周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

圓立寺文書10(完)

   一〇 木次土佐守書状(折紙)

 

   尚々御方様御進退、いまの様ニてうちにては成申間敷候条、来春早々御下候而、

   御理被仰上、其上にて不成相候ハゝ、雲州へ御上候ても可然存候、

   爰もとの理相かう御澄候へく候、いさい木太郎兵可御物語候、以上我等

        (石見那珂郡

   事も今月朔日ニ濱田罷登候条、くわしく不申入候、

 以前其元参候而、万物語申候て本望ニ存候、御方様事、従雲州隙明候而、其許

 まて御下向可然存候、定年内者、爰元御下之儀者、成申間敷候条、来春ハ早々

 御出頭候而、御案内被仰上候て、可然存候、御方様朝枝村今之様之御あてかい

          (繁澤次郎兵衛尉)

 にてハ、成申間敷候由、次兵様へも)委敷申入候、兎角来春早々御下候ハ丶、理相澄

 候而可進候、恐々謹言、

      十一ノ朔日        木土佐(花押)

       西泉坊

       ○以上、四号カラ一〇号マデノ七通ヲ一巻ニ収ム

 

 「書き下し文」

 以前其元へ参り候ひて、万物語申し候ひて本望に存じ候ふ、御方様の事、雲州より隙

 明に候ひて、其許まで御下向然るべく存じ候ふ、定めて年内は、爰元御下りの儀は、

 成り申すまじく候ふの条、来春は早々に御出頭候ひて、御案内仰せ上げられ候ひて、

 然るべく存じ候ふ、御方様朝枝村の今の様の御あてかいにては、成り申すまじく候ふ

 由、次兵様へも委しく申し入れ候ふ、兎角来春早々に御下り候はば、理相澄み候ひて

 進らすべく候ふ、恐々謹言、

   尚々御方様御進退、いまの様にてうちにては成り申すまじく候ふ条、来春早々に

   御下り候ひて、御理仰せ上げられよ、其の上にて成り相はず候はば、雲州へ御上

   り候ひても然るべく存じ候ふ、爰もとの理相かう御澄み候ふべく候ふ、いさい木

   太郎兵御物語有るべく候ふ、以上我等の事も今月朔日に浜田へ罷り登り候ふ条、

   くわしく申し入れず候ふ、

 

 「解釈」

 以前にそちらへ参上しまして、様々なことについてお話し申し上げまして満足に思い申し上げております。あなた様のことですが、暇になりましてから、出雲よりそちらまでご下向するのがよいと存じます。きっと年内は、こちらへのご下向の件は実現するはずもありませんので、来春には早々にご出頭になりまして、ご事情を申し上げなさいますのが適切と存じます。あなた様の朝枝村の今のようなご支配は、実現し申し上げるはずもありませんので、繁沢元氏様へも詳しく申し入れました。ともかく来春早々にご下向になりますならば、道理ははっきりするはずです。以上、謹んで申し上げます。

   なお、あなた様のご支配は、今のようでは実現するはずもありませんので、来春早々にはご下向になりまして、道理を申し上げなされよ。その上で実現しませんなら、出雲へお上りになりますのが適切に存じます。こちらの道理もはっきりするはずです。詳細は木太郎兵がお話になるはずです。以上、我々も今月朔日に浜田へ上り申し上げますので、詳しくは申し入れません。

 

 「注釈」

「木太郎兵」─未詳。木次太郎兵衛尉とでも言うのでしょうか。

 

*さっぱり解釈できませんでした。

圓立寺文書9

   九 富田康直書状(折紙)

 

   尚々三十疋被御意候、本望之至に候、謹言、

         (繁澤次郎兵衛尉)

 御方様被仰上様、具ニ次兵様へ披露仕之候、御存分の様に御捻共御取候而、被

 進之候、我等迄安堵此事に候、弥々御普請等被仰付候儀、尤に存候、何も於

 趣者、次兵様より御奉書を被進之候、其上田之出入御年貢無相違御調尤に存候、

                       (マヽ)

 小役目等之儀者、佐五郎右内儀を以、次兵様へ申候ゝハ、少者御分別候すると存候、

         (罷ヵ)

 何茂其許二三日中ニ差越候条、以面上御意候、恐々謹言、

      九月廿二日        富又兵(花押)

        る

       善明 まいる

 

*日付と充所の間に「る」のような大きな文字があるのですが、さっぱり意味がわかりません。

 

 「書き下し文」

 御方様仰せ上げらるる様、具に次兵様へ之を披露仕り候ふ、御存分の様に御捻りとも御取り候ひて、之を進らせられ候へ、我等まで安堵此の事に候ふ、弥々御普請等仰せ付けられ候ふ儀、尤もに存じ候ふ、何れも趣においては、次兵様より御奉書を之進らせられ候ふ、其の上田の出入り御年貢相違無く御調へ尤もに存じ候ふ、小役目等の儀は、佐五郎右内儀を以て、次兵様へ申し候はば、少しは御分別候はんずると存じ候ふ、何れも其のもと二、三日中ニ罷り越し候ふ条、面上を以て御意を得べく候ふ、恐々謹言、

   尚々三十疋御意を懸けられ候ふ、本望の至に候ふ、謹言、

 

 「解釈」

 あなた様が申し上げなさったように、詳細に繁沢元氏様へ披露致しました。あなた様の思いどおりに御捻りなどをお取りになりまして、これを差し上げなさいませ。我らにまで安堵するというのは、このことでございます。とうとう御普請等をお命じになりました件は、当然のことと存じます。いずれにしてもこの内容については、繁沢元氏様から御奉書を差し上げなさいます。そのうえで、田のお年貢は間違いなく調進することは当然のことと存じます。細々とした役目等の件は、佐五郎右が内々に相談して、繁沢元氏様へ申し上げますなら、少しは道理を判断してくださるでしょうと存じます。いずれにしてもそちらへ二、三日中に伺いますので、お目にかかってあなた様のお考えを承るつもりです。以上、謹んで申し上げます。

   なお、三十疋のお心遣いをくださりました。大変満足しております。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「繁沢元氏」─吉川元春次男。

 

「御捻」

 ─洗米や銭を白紙に包んで、ひねったもの。本来は神仏に供えるものであるが、お年玉など祝儀で人に贈るときにも使う。かみひねり。紙花(『日本国語大辞典』)。

 

「佐五郎右」─未詳。

 

*さっぱり解釈できませんでした。

流浪の果てに…

  宝徳二年(1450)八月十三日条 (『康富記』3─198頁)

 

 十三日甲申 雨下、

  (中略)

 富樫被官人本折主計與兄絶行、一両年令流浪、近則爲鵜高寄人云々、今日富樫令人打

 之、折節甘露寺左中辨亭立入、臥下女局之時打之取頸云々、依之左中辨亭令触穢

 云々、

 

 「書き下し文」

 十三日甲申、雨下る、

  (中略)

 富樫被官人本折主計兄と絶行し、一両年流浪せしむ、近くは則ち鵜高寄人たりと

 云々、今日富樫人をして之を打たしむ、折節甘露寺左中弁亭に立ち入り、女局に臥せ

 下るの時之を打ち頸を取ると云々、之に依り左中弁亭触穢せしむと云々、

 

 「解釈」

 富樫成春の被官人本折主計は兄と絶交し、一、二年流浪していた。最近では鵜高の寄人であったそうだ。今日、富樫成春が被官人に本折主計を討たせた。ちょうどその時、本折主計は甘露寺親長の屋敷に立ち寄っていた。甘露寺親長に仕える女房の部屋で横になっていたときに、本折主計を討ち、首を取ったそうだ。これにより、甘露寺邸は触穢になったそうだ。

 

 「注釈」

「富樫」─加賀北半国守護富樫成春。

 

「近則」─書き下しがよくわかりません。

 

「鵜高」─和泉半国上守護細川常有の被官。

 

甘露寺左中弁」─甘露寺親長。

 

「女局」

 ─未詳。甘露寺に仕える女房の部屋か。続く十八日条には、「甘露寺左中辨臺所隠居時分」という記載があります。「臺所」がそのまま台所の意味なら、女房の部屋ではなく、「甘露寺親長邸の台所に隠れていた」という意味になりそうです。甘露寺親長やその女房と、本折主計はどのような関係であったのか、よくわかりません。

 

 

  宝徳二年(1450)八月十八日条 (『康富記』3─201頁)

 十八日己丑

  (中略)

 加賀主護代本折﹅﹅相語賊等、今日誅戮弟本折主計允云々、折節甘露寺左中辨臺所隠

 居時分也、取首云々、

 

 「書き下し文」

 十八日己丑、

  (中略)

 加賀守護代本折﹅﹅賊らを相語らひ、今日弟本折主計允を誅戮すと云々、折節甘露寺

 左中弁台所隠居の時分なり、首を取ると云々、

 

 「解釈」

 加賀守護代本折何某が賊を仲間に引き入れ、今日弟の本折主計允を誅殺したそうだ。ちょうどそのとき、甘露寺親長邸の台所に隠れていたときだった。首を取ったそうだ。

 

 「注釈」

「隠居」─「隠れていた」ぐらいの意味か。

 

 

  宝徳二年(1450)八月二十七日条 (『康富記』3─212頁)

 廿七日戊辰 晴、或語云、和泉半国守護細川刑部少輔被官人鵜高、去夏比歟、為主欲

 被誅戮之處、落失了、此間可赦免之由申之、出抜呼寄、今朝於惣領京兆屋形邊被討

 之、兄弟従類廿人許矢庭殺害云々、

 

 「書き下し文」

 二十七日戊辰、晴る、或る人語りて云く、和泉半国守護細川刑部少輔被官人鵜高、去

 んぬる夏比か、主として誅戮せられんと欲するの処、落失し了んぬ、此の間赦免すべ

 きの由之を申す、出し抜けに呼び寄せ、今朝惣領京兆屋形辺りに於いて之を討たる、

 兄弟従類二十人ばかり矢庭に殺害すと云々、

 

 「解釈」

 二十七日戊辰、晴れた。ある人が語って言うには、「和泉半国守護細川刑部少輔常有は被官人鵜高を、去る夏頃か、主人として誅殺なさろうとしたが、逃亡されてしまった。鵜高が逃亡している間、赦免するのがよいと申し上げた。不意に鵜高を呼び寄せ、今朝惣領である京兆家細川勝元の屋敷辺りで、鵜高を討伐した。鵜高の兄弟・一族や被官人ら二十人ほどを不意に殺害したそうだ。

 

 「注釈」

「鵜高」─和泉半国上守護細川常有の被官。

「主」─細川常有のことか。

 

*それほど重要なことではないのかもしれませんが、逃亡・逐電した人間はどんな生活をしていたのか、個人的にものすごく気になったので、この記事に注目してみました。きちんと解釈できなかったところも多いのでよくわからないのですが、中世人の逃亡がどんなものだったのか、少しは状況が明らかになります。

 どんな理由かわかりませんが、加賀守護代本折某と弟の本折主計允は絶交し、弟は逃亡してしまいます。自らの所属する共同体から離れてしまうことは、生きる糧(諸権益)を失ってしまうことになるはずなので、かなり勇気のいる行動だと思います。逃亡すると野垂れ死にすると思っていたのですが、どうもそうではないようです。一つのパターンとして、逃亡後に出家・自害することも考えられますが、この本折主計允は一年ほどの流浪の後、細川常有被官鵜高の寄人になっていました。流浪中にどのような生活をしていたのか気になるのですが、他家を転々としていたのかもしれません。それにしても、他家で問題を起こし、逃亡した人物を、よくも抱え込んだものだと思います。鵜高は揉め事があったのを知らなかったのでしょうか。それとも知っていて受け入れたのでしょうか。こうした事情がはっきりすると、当時の慣習が明らかになるのですが。

 さて、本折主計允は、元の主である加賀守護富樫成春と守護代の兄に所在をつかまれ、甘露寺親長邸で殺害されてしまいます。本来なら、鵜高は自分の寄人を殺害されたわけですから、本折家と揉めてもよさそうなのですが、そうした記載はありません。記主の中原康富が書かなかっただけかもしれませんが、中世では個人の揉め事が家どうしの揉め事に変化することがよくあるので、そうした記事がないことは不思議です。私の解釈が間違っていなければですが、むしろ本折主計允を寄人とした鵜高のほうが、主人の細川常有から誅殺されてしまいます。本折主計允を寄人にした責任を問われたのかもしれません。いったい、裏でどんな政治的な取引があったのでしょうか。それもと、本来の主人の生殺与奪権が、新しい主人よりも優先されるのでしょうか。いずれにせよ、よくわかりません。が、逃亡者はしぶとく生き延びることがある、ということだけはわかりました。

圓立寺文書8

   八 万壽書状(切紙)

 

 爲新春之儀申越、殊更百疋本望候、尚期面談申述候、恐々謹言、

      三月十日          万壽(花押)

       善明 まいる

             申給へ

 

 「書き下し文」

 新春の儀として申し越され、殊更百疋本望に候ふ、尚ほ面談を期し申し述ぶべく候

 ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 新春のご祝儀としてお手紙を送り申し上げなさり、とくに百疋を贈り申し上げなさったことに満足しております。なお、お目にかかることを期待し、その時にお礼を申し述べるつもりでおります。以上、謹んで申し上げます。

圓立寺文書7

   七 富田康直書状(切紙)

 

 爲今年之御祝儀、 御父子様へ被仰上候、百疋宛則遂披露候、御祝着之

 由候て被御書候、具ニ雖申入、我等事軈而其地罷上候之条、

 以拜顔万可御意候、恐惶謹言、

                 富田又兵衛尉

      三月十日          康直(花押)

       善明様 参 御返 人々

                申給へ

 

 「書き下し文」

 今年の御祝儀として、御父子様へ仰せ上げられ候ふ百疋ずつ則ち披露を遂げ候ふ、御祝着の由に候ひて御書を成され候ふ、具に申し入るべく候ふと雖も、我等の事軈て其の地に罷り上り候ふの条、拜顔を以て万御意を得べく候ふ、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 今年のご祝儀として、毛利元就・隆元様へ贈り申し上げなさった百疋ずつを、すぐに披露しました。父子様はご満足になって御書状を発給なさいました。詳細に申し伝えるべきですが、我らはそのうちそちらに参上しますので、お目にかかることで様々な件についてお考えを承るつもりでおります。以上、謹んで申し上げます。