周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

己斐文書4

   四 良親寄進状

 

  (端裏)        (う)

  「ほうせいの御きしんしや⬜︎」

 安藝國三田新庄下村内ほうせいの田畠栗林の事

 成佛寺のほん寺りやうとともに、しんによあんそううん僧へ永代き進したてまつり候

 也、かもんのすけ入道道秀禅門の菩提所として取興行可有候、惣領としてきしん申

 所也、仍如件、

     (1372)

     應安五年十月八日

                   良親(花押)

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

  (端裏)

  「奉請の御寄進状」

 安芸国三田新庄下村の内奉請の田畠栗林の事、

 成仏寺の本寺領とともに、真如庵そううん僧へ永代寄進し奉り候ふなり、掃部助入道道秀禅門の菩提所として取り、興行有るべく候ふ、惣領として寄進申す所なり、仍て件のごとし、

     応安五年十月八日

                   良親(花押)

 

 「解釈」

  (端裏)

  「奉請田の御寄進状」

 安芸国三田新庄下村のうち、奉請の田畠栗林のこと。

 成仏寺の本寺領とともに、真如庵そううん僧へ、永久に寄進し申し上げるのであります。掃部助入道道秀禅門の菩提所としてこの土地を受け取り、繁栄させるべきです。私は惣領として寄進し申し上げるところである。よって、寄進状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三

       田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に

       分解を遂げた際、厳島社領として定着を見たもので、承安三年(一一七

       三)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える

       祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(一一九九)十二月

       の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・

       六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年

       (一三九七)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島

       書」)。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親

       教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、

       それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在し

       ていたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領

       主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭

       貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との

       深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比

       較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島

       一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

「奉請」─お願い申し上げること(『日本国語大辞典』)。どういう謂れの土地か、よ

     くわかりません。

「成仏寺」─未詳。三田新庄内の寺院か。

「真如庵」─未詳。三田新庄内の寺院で、正覚寺塔頭か。「そううん僧」は未詳。良

      親らの一族か。

「掃部助入道道秀禅門」─掃部頭親貞のことか(三号文書参照)。

己斐文書3

   三 掃部頭親貞譲状

 

                      (奉請)

 ゆつりわたすあきのくに三田しんしやうのうちほうせい田はたけはやし、ふさいちよ

 まつによにゆつりわたすものなり、いちこののちハ親貞かほたいそとして、しそんの

 あとをとふらうへし、

        (境)

 右このところのさかへの事、かミハきりのきたにをつゑのをのほりミなをへかきる、

 にしハたき山をくたりにあらたにをかわふちの大もりをさかへ、ミなミハ大かわをか

      (奉請)    (門田)    (公方) (公事)

 きるなり、ほうせいハ三田もんてんなれは、くはうのくうしあるへからす、よてこ日

 さたのためにゆつり状くたんの事、

      (1364)

     正へい十九年八月十三日

                   かもんのかミ親貞(花押)

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

 譲り渡す安芸国三田新庄の内奉請田・畠・林、婦妻千代松女に譲り渡す者なり、一期の後は親貞が菩提所として、子孫の後を弔ふべし、右この所の境の事、上はきりのきたにをつえのを登りみなをへ限る、西はたき山を下りにあら谷を川淵の大森を境、南は大川を限るなり、奉請田は三田門田なれば、公方の公事あるべからず、仍て後日の沙汰のために譲状件のごとし、

     (1364)

     正平十九年八月十三日

                   掃部頭親貞(花押)

 

 「解釈」

 譲り渡す安芸国三田新庄のうち、奉請田・畠・林を妻の千代松女に譲り渡すものである。一期譲与の後は、私親貞の菩提所として、子孫が後世を弔うべきだ。

 右のこの場所の境のこと。上はきりのきたにをつえのを登り、みなをへ限る。西はたき山を下りにあら谷を川淵の大森を境とする。南は大川を限るのである。奉請田は三田新庄の門田なので、公方の公事はあるはずもない。そこで、後日の訴訟のため、譲状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三

       田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に

       分解を遂げた際、厳島社領として定着を見たもので、承安三年(一一七

       三)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える

       祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(一一九九)十二月

       の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・

       六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年

       (一三九七)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島

       書」)。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親

       教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、

       それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在し

       ていたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領

       主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭

       貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との

       深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比

       較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島

       一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

「奉請田」─「奉請」は「お願い申し上げること」の意(『日本国語大辞典』)。どう

      いう謂れの土地か、よくわかりません。

「門田」─中世武士・土豪の屋敷地の門前などに接続している耕地。畑の場合は門畠。

     屋敷地から遠く離れた沖の田や山田と対比される良田。屋敷をめぐる濠の水

     を用い、水利の条件もよく、多くは下人・所従に耕作させるか、周辺の農民

     に小作させた。領主・国衙の検注の対象とならず年貢・公事がかからないの

     がふつうである(『古文書古記録語辞典』)。

「公方」─三田新庄は厳島社領なので、公方は厳島神主と考えておきます。

「正平」─南朝年号なので、掃部頭親貞は南朝方に組みしていたと考えられます。

 

*二段落目の境についての記載は、ほとんど訳せませんでした。

己斐文書2

   二 慈雲譲状

 

 (ゆつり)

 [  ]わたす入たうさこのやまはやしはたけこ田の事

                  (手)       (限)   

 右かの入たうさこは、こ入たうとのゝ御てより、ゑいたいをかきりてゆつりゆるとこ

           (甥)   (蔵)

 ろ也、しかるをおなしをいなからくら人二らうにふちされ、心やすくわたるゝあい

                           (う脱)

 た、こ入たうとのゝゆつりをともにあいそへて、くら人二らにゆつりわたすところ

 (實) (他) (妨)

 しち也、たのさまたけあるへからす、またくちきやうせしめ候へく候、よてのちのた

     (状脱)

 めにゆつりのくたんのことし、

     かうゑい四ねん六月廿九日

                     慈雲(花押)

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

 譲り渡す入道迫の山林・畠・古田の事

 右彼の入道迫は、故入道殿の御手より、永代を限りて譲り得る所なり、然るを同じ甥

 ながら蔵人二郎に扶持され、心安く渡る間、故入道殿の譲りをともに相副へて、蔵人

 二郎に譲り渡す所實なり、他の妨げあるべからず、全く知行せしめ候ふべく候ふ、仍

 つて後のために譲状件のごとし、

     (1345)

     康永四年六月廿九日

                     慈雲(花押)

 

 「解釈」

 譲り渡す入道迫の山林・畠・古田のこと。

 右のこの入道迫は、故入道殿ご自身より、永久に譲り得たものである。しかし、私は故入道殿の同じ甥である蔵人二郎に助けられ、安心して暮らしているので、故入道殿の譲状を、この譲状と一緒に副えて、蔵人二郎に譲り渡すことは事実である。他人の妨害があってはならない。知行を全うなさるべきです。そこで、後日のため、譲状の内容は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「入道迫」─未詳。三田新庄の地名か。

「故入道殿」─一号文書の道専のことか。八号文書によると、「道専」と「栗原右京助

       親家」を「二親」と記載しているので、「道専」は叔母(伯母)かもし

       れません。

己斐文書1

解題

 南北朝時代十三通、戦国時代二通からなる。前者は厳島社領であった高田郡三田新庄下村の在地の状況を示す文書で、譲状三通、寄進状七通を含んでいる。後者は毛利氏からの宛行状と仮名書出である。

 本文書は三田村(広島市白木町)の正覚寺に伝来した文書とこれを現在所蔵する己斐氏自身の文書からなる。己斐氏は戦国時代には己斐の茶臼山城に拠った豪族である。正覚寺は現在小堂を残すのみであるが、堂内には永和・至徳書写の大般若経が蔵されている。

  

   一 道専譲状

 ゆつりわたすにうたうさこのハやしはたけこたの事

(しヵ)(慈雲)(房)たうせん殿      (今生後生)

 ⬜︎うんの御ハうに心さしふかくて、こんしやうこしやう、たうせんにありかたくあた

 られ候ニよて、一こふんゆつりたてまつる也、一このゝちわくら人のこまこのなかに

                             (違乱)

 心さしふかくあたられたふへきなり、いちふんたりといふともいらんせんものわ

 (罪科)

 さいくたるへし、のちのためにしやうくたんのことし、

    (暦応)  (元年)

    りやくをうくわんねん八月三日

                      たうせん(花押)

 

 

 「書き下し文」(必要に応じて漢字を当てました)

 譲り渡す入道迫の林・畠・古田の事

 慈雲の御房に志深くして、今生後生、道専にありがたく当たられ候ふによて、一期分

 譲り奉るなり、一期の後は蔵人の子孫の中に志深く当たられ給ふべきなり、一分たり

 と雖も違乱せん者は罪科たるべし、後のために状件のごとし、

     (1338)

     暦応元年八月三日

                   たうせん(花押)

 

 「解釈」

 譲り渡す入道迫の林・畠・古田のこと。

 私道専は慈雲御房への情愛が深く、慈雲は今生も後生も、私に尊く接してくだいますことによって、私は一期分として慈雲に譲り申し上げるのである。一期の後は、蔵人の子孫のなかで情愛深く接するものに、右の所領をお与えになるべきである。ほんの少しでも違乱するようなものは、罪科に処すべきである。後日のため、譲状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「入道迫」─未詳。三田新庄の地名か。

 

「三田新庄」

 ─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島社領高田郡藤原氏の没落を契機に、『和名抄』の高田郡三田郷が三田郷(再編後のもの)・三田小越村・三田久武村などの国衙領諸単位に分解を遂げた際、厳島社領として定着をみたもので、承安三年(1173)二月の伊都岐島社神主佐伯景弘(「厳島神主御判物帖」)に見える祈荘がその前身をなすと思われる。荘名は正治元年(1193)十二月の伊都岐島社政所解(「新出厳島文書」)に同年分厳島社朔幣田七反・六節供田二町の指定在所として現れるのを初見とし、降って応永四年(1397)六月の厳島社領注進状にも見える(「巻子本厳島文書」)。永仁六年(1298)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親教和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、それぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在していたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領主一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭親貞・前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との深い交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比較的早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島社一円社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)。

 

「蔵人」

 ─蔵人二郎。二号文書によると、道専(故入道殿)と慈雲・蔵人は叔母(伯母)と甥の関係にあったと考えられます。

 

「たうせん(道専)」─二号文書の故入道殿か。

 

*これは、叔母(伯母)である道専が、正覚寺の僧侶で甥である慈雲に、一期分として入道迫の地を譲った文書です。慈雲が亡くなった後は、同じ甥である蔵人二郎の子孫に譲ることも指示していますが、二号文書によると、慈雲は援助を受けていることを理由に、生前にこの地を蔵人二郎本人に譲ってしまいます。

横山林左衛門氏旧蔵文書(完)

解題

 前記、伊藤信久への下文と同じ性質のものである。横山真高は鈴張(現広島市安佐町)の関山城に拠っていた豪族である。文政のころの鈴張村庄屋幸右衛門その子孫であるという。

 

   一 大内義隆下文     ○東大影寫本ニヨル

   (義隆)

    (花押)

 下           横山右馬助眞高

   可早領知安藝国安北郡鈴張内貳拾三石余地事

  右以件人宛行也者、早可領知之状如件、

      (1542)

      天文十一年十一月十二日

 

 「書き下し文」

 下す          横山右馬助眞高

   早く領知せしむべき安芸国安北郡鈴張の内二十三石余りの地の事、

  右件の人を以て充て行ふ所なり、てへれば早く領知を全うすべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 下す          横山右馬助眞高

   早く領有するべき安芸国安北郡鈴張のうち、二十三石余りの地のこと。

  右の土地は、この横山眞高に給与するものである。よって、早く領有を全うするべきである。下文の内容は、以上のとおりである。

 

 「注釈」

「鈴張」─広島市安佐北区安佐町大字鈴張。中世の支配関係は不明であるが、北の壬生

     庄(現山県郡千代田町)が厳島神社領、南の飯室村が国衙領で、厳島神社

     安芸国衙は深く結びついており、両者のいずれかの影響下にあったと考えら

     れる。享禄四年(一五三一)閏五月九日毛利元就証状(吉川家文書)では、

     鈴張は「阿那・小河内・飯室・山中・今田」とともに吉川興経に安堵されて

     いた。天文十一年(一五四二)十一月十二日の大内義隆下文(横山林左衛門

     氏旧蔵文書)によれば、鈴張内二十三石余りの地がこの地の豪族横山右馬助

     へ宛行われている。同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注文(毛

     利家文書)になると「鈴張 熊谷知行」と見え、毛利氏に従った熊谷氏の支

     配が及んできている(『広島県の地名』)。