周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

異形の捨て子と連続する怪異 (Abandoned malformed child and weird phenomenon)

  宝徳二年(一四五〇)八月九日条 (『康富記』3─196頁)

 

 九日庚辰 晴、

  (中略)

 給事中令語給云、去月廿三日七條西洞院邊棄兒、人見及分馬之形也云々、依之賀三品

 在貞卿尋問先蹤之間、披見諸道勘文、注出先例一通遣之云々、草案拜見了、仁徳天皇

 御宇、仁明天皇御宇、醍醐天皇御宇昌泰二年、寛仁年中、大治年中、永万元年、治承

 三年等有例、

 晩又令語給云、去月一日、つくし周防長門両国以外大風吹、両国中大木民屋城郭等一

 不全、希代事也、不劣永祚風歟云々、不思議也、又去月十六日、越中國有奇異事、牛

 嶽ト云所ヨリ有光物、雲中有鬼形、指艮方(割書)「越後ニアタル、」飛行、其路跡

 草木山河人屋悉以枯渇、作毛無一粒、不知幾十里云々、希代事也、隨而去月廿三日京

 中有産異兒之者、妖孽之奇異不可説、又今月五日夜、東方有流星、(割書)「長五六

 丈云々、」言語道断、彼異兒、先々色々不思議體也、或二面四手之者アリ、或無面貌

 者アリ、或両頭一身之者アリ、又胸以上人形ニテ腹以下馬手足之者アリ、或如鬼之者

 アリ、或男兒ト馬ト二物を一度ニ産ルモアリト云々、

  (後略)

 

 「書き下し文」

 給事中語らしめ給ひて云く、去月二十三日七條西洞院辺りに棄て兒あり、人見及ぶ分馬の形なりと云々、之に依り賀三品在貞卿先蹤を問ふの間、諸道の勘文を披見し、先例一通を注し出だし之を遣はすと云々、草案を拜見し了んぬ、仁徳天皇御宇、仁明天皇御宇、醍醐天皇御宇昌泰二年、寛仁年中、大治年中、永万元年、治承三年等例有り、

 晩又語らしめ給ひて云く、去月一日、つくし、周防長門両国以ての外大風吹く、両国大木民屋城郭等一つとして全うならず、希代の事なり、永祚の風に劣らざるかと云々、不思議なり、又去月十六日、越中国に奇異の事有り、牛嶽と云ふ所より光る物有り、雲中に鬼形有り、艮方「越後に当たる」を指して飛行す、其の路の跡の草木山河人屋悉く以て枯渇し、作毛一粒も無し、幾十里を知らずと云々、希代の事なり、隨つて去月二十三日京中異兒を産むの者有り、妖孽の奇異不可説、又今月五日夜、東方流星有り、「長さ五、六丈と云々」言語道断、彼の異兒、先々色々不思議の體なり、或いは二面四手の者あり、或いは面貌無き者あり、或いは両頭一身の者あり、又胸以上人の形にて腹以下馬の手足の者あり、或いは鬼のごとき者あり、或いは男兒と馬と二物を一度に産まるもありと云々、

 

 「解釈」

 清原業忠がお話しになって言うには、「先月二十三日に七条西洞院辺りで捨て子があった。人が見たところでは馬のような姿であったそうだ。これによって、賀茂三位在貞卿が先例を尋ねたので、諸道勘文を披見し、先例一通を差し出して遣わした」といった。賀茂在貞の草案を拝見した。仁徳天皇の御代、仁明天皇の御代、醍醐天皇の御代昌泰二年(899)、寛仁年中、大治年中、永万元年(1165)、治承三年(1179)等に先例があった。

 清原業忠が夕方になってまたお話になるには、「先月七月一日、筑紫国や周防・長門の両国でとんでもない大風が吹いた。周防・長門の両国では、大木や家屋、城郭など、一つとして無事なものはなかった。世にも稀なことである。永祚元年(989)に近畿地方を襲った台風にも劣っていないのではないか」という。思いもよらないことである。また先月十六日、越中国で奇妙なことがあった。牛嶽という所から光る物が現れた。雲の中に鬼のような形が現れた。北東の越後方面を指して、光る物は飛んで行った。その道の跡の草木や山河、家屋はすべて破壊され、作毛は一粒もない。その被害は何十里ほどかわからないそうだ。世にも稀なことである。その結果、先月二十三日に都の中で奇形の子どもを産んだものが現れた。不吉な前兆を示す奇怪な出来事は理解しがたい。さらに今月八月五日夜、東方に流星が現れた。長さは五、六丈だそうだ。とんでもないことだ。この奇形の子どもは、ともかくいろいろと不思議な容貌である。ある子どもは顔が二つで手が四本である。あるいは顔がない子どもがいる。あるいは頭が二つで体は一つの子どもがいる。また胸より上は人の姿で、腹より下が馬の手足の子どももいる。あるいは鬼のような子どもがいる。あるいは、男児と馬の双子を一度に産んだものもいるそうだ。

 

 Kiyohara Naritada spoke as follows. There was an abandoned child around Shichijo Nishinotouin district on the 23rd of last month. Some say that the child was a horse-like figure. Kamo akisada asked me if there was such an incident in the past, so I searched for one and told him.

 Kiyohara Naritada came to the evening and talked to me again. On July 1st, The wind blew hard in Tsukushi prefecture (Fukuoka prefecture) and Suou Nagato prefecture (Yamaguchi prefecture). In Suou and Nagato prefectures, large trees, houses and castles were all broken. It is a very rare event. It is not inferior to the typhoon that hit the Kinki region in 989. It is unbelievable. Also on the 16th of July, there was a strange thing in Ecchu province. A shining object appeared from a place called Ushigatake mountain. A form like a demon appeared in the clouds. Glowing objects flew toward Echigo prefecture in the northeast. The plants, mountains, rivers, houses and crops were all destroyed. It seems that I do not know how big the damage is. It is a very rare event. As a result, those who gave birth to malformed children appeared in the capital on July 23rd. It is difficult to understand bizarre events that show sinister omens. In addition, a meteor appeared to the east on the evening of the fifth of August. The length is 15-18 meters. It's a bad thing. These malformed children have strange appearances. One child has two faces and four hands. One child has no face. One child has two heads and one body. Another child is a human in the upper body and a horse in the lower body. Another child is like a demon. And there are women who gave birth to a boy and a horse twin.

 

 

 「注釈」

「給事中」─少納言清原業忠。

 

「諸道勘文」─大学寮や陰陽寮などの博士が調べて上申した文書。

 

「牛嶽」─富山県南砺市

 

「不可説」

 ─「ふかせち」。理解しがたいこと、けしからぬこと(「建武の新政の法」『中世政治社会思想』下、P91)。

 

*悪いことは続くと言いますが、不思議なことも続くのでしょうか。まず、七月一日に福岡県と山口県で、台風による甚大な被害が出てしまいます。そして、同月十六日には富山県の牛嶽から光る物体が現れ、数十キロにわたってあらゆるものをなぎ倒していきました。その結果、二十三日に奇形の子どもが都に捨てられたのです。さらに、八月五日には流星が出現します。

 現代人ならば、台風は気象現象、光る物体は物理現象(怪奇現象?)、奇形児の出産は生理現象、流星は天体現象に分類し、相互に関係性を認めるようなことはありません。ですが、中世人はこれらを一括して、理解できない不吉な現象と捉えています。そして、理解できないにもかかわらず、そこに因果関係を見出しています。解釈をしていてドキッとしたのですが、光る物体の飛行現象と奇形児の出産を、「隨而」という接続詞で結びつけているのです。解釈は間違っていないと思うのですが、「先行する二つの現象があった。だから、奇形児が生まれた」という文脈なのです。これが当時の人々の考え方なのでしょう。当たり前のことかもしれませんが、同じ現象を見ても、それに対する解釈・意味づけは、現代人と中世人では大きく異なります。見るという行為には、大きなバイアスがかかっているようです。中世人のものの見方が、もっとわかるようになりたいものです。

 さて、奇形児の捨て子は不思議な現象の結果であるとともに、さらなる不吉な出来事の前兆でもあったようです。大喜直彦「子どもと神仏─捨子、境界の子─」(『中世びとの信仰社会史』法蔵館、2011)によると、中世の「異児」は、「災いをおこす、何か得体の知れない者と認識されてい」たようです。だから、「異児を捨てるのは、異児の力を避けるためであったよう」です。また、捨て子はそのまま死ぬか、牛馬に踏まれるか、鳥獣の餌食になることが自然だったそうです。街中に嬰児の死体が転がっているかと思うと、ゾッとします。このあたりの感覚も、現代人とはずいぶん違うようです。

 

 It is said that bad things will continue, but strange things will also continue. First of all, a huge typhoon will cause huge damage in Fukuoka Prefecture and Yamaguchi Prefecture on the 1st of July. Then, on July 16, a shining object appeared from Mt. Ushigatake in Toyama Prefecture, and it overthrew everything for tens of kilometers. As a result, on July 23rd, a malformed child was abandoned in the capital. In addition, a meteor appeared on August 5.

 Modern people classify typhoon as a meteorological phenomenon, a luminous object as a physical phenomenon (a weird phenomenon?), a birth of a malformed child as a physiological phenomenon, a meteor as an astronomical phenomenon, and does not recognize a causal relationship between them. However, the medieval people collectively recognized these as sinister phenomena that they could not understand. And although they can not understand, they found a causal relationship there. Astonishingly, they connect the appearance of a glowing object with the birth of a malformed child by the conjunction "because". This is probably the way of thinking of people at that time. It may be natural, but even if we look at the same phenomenon, the interpretation for it is very different between modern and medieval people. The act of seeing seems to be quite biased by customs and culture.

 By the way, it seems that the emergence of the malformed child was a result of a strange phenomenon, and also a precursor of a more sinister event. According to the research of Ohgi Naohiko, it seems that the malformed child in the Middle Ages was considered to be a mysterious human who causes calamity. So, it seems that to discard the malformed child was to avoid that power. It is also natural that abandoned children die, be stepped by cows and horses, and be eaten by birds and beasts. Children's corpses were neglected in the city. I feel this situation very scary, but how did the medieval people feel?

(I used Google Translate.)

 

 

*参考史料

  宝徳二年(一四五〇)七月十六日条 (『康富記』3─189頁)

 

越中國奇異事、

 十六日戊午 晴陰、後日人々語説、今日於越中國有不思議、大風大雨之中、

 ウシガタケ

 牛嶽ト云所ヨリ光物出、(割書)「其體雲中鬼形有之、」指艮飛行、

 其間十里許也、(割書)「山河草木悉損失云々、」

  (後略)

 

 「書き下し文」

 (傍注)「越中国奇異事、」十六日戊午 晴れ陰る、後日人々語り説く、今日越中国

 に於いて不思議有り、大風大雨の中、牛嶽と云ふ所より光る物出づ、(割書)「其の

 體雲中に鬼の形之有り、」艮を指して飛行す、其の間十里ばかりなり、(割書)「山

 河草木悉く損失すと云々、」

 

 「解釈」

 越中国で起きた奇怪な出来事のこと。十六日戊午、晴れてから曇った。後日、人々が語ったことには「今日越中国で不思議なことがあった。大風と大雨のなか、牛嶽というところから光る物が出現した。その姿は雲の中で鬼のような形に見えた。北東を指して飛んで行った。その距離は十里ほどで、山河草木はすべて破壊されたそうだ。

横田唯二氏旧蔵文書3(完)

   三 小早川隆景書状

 

   (切封ウハ書) (鵜飼元辰)

    「      鵜新右       隆景」

           (先)

 態申登候、横田了喜事、千年堺津切々差上せ辛労候、乍重疊之儀、爰許太篇

 之普請ニ付而、遠國候条、可然衆登遣候儀不相成候間、彼者可相頼候、

 此等之趣能々可申渡候、謹言、

      二月廿九日          隆景(花押)

 

 「書き下し文」

 態と申し登り候ふ、横田了喜の事、先年堺津に切々差し上らせ辛労に候ふ、重畳の儀

 ながら、爰許太篇の普請に付けて遠国に候ふ条、然るべき衆を登り遣はし候ふ儀相成

 らず候ふ間、彼の者相頼るべく候ふ、此れ等の趣能く能く申し渡さるべく候ふ、謹

 言、

 

 「解釈」

 特別に申し上げます。横田了喜のことですが、先年堺津にたびたび上らせ、苦労させております。その働きにはこのうえなく満足しておりますが、こちらは大がかりな普請で遠国におりますため、適切な衆を派遣する件は叶わないので、横田了喜を頼りにするべきです。これらの内容を慎重に申し渡すべきです。以上、謹んで申し上げます。

横田唯二氏旧蔵文書2

   二 吉川元春小早川隆景連署書状(禮紙付)

 

 其方事、連々依馳走、分国中荷役并勘過之事、不相違之由、

 被遣御一通候、尤肝要候、謹言、

    (永禄十一年)

      十一月六日          元春(花押)

                     隆景(花押)

        横田藤右衛門尉殿

      (禮紙切封ウハ書)

       「横田藤右衛門尉殿     元春」

 

 「書き下し文」

 其方の事、連々馳走を抽づるにより、分国中の荷役并に勘過の事、相違有るべからざ

 るの由、御一通を成し遣はされ候ふ、尤も肝要に候ふ、謹言、

     (1568年)

      十一月六日          元春(花押)

                     隆景(花押)

        横田藤右衛門尉殿

      (禮紙切封ウハ書)

       「横田藤右衛門尉殿     元春」

 

 「解釈」

 そなたのこと。たえず人一倍尽力したことにより、分国中の荷役や関銭の免除については相違あるはずもないと、輝元様は免状を発給なさいました。何よりも重要なことです。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「御一通」─1号文書のことか。

横田唯二氏旧蔵文書1

解題

 横田家の先祖は毛利氏の御用商人であったとみられる。当家は昭和の初めまで吉田の商家であった。

 

 

   一 毛利輝元荷役并勘過免状  ○以下三通、東大影冩本ニヨル

 

 其方事、連々抽馳走之条、分國中荷役并勘過之事、令免許所也、聊不

 有相違之状如件、

    (1568)

    永禄十一年六月朔日        輝元(花押)

          横田藤右衛門尉殿

 

 「書き下し文」

 其方の事、連々馳走を抽きんづるの条、分国中の荷役并に勘過の事、免許せしむる所

 なり、聊かも相違有るべからざるの状件のごとし、

 

 「解釈」

 そなたのこと。たえず人一倍尽力してきたので、分国中の荷役や関銭を免除するところである。少しも相違あるはずもないことは、以上のとおりである。

永井文書(完)

解題

 この和与状は、文政十一年(一八二八)の写文書と同紙に記された解説によると「右之書者永井氏先祖城主タリシ時、知行所境論イタシ、北条家へ強訴及ヒ京都六波羅より被下御教書之由ニ而、代々持来候、」とある。しかし本文書は、当事者間での和与を書きとめたものであって、六波羅からのものではない。

 その他数多くの文書は、宝暦六年(一七五六)の大風雨の時に、雨にぬれ、くさりはてたという。

 

 

   一 藤原氏代使源光氏藤原親教連署和與状

 

  和与

     高田郡

   安藝國三田新庄上村与下村堺事

  條々

 一田畠堺事

                      (郎四郎) (頼直ヵ)

  右互可前御使下妻孫次郎入道浄一熊谷三[  ]入道行蓮之牓示者也、

  但就當御使小早河美作前司忠茂武田孫四郎泰繼之復撿、自下村

  取出之田畠三分之一者、吉氏屋敷中分之時、以下村分之田畠

  上村由事、相互和与之上者、不子細

 一山野堺事

  右自河以東者、自七曲道上者可柚木谷也(割書)「安駄与布山

  間也」、但布山并平等寺兩狩倉西之堺者、自七曲平等寺大谷者可

  限道者也、自大谷北者、上原源次郎林西際江直仁通天可堺也、次

            (行)

  友安名栗林者、上村當知⬜︎之上不相違者也、次平等寺布山兩狩倉

      (堺)(西ヵ)

  (割書)「⬜︎以⬜︎」栗林替者、吉氏之屋敷中分之時、以下村分之田伍段

  付上村者也、

 一小押越狩倉内目籠大丸小丸可上村、但件堺者、限西倉橋木道

  限南北大字通道也、

 一吉氏屋敷事

  右雖上村最中、相互以和与之儀、可中分知行者也、次吉氏

  押領分林事、兩方可等分之沙汰也、

 一八幡新宮神田事

  右同雖上村最中、以和与之儀耕作事神事段、任前御使

  之例、隔年一年通ニ可其沙汰

 以前條々、子細雖之、所詮永止相論之儀堺畢、此上若雖一塵

 越立置堺等相互令違乱者、爲上裁所領於一方者也、

 仍爲向後龜鏡和与之状如件、

     (1298)

     永仁六年五月 日     藤原氏代使源光氏(花押)

                  藤 原  親 教(花押)

       ○紙繼目ニ花押アリ

 

 「書き下し文」

  和与す

   安芸国三田新庄上村と下村の堺の事

  條々

 一つ、田畠堺の事

  右、互いに前の御使下妻孫次郎入道浄一・熊谷三郎四郎入道行蓮の牓示を守るべき者なり、但し当御使小早河美作前司忠茂・武田孫四郎泰継の復検に就き、下村より取り出ださるる所の田畠三分の一は、吉氏屋敷中分の時、下村分の田畠をて上村に付けらるべき由の事、子細申すに及ばず、

 一つ、山野堺の事

  右、河より以東は、七曲より道上は柚木谷を限るべきなり(割書)「安駄と布山との間なり」、但し布山并に平等寺両狩倉西の堺は、七曲より平等寺に至る大谷は、道を限るべき者なり、大谷より北に向かふことは、上原源次郎の林の西際へ直に通りて堺すべきなり、次いで友安名の栗林は、上村当知行の上相違有るべからざる者なり、次いで平等寺布山両狩倉(割書)「堺以西」栗林の替えは、吉氏の屋敷中分の時、下村分の田伍段を以て上村に付くべき者なり、

 一つ、小押越狩倉の内目籠大丸・小丸は上村に付けらるべし、但し件の堺は、西は倉橋の木道を限り、南北は大字通道を限るなり、

 一つ、吉氏屋敷の事

  右、上村最中たりと雖も、相互に和与の儀を以て、中分知行せしむべき者なり、次いで吉氏押領分の林の事、両方等分せられるべきの沙汰なり、

 一つ、八幡新宮神田事

  右、同じく上村最中たりと雖も、和与の儀を以て耕作と云ひ神事の段と云ひ、前の御使の例に任せ、隔年一年通りに其の沙汰せらるべし、以前の條々、子細之多しと雖も、所詮永く相論の儀を止め堺を定め畢んぬ、此の上若し一塵と雖も、堺等を越え立て置き相互に違乱致さしめば、上裁として所領を一方に付けらるべき者なり、仍て向後亀鏡として和与の状件のごとし、

 

 「解釈」

 和解した安芸国三田新庄上村と下村の堺のこと。

  条々。

 一つ、田畠堺のこと。

  右の堺について、互いに前の御使下妻孫次郎入道浄一と熊谷三郎四郎入道行蓮が定めた榜示を守らなければならない。ただし、現在の御使小早川美作前司忠茂と武田孫四郎泰継の再検視により、下村から選び出された田畠三分の一は、吉氏の屋敷地を中分するときに、この下村分の田畠をもって上村に渡すべきことについては、事情を申すまでもない。

 一つ、山野堺のこと。

  右の堺について、三篠川より東、七曲から道上の間は柚木谷で堺を限るべきである。「安駄と布山との間である。」ただし、布山と平等寺の両狩倉の西の堺、七曲から平等寺に至る大谷は、道を堺にするべきものである。次いで友安名の栗林は、上村が当知行しているので、相違あるはずもないのである。次いで平等寺と布山の両狩倉「堺は以西」の栗林の替えは、吉氏の屋敷地を中分するとき、下村分の田五段をもって上村に渡すべきものである。

 一つ、吉氏屋敷のこと。

  右の屋敷地は、上村の当知行であるけれども、互いに和解の取り決めによって、中分し知行するべきものである。次いで、吉氏押領分の林のことは、両方で等分せよという裁許である。

 一つ、八幡新宮神田のこと。

  右の神田は、同じく上村の当知行であるけれども、和解の取り決めによって、耕作も神事も前の御使が定めた先例のとおりに、上村と下村は隔年で勤めなければならない。

 以前の取り決めには、多くの事情があるけれども、結局のところ永久に相論を止め、堺を決めた。この上、もし少しでも堺を越えて榜示を立て置き、秩序を乱すならば、厳島神主の裁許として、所領を上村か下村のどちらか一方に渡すべきものである。そこで、今後の証拠として、和与状の内容は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「三田新庄」─高田郡。現在の広島市安佐北区白木町三田・秋山付近を領域とした厳島

       社領。永仁六年(一二九八)五月の三田新荘藤原氏代源光氏・藤原親教

       和与状によれば、三田新荘は上村(秋山)・下村(三田)に分かれ、そ

       れぞれに藤原姓を名乗り厳島社神主の諱「親」を用いる領主の存在して

       いたことが知られる(「永井操六氏所蔵文書」)。南北朝期の下村領主

       一族の譲状や菩提所正覚寺への位牌料所の寄進状などにも掃部頭親貞・

       前能登守親冬・宮内少輔親房の名が見え、彼らと厳島社神主家との深い

       交渉の様子をうかがわせている(「己斐文書」)。三田新荘は、比較的

       早期に預所職を梃子とする神主一族の在地領主化が図られた厳島社一円

       社領であったと考えられる(『講座日本荘園史9 中国地方の荘

       園』)。

「小越村」─安佐北区白木町小越村。市川村の三篠川を境に東対岸に位置し、南はその

      支流を挟んで秋山村に接する。高田郡に属し、古くは秋山村と一村であっ

      たともいう。「芸藩通志」に「広三十町、表十五町、東北は山高く、西南

      は平田にて、川を界す、民産、工商あり」とある。承安三年(1173)

      二月日付の安芸国司庁宣(厳島文書御判物帖)に「三田郷内尾越村為伊都

      岐島御領、知行民部大夫(佐伯)景弘事」とあり、続けて「右件三田郷内

      尾越村者、任文書相伝之理、為神主景弘朝臣地頭寄進伊都岐島御領、於官

      物者、弁済国庫、以万雑公事代、可令勤仕神役之状、所宣如件」とあり、

      他の三田郷内の村々と同様、平安時代末期には厳島神社領として万雑公事

      代を神社に納めることになっている。一方で、鎌倉時代中期のものと思わ

      れる安芸国衙領注進状(田所文書)には「小越村二丁一反斗」とあり、

      「除不輸免二丁一反斗」として「実相寺馬上免一反斗、同例免五反、鎌倉

      寺免五反、惣社仁王講免一丁」と記される。なおこの頃小越村の地は厳島

      神社領三田新庄にも属したらしく、同庄の上村と下村の村境の和与を記し

      た永仁六年(1298)五月日付の藤原氏代使源光氏藤原親教和与状(永

      井文書)に「小押越狩倉内目籠大丸小丸可被付上村」とある。この「小押

      越」が小越村のことかと思われるが、この和与状に記される地名を現在地

      に比定すると、三田新庄上村はおおよそ現白木町秋山地区、下村が原三田

      地区と考えられる。(中略)居拝見にある中山神社は、「国郡志下調書出

      帳」に中山八幡社と記され、勧請年月は不詳であるが、寛永七年(163

      0)再建の棟札があると記される。同書出帳は他に吉井権現社・山根荒神

      社を記し、実相寺という地名が残り、観音堂一宇があると記すが、これは

      前記国衙領注進状に見える実相寺の跡地と思われる(『広島県の地

      名』)。

 

*田畠堺と山野堺の記載については、ほとんどわかりませんでした。