=「ム+ム+凡」。読み「タイ・ダイ」、意味「するどい」。

福王寺文書22 その6

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その6

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 應–永元–年征–夷将–軍義滿公下御–教–書毎年四季修セシム天下安–全

 護–摩–供、以永–準

 同六–年良–海入京–師、奉 東–寺佛–舎–利及大–師

 眞–影、乃其眞安之奥院、且奈原村行大–師

 影–前之燈–分–料、後–花–園–院 叡當–像及碝石

 太–守シム殿–陛、叡–覧儀備感不止、準シテ先–烈

 返–納シ玉焉、且シテ尊–像之因–縁即–事而–眞之義、勅シテ

 (長禄四)

 事–眞–院之額

 夫一–明一–暗者時之常一–榮一–襄者世之數也、當–寺中–世以–徃

 數–百–年之間陵–替正–和スルコトヲ焉、剰爲郡–中寺–社

 門首、亦今幸清–世、太–守公–命シテ當–寺當–国

 聖–道–門惣–別–當、苟僥–倖之遇雖毀–嫌弊–寺之

 盛–事也、故シテ後–葉

     (1460)           (マ丶)

     長祿四年正月日        僧正寛雅

   つづく

 

 「書き下し文」

 応永元年征夷大将軍義満公御教書を下し毎年四季天下安全の護摩供を修せしむ、以て永準と為す、

 同六年良海京師に入り、勅を奉じ東寺の仏舎利及び大師の真影を得、乃ち其の真今の奥の院に安んず、且つ奈原村を以て永く大師影前の燈分料に充て行はる、後花園院当像及び碝石を叡聞し州の太守に詔し石を殿陛に進らしむ、叡覧の儀備はり感止まらず、先烈に準じて早く返納し玉ふ、且つ尊像の因縁即事而真の義を信服して勅して事真院の額を賜ふ、

 夫れ一明一暗は時の常一栄一襄は世の数なり、当寺中世以往数百年の間陵替し正和に至り復することを得、剰え郡中寺社の門首と為す、亦た今幸ひに清世に逢ひ、太守公命じて当寺を以て当国聖道門の惣別当と為す、苟に僥倖の遇毀嫌を免るべからずと雖も弊寺之盛事なり、故に聊か録して以て後葉に貽す、

     長禄四年正月日       僧正寛雅

   つづく

 

 「解釈」

 応永元年(一三九四)、征夷大将軍足利義満公が御教書を下し、毎年四季ごとに天下安全の護摩供を行わせた。これをもって永久に継続する規範とした。

 応永六年(一三九九)、良海は都に入り、勅命を承って東寺の仏舎利弘法大師肖像画を手に入れた。つまり、その肖像画が今の奥の院に安置されている。そのうえ、南原村を永久に大師御影の燈明料として給与した。後花園院は不動明王像と美しい石のことをお聞きになって、守護に命じて石を宮中に進上させた。ご覧になるための儀式が整い、帝のご感慨はおさまらない。先帝に準じて早々にご返納になった。その上、尊像の由来や、現実世界の事物がそのまま真理であるという意に敬服して、ご命令になって事真院の額をお与えになった。

 そもそも明るいと暗いは時の常であり、栄えることと移り変わることはこの世に多くある。福王寺は中世以来数百年のあいだ衰退し、正和年間になって復興することができた。そのうえ安北郡中の寺社の首席となった。また今幸いに清らかな世に逢い、守護が命令して当寺を安芸国真言宗の惣別当とした。本当に思いがけない幸運に逢い、(一時は)衰退を免れることができなかったが、その廃れた寺が栄えたのである。だから、いくらか記録してそれを後代に残す。

   つづく

 

 「注釈」

「奈原村」─南原村。安佐北区可部長南原(『広島県の地名』)のこと。

 

「碝石」

 ─美しい石。昭和五二年(1977)の火災で消失した寺宝「さざれ石」のことか。1号文書注釈(『広島県の地名』)参照。

福王寺文書22 その5

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その5

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 有禅–智上–人ト云、河内國丹–南人也、精フシ於城–州之醍–醐

 布於四方無–縁、一–夜夢カハ西–海則必見ント生–身

 不–動明–王、於是乎正–和四–年春買

 時一–方山–中見ルヲ奇–光、相怪遂到ルニ可–部綾谷邑北–嶺也、

 老–翁出シテ山–像之來–由、上–人思夢–感之事レハ

 山則石–逕斜ニシテ幽邃之䜬、果シテ古–木佛–様儼–然トシテ苔–蘚

 封–滑雲–霧如光–焔、上–人乃念–誦キコト感–慨

 募邑–人茆盧觀–供弥、州–牧武田伊–豆太守氏信公

 聞而傾トシ再–興、高–堂寶–宇輪–奐殆于故–制、添

 本–尊之両脇士、寺–領又如遂–古、奥大師

 影–堂、東–北請熊野權–現十–二–所、北求–聞–持–堂、昔

 大–師修–行之道場也、西–南嚴島両–社、傍樓掛

 梵–鐘、南有五層畫塔、尊氏公之所建也、前樓–門

 有二–金–剛、山半–腹一–社、曰諸–天–堂、昔諸–天降

 于此、故ルト、一–時有人乗而過、其

 蟠–屈シテ鞭–策數回スレトモ而不、相怪乃下ヨリ謝于祠

 則人–馬無故、於是知天–祠之威–崇ナルコトヲ、自尓降

 爲下–馬之所、若レハ違越則無恠焉、禅–智上–人入

 洛 後–醍–酤天–皇山寺之事、  上感–歎増 勅シテ

 賜大勝金剛院之号、上–人住–持云良澄、任僧–正

 次良–海、此時郡–中寺–社悉當–寺門–首

   つづく

 

 「書き下し文」

 禅智上人と云ふ者有り、河内の国丹南の人なり、業を城州の醍醐に精しふし化を四方の無縁に布く、一夜の夢に西海の中に往かば則ち必ず生身の不動明王を見んと、是に於いて正和四年の春船を買ひ波に跨ぎて此の州に到る、時に一方の山中奇光有るを見る、相怪しみ遂に到るに可部綾谷邑北嶺なり、老翁出でて指して山像の来由を説く、上人夢感の事を思ひ早く山に入れば則ち石逕斜めにして幽邃の岫に至る、果たして古木の仏様厳然として苔蘚封滑し雲霧光焔のごとし、上人乃ち前に踞り念誦し感慨無きこと能はず、邑人に募りて茆盧を縛り観供日を弥る時、州牧武田伊豆の太守氏信公聞きて心を傾け再興を事とし、高堂宝宇輪奐として殆ど故制に過ぐ、本尊の両脇士を添ふ、寺領又往古のごとく之を寄附す、奥に大師の影堂有り、東北に熊野権現十二所を勧請す、北に求聞持堂有り、昔大師修行の道場なり、西南の山に厳島両社を鎮む、傍らに楼有り梵鐘を掛く、南に五層の画塔有り、尊氏公の建つる所なり、前に楼門を設く、二金剛有り、山の半腹に一社有り、諸天堂と曰ふ、昔は諸天此に降臨す、故に之を造ると云ふ、一時人有り馬に乗りて之を過ぐる、其の馬蟠屈して鞭策数回すれども敢へて前にすすまず、相怪しみ乃ち馬より下りて祠に陳謝すれば則ち人馬故無し、是に於いて天祠の威崇なることを知る、而るにより降りたる此の処を下馬の所と為す、若し違越有れば則ち怪有らざる無し、禅智上人洛に入りて後醍醐天皇に謁し山寺の事を奏す、上の感歎増す増す深く勅して大勝金剛院の号を賜ふ、上人の次の住持良澄と云ふ、僧正に任ず、次を良海と云ふ、此の時郡中の寺社悉く当寺を以て門首と為す、

   つづく

 

 「解釈」

 禅智上人というものがいた。河内国丹南郡の人であった。仏道を山城の醍醐寺で詳しく学び、四方の衆生を教化した。ある夜の夢で、西海のなかに行くと必ず生身の不動明王を見るだろう、という夢告を得た。そこで正和四年(一三一五)の春に船を買い、波を越えて安芸国にやって来た。その時に一方の山中に不思議な光があるのを見た。禅智上人らは互いに不思議に思って、とうとう可部庄綾谷村の北方の山にやって来た。老翁が現れて山の仏像の由来を説明した。禅智上人は夢告のことを思いすぐに山中に入ると、石の小道が斜めに敷いてあり、奥深く静かな岩穴にやって来た。思ったとおり、古木の仏のお姿は厳かで近寄りがたく、苔が滑らかに覆い、仏を取り巻く雲や霧が光背のようであった。上人はそこで仏前にうずくまり念誦して、深く心に感じないことはなかった。村人に呼びかけて茅の飯櫃を縛り付け、歳月を経て供物を供えていた時、守護武田伊豆守氏信公がこのことを聞いて信心を起こし、寺を再興した。寺の堂舎は高大壮麗で、おおよそ以前の伽藍様式を越えていた。本尊の両脇侍を添えた。また寺領は昔のように寄進した。奥に弘法大師の御影堂がある。東北に熊野権現十二所を勧請した。北に虚空蔵求聞持堂がある。昔、弘法大師が修行した道場である。西南の山に厳島両社を鎮座させた。そばに鐘楼があって梵鐘を掛けた。南に五層の美しい塔がある。足利尊氏公が建てたものである。前に楼門を設置した。そこには二体の金剛力士像がある。山の中腹に一つの社があって、諸天堂という。昔は諸天がここに降臨した。だからこれを造ったそうだ。ある時、人がいて馬に乗ってここに立ち寄った。その馬はうずくまって、鞭を数回打ったけれども一向に前に進まず、互いに不思議に思ってすぐに馬から降りて祠に陳謝したところ、人馬に差し障りはなかった。そこで諸天の祠は、畏れ崇拝するものであることを知った。それ以来、降りたこの場所を下馬の場所とした。もし誤ってそこを通り過ぎるなら、必ず怪異が起こる。禅智上人が都に入って、後醍醐天皇に謁見し、福王寺のことを奏上した。帝の感嘆はますます深く、勅命を下して大勝金剛院という院号をお授けになった。禅智上人の次の住持を良澄という。僧正に任命された。次の住持を良海という。この時、安北郡中の寺社はみな福王寺を首席と見なした。

つづく

 

*注釈は数が多すぎるので省略しました。