周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

周梨槃特の絵札コレクション(追加継続中)

 最近は御朱印を集める人が増えているようですが、私は偶像崇拝者なので、御影や絵札、牛玉宝印を少しずつ集めています。ただ集めるだけ集めて、ほったらかしにしていたので、このブログを使って整理しておこうと思います。すべてではないですが、思い出深いもの、絵柄が素敵なものを、年次で紹介していきます。

 

2009.5.13 奈良県長谷寺(十一面観音御影)

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2009.5.13 奈良県談山神社藤原鎌足公神像)

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2009.5.14 奈良県金峯山寺蔵王堂(左は役行者と前鬼・後鬼、右は金剛蔵王権現

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2009.6.6 山形県羽黒神社(大黒天と牛の図像)

 出羽三山は丑年が御縁年です。開山が丑年丑日だったからだそうです。

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2009.6.11 和歌山県熊野速玉大社(牛王宝印)

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2009.6.11 和歌山県熊野那智大社青岸渡寺(牛王宝印・如意輪観音御影)

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2009.6.12 熊野本宮大社(牛王宝印)

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2009.9 鳥取県三徳山三仏寺文殊菩薩金剛蔵王権現・角大師)

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2010 徳島県焼山寺虚空蔵菩薩弘法大師・三面大黒天)

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2011 どこで購入したのか…? 四国八十八ヶ所のどこかのお寺だったと思います。

   (馬頭観音像)

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2012 徳島県劔神社

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2014.11 岡山県木山寺(牛王宝印)

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2015.5 鳥取県清水寺(角大師)

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2015.10 鳥取県長谷寺(客仏薬師如来御影。元現光寺の御本尊だったそうです。)

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2018.3.20 京都市今熊野観音寺(本尊十一面観音・脇仏左毘沙門天・右不動明王

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2018.3.21 京都市東寺観智院(五大虚空蔵菩薩

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2019.3.16 京都市六波羅蜜寺

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2019.3.16 京都市清水寺

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2019.3.17 京都市六角堂

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2019.6.16 兵庫県書写山円教寺

 

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2020.9.22 山口県龍蔵寺(茶店でいただく)

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2021.5.4 佐賀県大興禅寺

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2022.5.5 福岡県御井

 

2023.5.4 高知県竹林寺竹林寺開創1300年記念)

 

2023.6.11 香川県善通寺弘法大師御誕生1250年記念事業 秘仏瞬目大師御開帳)

 

2023.9.16 大分県富貴寺

 

2023.9.17 大分願成就寺

 

2023.9.18 大分県両子寺

 

2023.9.18 大分県文殊仙寺

 

2024.3.17 京都市北区紫野今宮町今宮神社

 

田所文書1 その8

    一 安藝国衙領注進状 その8

 

    角振社仁王講免三反      弥冨 今者今冨資遠

    諸寺勘料田一丁小       弥冨

    公廨田三丁九反大四丁四反大)   四丁四反大

     久武八反          弥冨四反大(割書)「今者今冨 資遠(ヵ)」

     盛貞跡一丁         宗繼三反

     信覺四反

                     

 (入广輸)(王一丸一丁)王一丸一丁   乙一丸五反)

    一宮神官恪勤免一丁

    梶取免四反六十歩       安弘跡

    政所敷一反

        

   應輸田十二丁八反三百歩      十二丁三反三百歩

    別府六丁七反三百歩

     久知村一丁四反六十歩

      小乃原一丁三反      官米三斗代

      即村一反六十歩      乃米三斗代

     中伴四丁          官米五斗代

     大墓村一丁三反大      同

    本村六丁一反 五丁六反

     官米五斗代 一丁五反    三斗o代二反

         一反

     例代四丁四反

  佐東郡

  阿土毛木村三丁四反大

   除不輸免三丁二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    一宮御讀經免三反       弁海 今者弥冨

    無量壽院免一丁五反

    公廨田一丁二反

     久武二反          信家一丁

    倍従免二反          遠繼

   應輸田二反大          三斗代

  安北郡

  飯室村三丁二反三百歩

   除不輸免一丁三反

    五ヶ寺免五反

    公廨田五反          高義 (高俊跡)

    主典免三反          宗俊

   應輸田一丁九反三百歩      例代

  同久武三丁五反百八十歩

   除不輸免三丁百廿歩

    五ヶ寺免二反

    八幡無量寿院免一丁三反百廿歩

    久武公廨田一丁五反

   應輸田五反六十歩        例代

  佐東郡

  東原村七反小           例代

  佐東郡

  細野村三反小           例代

  安北郡

  久村六丁百八十歩

   除不輸免三丁七反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    即新宮馬上免六反

    一宮御讀經免八反       幸印

    惣社免一反

     幸印仁王講免三反

    角振社仁王講免三反      秦覺跡

    公廨田一丁四反

     弥冨一丁          淂重四反

    在廳屋敷五反         歓喜

         三反斗

   應輸田二丁百八十歩       例代

  高宮郡

  禰村七丁七反

   除不輸免五丁七反

    一宮御讀経免五反       定賢

    八幡宮大般若經免一丁九反

     詮円一丁 今者寂円        恵性五反 今者浄円

     行海一反          榮親三反

    日吉大宮免七反        智光

    正内侍免五反

  入广輸(代官免二反)              (利包跡)

         

    公廨田一丁

   同 (兼弘五反)         遠宗一丁四反 今者淂重

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「久知村」─現安佐北区安佐町久地。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政

      所解(新出厳島文書)の「朔幣田八町四段」のなかに「久知村七反」と見

      え、鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)では

      「杣村二十五町五段」のうちに含まれる村として「久知村一丁四反六十

      歩」があり、小乃原一丁三反 官米三斗代」「即村一反六十歩 乃米三斗

      代と記す。応永四年(一三九七)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島

      文書)には、社家進止領家分として久知があげられる。同年八月十八日の

      室町将軍家御教書(厳島文書御判物帖)は、武田伴遠江五郎の妨げによっ

      て「杣村内大塚久知両村」の支配を侵害された厳島神社の訴えを将軍家が

      認めたものである。しかし宝徳二年(一四五〇)四月日付の厳島社神主藤

      原教親申状案(巻子本厳島文書)には、武田遠江入道押領分に大塚(現安

      佐南区)とともに久知が書き上げられていて応永四年の御教書の実効が疑

      われる。天文十七年(一五四八)十月二日、小早川隆景は「久地村之内兼

      吉名」を乃美備前入道に預けた(「閥閲録」所収児玉惣兵衛家文書)。同

      二十年三月二十八日には、隆景は「久地村弘末名之内六反」を末長久三郎

      に宛行い(同書所収礒兼求馬家文書)、天正十四年(一五八六)八月二十

      二日には、隆景が久地村を児玉就方へ預ける(同書所収児玉惣兵衛家文

      書)など、小早川の支配と深くかかわっていた(『広島県の地名』)。

「大墓村」─未詳。

「阿土毛木村」─現安佐南区沼田町阿戸。「芸藩通志」は「もと毛木村と一村なり」と

        記すが、この説に従えば鎌倉中期と推測される安芸国衙領注進状(田

        所文書)で、杣村と並立して「阿土木村三丁四反大」とある「阿土」

        がこの村のことかと考えられる。天文十九年(一五五〇)七月十五日

        の毛利元就同隆元連署状(吉川家文書)では、「阿土乙熊」の地が吉

        川元春に与えられ、同二十一年二月二日の毛利元就同隆元連署知行注

        文(毛利家文書)には「阿土村」とある。「閥閲録」所収文書には同

        二十三年元就が児玉就方へ「阿土村半分」を宛行い、文禄三年(一五

        九四)には毛利輝元が林元善へ「伴村・阿土村」のうち三十六石六斗

        の知行を許したことがみえる(『広島県の地名』)。

無量寿院」─未詳。

「飯室村」─現安佐北区安佐町飯室。鎌倉中期とされる三月日付の安芸国衙領注進状

      (田所文書)に「飯室村三丁二反三百歩」がみえ、不輸免一丁三反(五ヶ

      寺免・公廨田・主典免と應輸田一丁九反三百歩からなり、また「同久武三

      丁五反百八十歩」があり不輸免三丁百二十歩(五ヶ寺免・八幡無量寿

      免・久武公廨田一丁五反)・應輸田五反六十歩とある。正平十三年(一三

      五八)六月二十三日の前備中守某預ケ状(吉川家文書)によれば、「飯室

      郷内湯屋一分地頭職」と「東郷地頭職」が吉川左近将監に預けられてお

      り、同二十一年二月十八日の沙弥道善打渡状(同文書)では「飯室郷湯屋

      方地頭職」を同人に打ち渡した。享禄四年(一五三一)閏五月九日の毛利

      元就証状(同文書)では飯室は吉川興経に安堵されている。天文年間(一

      五三二〜五五)高松城熊谷信直は、銀山城(跡地は現安佐南区)の武田

      光和に離反し、大内義隆の下にあった毛利元就と結ぶようになる。年未詳

      七月七日付の大内義隆書状(熊谷家文書)は、義隆が元就の注進を受けて

      信直に可部・飯室両所の領地を認めたことを示すものである。天文二十一

      年二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注進状(毛利家文書)に「三須・

      遠藤」の名がみえるが、両人ともに当地在城の武将で、熊谷氏に従ってい

      たから、その知行が認められたのであろう(『広島県の地名』)。

「東原村」─現安佐南区祇園町東原。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政

      所解(新出厳島文書)の同社日御供田十五町のなかに原郷九段百二十歩が

      見え、ついで文暦二年(一二三五)六月五日の関東下知状案(同文書)で

      は、安芸守護藤原親実に「原郷佐東郡安南郡地頭職」などを領知させて

      いる。同月十日の某書下案(厳島野坂文書)も、「守護并在国司分」とし

      て原郷を「佐東本郡・安南本郡・散在名田畠」と並列にあげる。弘長三年

      (一二六三)の安芸国新勅旨田損得検注馬上帳案(東寺百合文書)は原郷

      分二町八段百二十歩をあげ、「日下・上長田・小原」の地名を記し、弘安

      十年(一二八七)頃の同帳案(白河本東寺百合文書)もこれを踏襲してい

      る。

      鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には、飯室村(現安

      佐北区)に次いで「東原村七反小」が記され、「細野村・久村」が続く。

      正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(同文書)では、原郷田

      畠六町三反六十歩(名田四町二反三百歩・畠二町百二十歩)が見え、「萱

      原・西烏田・東烏田・大豆田・北庄堺・伴田・道末・伊与寺・今津・尾

      飡・今富」など地名とおぼしきものが記される。元徳三年(一三三一)四

      月二十六日の安芸国宣(「芸備郡中筋者書出」所収)にも「原郷」とあ

      るが、文和元年(一三五二)十二月二十七日の武田氏信預ケ状(熊谷家文

      書)は「東原」を熊谷直氏に預け置いている。康応元年(一三八九)十一

      月二十五日の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、武田・品河・香河・

      金子諸氏ら近隣の武士によって押領された所領の支配回復を求めた東寺雑

      掌の訴えを認めた内容であるが、このなかに「東原郷」が見える。

      天文十年(一五四一)七月二十三日の大内義隆預ケ状写(毛利家文書)で

      は「可部・温科」の代所として原郷内一九〇貫などが毛利元就へ預けられ

      た。同二十一年二月二日付の毛利元就同隆元連署知行注文(同文書)には

      「原五名・原郷三吉知行・原新庄熊谷知行」と併記されているが、これよ

      り先の同十七年四月一日には三吉致高が厳島神社大鳥居勧進のため「原郷

      之内田畠五貫文之地」を、同二十年七月二日熊谷信直は祈念のために「原

      新庄之内畠一所代八百文目」を、同二十三年五月二十四日には信直は「原

      新庄之内百疋目」をいずれも厳島神社へ寄進した(大願寺文書)。また文

      禄四年(一五九五)九月一日には毛利元就は「東原之郷」二二五石九斗三

      升を福井源右衛門尉へ宛行っている(「閥閲録」所収福井左伝次家文書)

      (『広島県の地名』)。

「細野村」─現安佐南区佐東町八木の上八木に地名として残っている(「八木村」『広

      島県の地名』)。

「久村」─「玖村」は現安佐北区高陽町(玖・金平・真亀・亀崎)。この地は大田川船

     運の要衝であり、鎌倉時代には国衙領であった。地名は年未詳三月日付の安

     芸国衙領注進状(田所文書)に「久村六丁百八十歩」があり、不輸免三丁七

     反(新宮馬上免・一宮御読経免・惣社免・角振社仁王講免・公廨田・在庁屋

     敷)と応輸田二丁三反半からなっている。応安六年(一三七三)今川了俊

     勾村地頭職内金子孫太郎入道跡」を三入庄の熊谷宗直に兵糧料所として預け

     置いた(熊谷家文書)。大永七年(一五二七)武田軍は大内氏とその支援の

     大友軍を相手に、久村城(地蔵堂山城)で攻防戦を展開(黄薇古簡集、佐土

     原文書)。その数年前、大内義興毛利元就に「久村七十貫」を与えている

     (毛利家文書)。天文二十一年(一五五二)二月二日の毛利氏から陶氏へ差

     し出した毛利元就同隆元連署知行注文(毛利家文書)には「久村」と記さ

     れ、元就は久村を家臣児玉就忠とその子元良に与えた(「閥閲録」所収児玉

     三郎右衛門家文書)。文禄四年(一五九五)九月一日、毛利輝元は直轄地と

     し、代官に馬屋原元詮をあてた(「譜録」所収馬屋原弥四郎家文書)(『広

     島県の地名』)。

「禰村」─現高田郡八千代町下根・上根・向山。近世の下根・上根・向山の三ヶ村の地

     を合わせて呼ばれた中世の村名で、永仁五年(一二九七)四月二十四日付の

     伏見天皇綸旨(東寺百合文書)に「安芸国禰村郷」と見え、安芸国が東寺造

     営料とされた際、禰村は前司知広によって八幡別宮に寄進されていたため、

     当時の要求に沿って国衙領に還付されている。東寺百合文書にはその後、正

     安(一二九九〜一三〇三)から延慶(一三〇八〜一一)にかけての領有文書

     が残る。南北朝期に入ると、貞治三年(一三六四)七月一日付で熊谷直経に

     宛てた武田氏信預ケ状(熊谷家文書)に「安芸国禰村地頭職事、依有軍忠、

     所置預也」とあり、三入庄の高松城(跡地は現広島市安佐北区)城主熊谷氏

     の所領であったことが知れる。しかし明応四年(一四九五)三月十二日付の

     棟別銭支配帳(毛利家文書)に「捌貫百卅文 禰分」とあるのをはじめ、永

     正四年(一五〇七)頃の毛利興元上洛浮役日記(同文書)にも禰分一〇〇貫

     が記されており、毛利元就の時代には、家臣の田中政重・飯田与一左衛門ら

     が知行地としていた(閥閲録)(『広島県の地名』)。

田所文書1 その7

    一 安藝国衙領注進状 その7

 

       静印五反

      瀧宮免二丁

       御神楽免一丁

       仁王講免一丁

     水分社免五反

     八幡宮免三反

     即福王寺免二反

     感神院社免五反

     國廳社造立免五反      信家

     公廨田一丁二反

            (孫三郎ヵ)

      高清三反(佐西⬜︎⬜︎⬜︎)  貞重三反(右近[ ])

      兼重六反(割書)「今者道祖房丸」

    應輸田一丁六十歩       六斗二升七合代

  『中分以後依不治定丸以本丸備進之』

  佐東郡

   緑井郷三十四町五段百八十歩

             (マ丶)

    除不輸免二十四町卅歩

     馬上免二丁五反

      石屋寺二丁一反

      東明寺二反

      西明寺二反

     一御社免十二丁四反三百歩

      御供田五丁三反三百歩

       中御供田三丁五反

       日御供田八反三百歩

       新御供田一丁

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

      御讀經免六丁一反大

       忠兼三反        永秀五反

       重尊三反        信覺八反大

       承珎五反        朝寛五反

       湛円五反        證覺一丁

       幸印五反        勢淂二反

       覺雅一丁

      戌免五反

      二季御祭田四反小

     八幡宮免二丁五反

      御神楽免一丁

      御供田九反

      上分田六反

     諸社免三丁九反

      惣社仁王講免三反     道寂

      新日吉免一丁

      感神院社免二丁

      日吉大宮六反

     國廳社造立免五反      信家

     華臺寺免五反

     公廨田七反小

      宗繼二反小        歓喜丸五反

     在廳屋敷六反八十歩 下地    信覺

・・・・・造符所免一丁大 ・・・・・・・宗清・・(紙継目裏花押)

          

   應輸田(九丁反卅歩) 九丁七反小卅歩

    別結解一丁八反小       六斗二升七合代

     定順一丁五反        同

     則末二反          同

     吉武一反          同

     重武小           同

    別府五反三反小

     久武四丁二反斗       例代

     乃米田一丁三百歩      四斗代

          

    郷分(二丁反小卅歩) 二丁五反大卅歩

     官米三斗代 二丁三反大卅歩

        

     例代反大) 二反

  佐東郡

  杣村二十五町五反

          

   除不輸免二丁六反六十歩 十三丁一反六十歩

    一宮免二丁七反

     御供田七反

     散米田一丁

     御讀經免五反        覺俊

     二季御祭御幣紙免五反    有光

    八幡宮大般若經免二丁

     一丁五反  照寂    五反  道寂(割書)「今者⬜︎⬜︎」

    即八幡宮免六反

    同新宮免五反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「緑井郷」─現安佐南区佐東町緑井。正治元年(一一九九)十二月日付伊都岐島社政所

      解(新出厳島文書)によると、同社の中御供田八町四段のなかに「緑井郷

      三町五反」とあり、さらに日御供田十五町中に一丁四段六十歩、新御供田

      四町中に一町、外宮免田三町五段中に三段が見える。鎌倉中期と推定され

      る安芸国衙領注進状(田所文書)では、八木村に次いで緑井郷三十四町五

      段百八十歩が見えるが、不輸免二十四町八段三十歩と応輸田九町七段小三

      十歩からなり、不輸免は馬上免・一御社免(中御供田・日御供田・新御供

      田を含む)・御読経免・八幡宮免・諸社免・国庁社造立免・華台寺免五・

      公廨田・在庁屋敷・造符所免であった。元亨四年(一三二四)三月八日の

      佐伯親重譲状(野坂文書)には「みとろい(緑井) のりすへ(則末)

      名」とあり、貞和二年(一三四六)八月十三日付の佐伯重直名田畠譲状

      (新出厳島文書)では「いつくしまの御神りやうの内さんとう(佐東)の

      こうり(郡)みとろいのかう(郷)の内のりすへ名」と見える。なお康応

      元年(一三八九)十一月二十五日付の室町将軍家御教書(東寺百合文書)

      は、緑井郷などが品河近江入道らによって押領されているとの東寺雑掌の

      訴えにより、その排除を命じたもので、この頃京都当時に施入されていた

      ことが知れる。

      武田氏滅亡後の天文十年(一五四一)七月二十三日大内義隆毛利元就

      可部(現安佐北区)・温品(現東区)の代所として緑井四百貫・温井三百

      貫・原郷内一九〇貫などを預けた(毛利家文書)。毛利氏が緑井を所領と

      してからは、しばしば厳島神社の常灯料や造営料に充てている。天正十九

      年(一五九一)十二月二十六日付の毛利氏奉行人連署書状(厳島野坂文

      書)では、毛利輝元厳島棚守左近将監へ宛て、緑井など三ヵ所は武家

      官の綺を止め、一職に社家の進止とし、地下人納所難渋の時は輝元が糾明

      すると申し送っている。なお中世の読みは文書に「みとろい」「みそろ

      へ」「ミゾノ井」などがある(『広島県の地名』)。

「石屋寺」─「石屋神社」=現安佐南区佐東町緑井。権現山から南に延びた尾根の先

      端、神宮山(九二・四メートル)西麓にあり、祭神は応神天皇・宗像三女

      神。旧村社。「芸藩通志」は熊野新宮と記し、「安芸国神名帳」に佐東郡

      二〇前の一つとして見える石屋明神に比定する。鎌倉時代中期の安芸国

      領注進状(田所文書)の緑井郷不輸免のなかに「石屋寺二丁一反」があ

      り、当社との関係が推測される(『広島県の地名』)。

「東明寺」─未詳。

西明寺」─未詳。

「華臺寺」─未詳。

「乃米」─能米とも書く。玄米(黒米)のこと。また年貢米一般を指していうこともあ

     る(『古文書古記録語辞典』)。

「杣村」─現在の安佐南区沼田町全域と安佐北区安佐町の西部地域を範囲とする中世の

     村。

     鎌倉中期と推定される三月日付の安芸国衙領注進状(田所文書)に「緑井

     郷」に次いで杣村、続いて「阿土毛木村」が見え、国衙領であった。「杣村

     二十五町五段」の内容は、不輸免が十三丁一反六十歩でその内訳は一宮(厳

     島社)免二丁七反・八幡宮(松崎八幡宮大般若経免二丁・即八幡宮免六

     反・同新宮免五反・角振社仁王講免三反・諸寺勘料田一丁小・公廨田四丁四

     反大・一宮神官恪勤免一丁・梶取免四反六十歩・政所敷一反、応輸田が十二

     丁三反三百歩で、その内訳は別府六丁七反三百歩(久知村一丁四反六十歩・

     中伴四丁・大墓村一丁三反大)・本村五丁六反とある。「阿土毛木村」は杣

     村と並存しており、阿戸村は杣村外であったとも考えられるが、しかしのち

     に、「杣村七ヶ村」という場合には阿戸村を含める説が有力である。

     正応二年(一二八九)正月二十三日付の沙弥某譲状(田所文書)にも栗林二

     丁のうちに「杣村一丁五反」とあり、年未詳三月三日付の佐東郡杣村地頭代

     高階安家書状(巻子本厳島文書)によると、厳島社の神人が数多く地頭政所

     へ乱入したため、地頭代が宮政所に訴えている。建武元年(一三三四)三月

     日付の安芸国司庁宣写(厳島野坂家文書)では、杣村公文職同屋敷名田畠等

     が安堵されているが宛名は不明である。至徳四年(一三八七)七月二十一日

     付の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、東寺雑掌が幕府に対し安芸国

     領内杣村が武田遠江守に押領されている旨を訴えたのに対し、幕府が小早川

     春平にその排除を命じたもので、これ以前に杣村が東寺に施入されていたこ

     とが知れる。

     応永四年(一三九七)八月十八日付の室町将軍家御教書(厳島文書御判物

     帖)には「厳島社雑掌申安芸国杣村内大塚久知両村事、武田伴遠江五郎捧建

     武二年御下文至徳三年安堵等案、為杣七ヶ村内之由雖支申、去貞治年中雖拝

     領杣七村、為厳重神領之間、閣之由、大内左京権大夫入道進状上本社領

     云々、此上早止彼遠江五郎妨、可被沙汰付社家雑掌之由、所被仰下也」とあ

     り、貞治年中(一三六二〜六八)厳島社領となっていたのを武田遠江五郎が

     違乱したので、当時の安芸国守護渋川満頼に命じて停止している。このなか

     に「杣七村」が見える。しかしこの御教書の実行は疑わしく、以後も武田氏

     の勢力は伸長し、杣七ヶ村の名称も失われ、各村名が記されるようになる

     (『広島県の地名』)。

田所文書1 その6

    一 安藝国衙領注進状 その6

 

       

     福永反小          同

         (半)

     福久一反斗          同

     行永(一丁九反) 二丁一反小    同

                   (同ヵ)

     宮守⬜︎[           ⬜︎

       

     則末反           同

     千同三反三百歩        同

           (半)

     倉重(一丁二反斗) 四反     官米三斗代

               (半)

    別符(一丁六反) 一丁二反斗

        (半)

     万力反斗          (例代) 六斗二升七合代

       

     久武反           同

     (力善一反)           

        

     三郎⬜︎⬜︎           同

     (米住一反)           

       一反

     弥吉斗            同

        六 (半)

    郡分一丁反斗

     四斗代四反

           (半)

     三斗代一丁反斗

  佐西郡

  己斐村十九町二段六十歩

              (歩)

   除不輸免十五町八段百廿⬜︎

    馬上免七段

     新宮免五反

     衣波社免二反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    一宮御讀經免十一丁七反大

     弁慶三丁五反         御油免一丁

     宗覺一丁五反         俊兼五反大

     静暹一丁           永嚴六反

         (一反ヵ)

     忠兼一丁[  ]       慶覺一丁

     覺順五反

     粥座酒免五反

    八幡宮免二反          若松

    二季御祭燈油免三反       爲光 (割書)「今者國清」

    諸社御幣紙免四反        同 (割書)「今者同」

    三昧堂免一反          同 (割書)「今者同」 

           (大)

    公廨田一丁九反⬜︎

     高清二反大(『佐西孫三郎』)    清基一丁(『己斐六郎左衛門入道』)

     歓喜丸五反          宗繼二反

    代官免三反           清門

    (朱筆抹消)

    國役人給免一反

   (朱筆)

    o 國掌免一反         國清

   應輸田三丁三反三百歩

          (丁ヵ)

    官米二斗代二⬜︎[

    例代 一丁三反三百歩

  佐東郡     (マ丶)

  古河村五丁一反百卅歩

   除不輸免三丁八反大

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

    即新宮馬上免二反

    一宮免二丁四反

     御供田七反

      包延三反 下地       包元四反 

     御讀經免一丁七反

      良慶六反          勝順五反

      俊兼一反 下地       良弁五反

    五ヶ寺下地一反大

     公廨田三反

      弥冨二反 今者今冨資遠     淂重一反

                    (宗)

     造符所免三反         ⬜︎清

     在廳屋敷五反         歓喜

    應輸田一丁二反大        三斗代

   佐東郡

   八木村八丁二反小

    除不輸免七丁二反六十歩

     崇道天皇免六十歩

     馬上免三反          ⬜︎王寺

     一宮免四丁二反

      御供田六反         守恒

      御讀經免一丁六反

       重尊七反         俊兼四反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「衣波社」

 ─広島市中区江波南一丁目衣羽神社のこと。江波島東南海岸部に広島城下建設以前より鎮座した社で、「安芸国神名帳佐東郡に「衣羽明神」と記される社に比定される。祭神市寸島比売命・多紀理比売命・多岐都比売命。旧村社。江波島を古くは長門島と称したことにより、一名長門明神ともいったというが(芸藩通志)、鎌倉時代中期のものとされる安芸国衙領注進状(田所文書)の「己斐村十九町二段六十歩」のなかに「衣波社免二反」の記載がある。江戸時代には江波明神とされたが、明治四年(一八七一)に再び衣羽神社に復した。例祭日十一月六日。厳島神社の管絃祭の折は、曳船を江波村より出し、当社では火祭りが行われた(『広島県の地名』)。

 

「古河村」

 ─広島市安佐南区。中世佐東郡内にあったと思われる村であるが、その地域は不詳。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には「古河村五丁一反百卅(二)歩」がみえる。不輸免が三丁八反大で、内訳は「新宮馬上免二反 一宮免二丁四反 五ヶ寺下地一反大 公廨田三反 造符所免三反 在庁屋敷五反」、応輸田が一町二反大であった。嘉禎四年(一二三八)四月十七日の伊都岐島社回廊員数注進状案(新出厳島文書)では、「自大宮御方南脇至于御供屋三十間」の「未被立分」に「古川 中洲別府 佐東利松一間」とあり、同五年正月日の同社造回廊注進状案(同文書)にも「一間 古川 利松 中洲別府」と記される。仁治二年(一二四一)四月日付の同社神官等申状案(同文書)では、神領半不輸の地である「井原村十三町六反大」と「古河村三町四反大」を一円進止とする旨の綸旨を下すように要望している。正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(田所文書)にも「古河村田畠九反」がみえる。応永四年(一三九四)六月日付の厳島社領注進状(巻子本厳島文書)にも「古河村」と記され、同年七月二十五日の室町将軍家御教書(厳島文書御判物帖)では、厳島社神主親胤と安芸国守護武田乗光の相論の地として「己斐 今武 定順 利松 坪井 古河 堀立 吉次等村々并諸免田」とある(『広島県の地名』)。

 

「造符所」─「造府所」のことか。国衙を造営・修造するための免田か。

 

「八木村」

 ─現安佐南区佐東町八木。「和名抄」の佐伯郡養我郷は養義郷の誤りとして当地に比定する説が有力であるが、その根拠には城山南西の平地の岩見田・椿原・下土居一帯に、今日は消滅したが五町と二町の範囲で条里遺構が見られたことがあげられる。地名は仁平二年(一一五二)三月八日付の平行兼私領田畠譲状(新出厳島文書)に「合弐拾肆町之内田十一丁、栗林五丁 在佐東郡内八木村者於四至境者、委細不注之」と見え、田畠の所在を示す「藤田・勢万前・餅田・大豆田・井尻・沼尻・正木・石田・塔本・井野手・沼間・重光垣内・弓田・寺田・津き田・沼辺・中黒・溝の辺・堤・延永作・東垣内・忠末・西垣内・吉貞作・則貞作・河渡・栗林」などの地名が記される。正治元年(一一九九)十二月日付の伊都岐島社政所解(同文書)によると、厳島社領八木郷五段の地は国延二段・宗包一段百八十歩・国里一段百八十歩からなり、同社の日御供田十五町のなかに含まれていた。

 承久の乱の功によって香川経景が八木村地頭に任じられ、子景光が入部し八木城を築いたと言われ、寛元三年(一二四五)三月二十八日の関東下知状(香川文書)によると、地頭香川景信と比叡山五ヶ寺との間に十ヵ条の相論があり、幕府が裁決している。同四年八月十九日付の六波羅施行状(同文書)ではこの裁決を施行したものである。鎌倉中期の安芸国衙領注進状(田所文書)では「八木村八丁二反小」は、不輸免七丁二反六十歩、応輸田一丁六十歩からなり、不輸免として崇道天皇免・馬上免・一宮免・水分社免・八幡宮免・即福王寺免・感神院免・国庁社造立免・公廨田があげられる。またこの注進状には別に「細野村三反小」が見えるが、細野は現在の上八木にある地名である。正応二年(一二八九)正月二十三日の沙弥某譲状(同文書)には「八木村畠二反」とある。康応元年(一三八九)十一月二十五日付の室町将軍家御教書(東寺百合文書)は、幕府が安芸国衙領内八木村などが香川修理亮等によって押領されている旨の東寺雑掌の訴えを認め、排除を命じたもので、この頃八木村が京都東寺に施入されていたことが知れる(『広島県の地名』)。

死人を食べること (Eating the dead : Cannibalism in Medieval Japan)

  建久九年(1198)四月七日条「嘉禎二年中臣祐定記」

                  (『増補續史料大成 春日社記録』1─96)

 

 一正預遠忠者、自腹腰力ツキ立、アヤマチテ也、仍不参、但七日辰時事也、仍山城國

  (薦ヵ)

  房池之所クスシ召間、兒干御薬令食還了、以外事也、

 

 

  同年四月二十八日条 (『増補續史料大成 春日社記録』1─97)

 

 一遠忠死人食事訴申状

           (行、中臣ヲ誤寫セルモノナラン)

  春日若宮神主従五位下行祐明謹解 申請 長者殿下政所裁事

                             (任)

   請被特蒙 恩裁、正預遠忠依死人食喰罪過、永停廢其職、但祖父祐房吉例、祐明

    令兼帯正預職子細愁状

                      (神)

  右謹檢案内、社司習令禁斷汚穢不浄、備御供⬜︎役、爰正預遠忠、去四月上旬之比、

        (マ丶)

  不慮蒙疵、忽悪澁之刻、迎寄疵醫師山城國住人、令加療治之間、件醫師以兒干令服於

  遠忠了、夫兒干者、是死人也、而爲社司身令食死人、上代未聞之所行、至言語道斷

  次第也、置命死人、可仕神役哉、神慮之恐、旦可令垂御𨗈迹、就中遠忠正乍食死

  人、御供米并菜・菓子、自家中令運上社頭、何況ぞ雑士所從等悉社参、方々令汚穢

  社頭、神慮恐申而有餘、無此御沙汰者、不浄不信御祟天下定出来歟、況背舊記所

  見也、者早依重疊罪科、永解却彼神職、兼又遠忠自所勤大祓之由被仰下者、神冥合

  咲何事如之哉、若然者祐明欲兼帯正預職、凡親父故祐重者、我 君自御廻入御時、

      (功)      于歟        (沈)

  致御祈忠切、雖然被超越者若遠忠不遂其宿望、鎭流悲涙空逝去了、者亡父御慈

              (衍ヵ)

         藤原忠通         (房)

  何無之哉、彼 法性寺殿下御時、祐通者雖爲祐⬜︎死去、依亡父御祈忠功、令補正預

          (コノ挿記ハ、御慈ニツヅク)

          令拜任正預只當祐明之仁、何況社家故實神事礼義全

  了、以昔思今、尤依御慈o無月並之輩、以方々道理案之、祐明兼帯正預、難謂非據

               (肩ヵ)

  哉、望請 恩裁、早永停廢遠忠之正預職、任祖父祐房吉例、祐明兼帯其職者、将仰

  善政之貴、殊奉祈千秋 御摂録矣、以解、

      建久九年五月 日  春日若宮神主従五位下中臣連祐明

 

 

 「書き下し文」(説明注を踏まえて書き下してみました)

 一つ、正預遠忠は、自らの腹に腰刀を突き立つ、過ちてなり、仍て山城国薦池の所の医師を召す間、兒干の御薬を食還せしめ了んぬ、以ての外の事なり、

 

 一つ、遠忠死人食の事訴え申す状、

  春日若宮神主従五位下中臣祐明謹んで解し申し請ふ長者殿下政所裁の事、

   特だ恩裁を蒙り、正預遠忠死人食喰の罪過に依り、永く其の職を停廃し、祖父祐房の吉例に任せ、祐明正預職を兼帯せしめらるるを請ふ子細愁状、

  右謹んで案内を検ずるに、社司の習ひ、汚穢不浄を検断せしめ、御供神役を備ふ、爰に正預遠忠、去んぬる四月上旬の比、不慮に疵を蒙り、忽ち悪渋に及ぶの刻、疵の医師〈山城国住人〉を迎え寄せ、療治を加へしむるの間、件の医師兒干を以て遠忠に服せしめ了んぬ、夫れ兒干は、是れ死人なり、而れども社司の身として死人を食せしむること、上代未聞の所行、言語道断に至る次第なり、命を死人に置き、神役を仕るべけんや。神慮の恐れ、且つ御𨗈迹を垂らしむべし、就中遠忠正死人を食しながら、御供米并菜・菓子、家中より社頭に運上せしむ、何ぞ況んや雑士・所従等悉く社参し、方々社頭を汚穢せしむるをや、神慮恐れ申して余り有り、此の御沙汰無くんば、不浄不信の御祟、天下に定めて出来するか。況んや旧記の所見に背くをや、てへれば早く重畳の罪科に依り、永く彼の神職を解却し、兼ねて又遠忠自ら大祓を勤むる所の由仰せ下さるれば、神冥咲みを含むこと何事か之に如かんや、若然らば祐明正預職を兼帯せんと欲す、凡そ親父故祐重は、我が君御廻入の御時より、御祈りの忠功を致す、然りと雖も遠忠に超越せられ、其の宿望を遂げず、沈みて悲涙を流し空しく逝去し了んぬ、てへれば亡父御慈しみ何ぞ之無からんや、彼の法性寺殿下の御時、祐通は祐房死去たりと雖も、亡父御祈りの忠功に依り、正預に補せしめ了んぬ、昔を以て今を思ひ、尤も御慈しみに依り正預を只当祐明の仁に拜任せしめ、何ぞ況んや社家故実・神事礼義全く肩並の輩無く、方々の道理を以て之を案ずるに、祐明正預を兼帯すること、非拠と謂ひ難からんや、恩裁を望み請ひ、早く永く遠忠の正預職を停廃し、祖父祐房の吉例に任せ、祐明其の職を兼帯せば、将に善政の貴を仰ぎ、殊に千秋を御摂簶に祈り奉る、以て解す、

 

 「解釈」(あまりに直訳が不自然なところは意訳しました。)

 一つ、正預遠忠は、自分の腹に腰刀を突き立てた。誤ってやったのである。そのため不参となった。ただし、それは七日の辰の時のことであった。そこで、山城国薦池の医師を呼び寄せたところ、児干のお薬を食べさせた。けしからんことである。

 

 一つ、春日社正預中臣遠忠が死人を食べたことを訴え申す状。

  春日若宮神主従五位下中臣祐明が、長者殿下近衛基通の政所の裁許を願い申し上げること。

   ただ殿下政所のご裁許を蒙り、正預中臣遠忠が死人を食べた罪科により、永久に正預職を停止し、祖父祐房の吉例に従って、私祐明に正預職を兼帯させるなさることを願う事情を訴える状。

  右の件について謹んで先例を調べてみると、社司の慣習では汚穢・不浄を厳重に禁止させて、御供を供え神役を勤めています。ここに正預遠忠は、去る四月上旬の頃に、思いがけず負傷しました。瞬く間に悪化したときに、傷を治す医師〈山城国の住人〉を迎え寄せて治療させたところ、この医師は児干を遠忠に服用させました。そもそも児干は死人です。だから、社司の身として死人を食べることは、前代未聞の所行であり、とんでもないことです。死人を食べて命を長らえ、神役を勤めることができましょうか、いやできません。神の御心に背く恐怖を、とりあえずご推察ください。とりわけ正預遠忠は死人を食べながら、御供米や野菜、果物を、家中から社殿に運上させました。まして遠忠の雑士や所従らはみな社参し、方々で社殿を穢れされていることは、なおさらとんでもないことです。神の御心に背く恐怖は、申して余りあります。このご裁許がなければ、不浄・不信心の御祟が、天下にきっと起こるでしょう。まして古い記録の慣習に背くことは、なおさらひどい祟りが起こるでしょう。というわけで、早く、重大な罪科により、永久に遠忠の正預職を解任し、また遠忠自身が大祓を勤めることをお命じくだされば、神仏がお喜びになることは、何事もこのご裁許には及びません(このように裁許してくださることを、神仏は最もお喜びになるはずです)。もしそうであれば、私祐明は正預職を兼帯したいです。そもそも亡くなった親父の祐重は、我が君が御廻入の時からご祈祷の忠節を尽くしてきました。そうではありますのに、遠忠に超越され正預職に就任するという宿願を遂げることができず、悲嘆の涙を流し空しく亡くなってしまいました。というわけで、亡父祐重へのご慈悲はどうしてないのでしょうか。あの法性寺殿下藤原忠通の時、祐房が死去したけれども、亡父のご祈祷の忠節により、祐通は正預職に補任されました。昔の例によって現状を思い、当然ご慈悲により、正預職に私祐明を拝任させてください。社家故実や神事礼儀において、まったく私に並ぶものはなく、様々な道理によってこの件を考えても、私祐明が正預職を兼帯することに、根拠がないと言うことができましょうか。殿下政所のご裁許を望み、早く永久に遠忠の正預職を停止し、祖父祐房の吉例に従って、私祐明が正預職を兼帯すれば、殿下の善政の尊さを敬い、とりわけ長く摂関家のためにご祈祷を致します。以上、上申します。

 

 「注釈」

「薦池」─未詳。

 

「長者殿下」─関白近衛基通か。

 

「置命死人」

 ─読み方、解釈ともによくわかりません。「死人を食べて命を長らえる」ぐらいの意味でしょうか。

 

「雑士」─雑役を勤めるものか。

 

「大祓」

 ─罪・穢を除き心身を清らかにしてその更生を図るもの。六月・十二月の晦日および臨時に行われる。中臣が祓麻、東西の文部は祓刀を奉り祓詞を読む。ついで百官男女を朱雀門に集めて中臣が祓詞を宣る。五畿七道には大祓使が派遣された(『古文書古記録語辞典』)。今回の場合、穢をばら撒いた罪科によって、遠忠自身に臨時の大祓を執行させようとしたものと考えられます。

 

「合咲」

 ─読み方、解釈ともによくわかりません。『編年差別史資料集成 第三巻 中世編一』(三一書房、1983年、80頁)では、この部分を「含咲」と翻刻しています。事例は古いのですが、「含咲」は「咲(笑)みを含む」と読み、「胸中に喜びを覚える」と訳すことがあるようです(大伴池主の題詞『日本古典文学全集5 万葉集四』小学館、1975年、281頁)。これを参考にして、ここでは「神仏がお喜びになる」と解釈しておきます。

 

「我君」─未詳。天皇か関白を指すのでしょうか。

 

「廻入」

 ─仏語。自ら得た功徳を他にめぐらし与えること(『日本国語大辞典』)。辞書ではこのように説明されていますが、この時の状況がまったくわからないので、解釈できませんでした。

 

「祐通」

 ─祐房の子。祐明の叔父(久保尾俊郎「中臣祐仲と祐建をめぐって─『尾張国郡司百姓等解文』の奥書」『早稲田大学図書館紀要』 三一、一九八九・一二、https://core.ac.uk/download/pdf/144468674.pdf)。この史料に現れている社司については、以下の「解説」を参照。

 

*永島福太郎「解説」(『増補續史料大成 春日社記録』1)より

 春日社は祭神四座四殿、祠官には中臣・大中臣の両氏があった。中臣氏は執行正預(略して正預)を長とし、大中臣氏は神主を長とする。したがって、正預方・神主方と呼称する場合もあり、これをその居住地に因んで、南郷・北郷とも読んだ。正預方の居住地は高畠で、春日社を挟んで三条通りより南方の南郷、神主方は野田で北方の北郷であったからである。ところが若宮社が創建され、長承四年(1135)に正預中臣祐房が若宮神主に兼任されたので、祠官の長官は、神主・正預・若宮神主の三となり、これが三惣官と呼ばれた。

 中臣氏には、春日社鎮座(768)に時風・秀行兄弟が扈従したので両流があり、時風流はのちに辰市家、秀行流は大東家を称するが、それぞれ数家を派生した。祐房は時風流の出で、その子孫は千鳥家を称する。大中臣氏は、康保二年(965)から本社の祠官になったもので、これは中東家を称し、数家を派生した。当初から両流のあった正預方はもとより、神主方も各家に分かれたので、その長官の職は一家相伝ではなく、器用による選補ということであった。ひとり若宮神主の身は、千鳥家の相伝であった。

 かくて本社・若宮の別も生じたが、本社の祠職には、神主方では権神主・新権神主各一名、正預方では権預五名・次預・神宮預・加任預・新預各一名が置かれた。その定員は時に変更がある。若宮神主家はこの正預方の諸職にも任ぜられる。長官を正官というのに対し、これらを権官ともいうが、正官・権官を合わせたものが社司であり、また社家ともいう。この社司の子弟は、成年に達すれば神事に従うが、これが氏人である。

 

 以下、上記「解説」にある人物の説明をまとめておきます。

「祐房」

 ─祐房は春日社祠官中臣氏の出、祠官の長官たる正預となるが、若宮創建に際して長承四年三月十三日、その初代神主に兼補された。仁平二年(1152)十二月二十四日、八十四歳を以て卒したという。

 

「祐重」

 ─祐重は祐房の三男。保元元年(1156)八月十六日、長者宣を得て、祐重が若宮二代神主となった。建久三年(1192)二月二十四日に卒した。

 

「祐明」

 ─祐明はもと祐能或いは祐盛と称したという。祐重の嫡男。その譲を以て建久三年四月、若宮神主に任ぜられ、嘉禄二年十二月にその職を嫡男祐定に譲るまで在職三十四年。位は従四位上に昇った。安貞三年二月二十五日、八十六歳の高齢を以て歿。

 

「祐定」

 ─祐定は祐明の嫡男。もとの名を祐雄、晩年に祐茂と称した。嘉禎二年十二月に若宮神主に任ぜられた。建長七年十月従四位上に昇り、康元二年、その職を嫡男祐賢に譲るまで在職三十二年。隠居後、文永六年十月十二日に七十二歳を以て卒した。

 

「祐賢」

 ─康元二年二月、父の譲を以て若宮神主となる。弘安五年九月、職を嫡男祐春に譲らんことを氏長者に請い、同十月三日、六十二歳を以て卒した。

 

 

*春日社の神職が死人を食べた? 神職であるか否かにかかわらず、中世人が死人を食べていたとは驚きです。ただ、食事として、死人をムシャムシャ食べたというわけではなく、「兒干(児干)」という薬として服用したようです。

 さて、この「兒干(児干)」という薬ですが、『今昔物語集』巻二十九第二十五話にある平貞盛のエピソードで有名なようです。矢傷を治療するためには、妊婦の腹を割いて胎児を取り出し、その肝を使わなければならなかったそうです。ネット検索するとたくさんの記事がヒットするので、あえて書くようなことでもないのですが、あまりにびっくりしたので、史料を紹介したというわけです。

 では、「児干」という薬は、いったいどのようなものだったのでしょうか。ありがたいことに、「児干」については詳細な研究(斎藤研一「子取り」『子どもの中世史』吉川弘文館、2012)があるので、この成果を紹介していきます。ちなみに、この史料の解釈も、この研究を参照しました。

 『今昔物語集』の平貞盛のエピソードを掲載している『新日本古典文学大系』の脚注によると、「児干」は「胎児の肝」であり、「干」は「肝」の省画だそうです。そして、貞盛にしろ、今回紹介した中臣遠忠にしろ、創傷に対する外科的治療として「児干」を用いたことになります。当時の外科的専門医を金瘡医と呼んでいたようですが、彼らの秘伝書のなかに「児干」の記事が出てくるそうです。『金瘡療治鈔』や『金瘡秘伝』という史料から、「児干」という薬は、乾燥させミイラ化した胎児を削りそいで粉末にしたもので、主に切断した筋や骨を継ぐための特効薬であった、と定義づけられています。

 以下は、興味深い内容なので、本文をそのまま引用します。

 

「重要なのは、それが出産前の他ならぬ胎児であるということだ。つまり、堕胎あるいは流産した胎児ということになり、よって「児干」の入手は、普通には極めて困難な状況と言える。それ故に希少価値を生み、妊婦の腹を割いてまでも胎児を求めようという行為がなされることにもなるのである。(中略)

 最後に、冒頭で紹介した〈史料1〉に戻ってみよう。近々現れて子どもを取って食う鬼の正体とは、「子取り」にほかなるまい。どうやら誘拐された子どもは殺され、その臓器が秘薬として使われているらしい……。〈史料1〉からは、人々を恐怖に震えあがらせた人商人(人身売買)たる「子取り」の暗躍という社会背景を読み取ることができるであろう。

 無残にも内臓をえぐり取られ捨てられている子どもの死体を目の当たりにしたとき、きっと人々は、鬼が現れて子どもを食ったに違いないと思ったのではないか。最近こうした子どもの死体をよく見かけるようになった。鬼がまた現れる……。そうした人々の深層心理こそが、〈史料1〉に記される噂が広く流布し、信じられた理由なのではないだろうか。

 子どもを誘拐すること、ましてや子どもを殺してその「生き肝」を採取することは、殺人であり犯罪であった。しかし、堕胎あるいは流産した胎児を薬用とすることは、決して違法行為でもなければ、タブー視されるものでもなかったと思われる。「児干」は切断した骨や筋を継ぐといった創傷の特効薬であり、いわば肉体の再生に効能があるとされたわけである。そこに、神秘のベールに包まれて母体の中で成長を遂げる胎児に対する、中世の人々の眼差しを読み取ることができるであろう。」 

 

 *〈史料1〉は、次のようなものでした。本文のまま引用しておきます。

  近日鬼出来し、小児を取り食ふべきの由、その告げあるにより、七歳より内の小児、男女上下悉く巡礼の体に出立ちて、清水寺、或いは講堂に参詣せば災を遁るべしと云々、これにより競ひ参ると云々、近ごろ奇異の事なり、筆端に尽くし難し、

  (『後法興院記』明応七年(1498)五月十五日条)

 

 このような史料や研究を読むと、中世人と現代人の違いを改めて痛感させられますし、現代人の感覚で昔の文章を読んではならないことがよくわかります。現代人が「日本」と呼ぶ地域に暮らしていた、我々に連なる過去の人々は、死体を薬として服用していました。現代の日本はこういう歴史のうえに形成され、現代の日本人はこういう歴史を背負って生活しているということに驚くばかりです。

 無関係な他人の子どもの生き肝を薬として服用しながら、自分の子どもを愛することができるのが、中世人、いや日本人、いや人間だと言えそうです。他人の妻の腹を割きながら、愛しい女性に三十一文字で愛を語れるのが、中世人、いや日本人、いや人間だと言えそうです。一般化するつもりはありませんが、ただ、私たちはそうすることができるようです。だから…? 私たちはこの歴史を踏まえて、今後どう生きていくべきなのでしょうか?

 

 The priest of Kasuga jinja shrine ate the dead. It is surprising that people in the Middle Ages had eaten the dead. However, this priest did not eat the dead as a meal, but seemed to take it as a medicine.

 Well, this medicine called "Zikan" (fetal liver) seems to be famous in the Middle Ages. In order to treat the wounds in the war, it was necessary to cut the belly of the pregnant woman, take out the fetus, and use its liver.

 So how was “Zikan” manufactured? Since Kenichi Saito studied this in detail, I will introduce his dissertation.

 According to Konjakumonogatarisyu, "Zikan" is a "fetal liver". And people in the Middle Ages used "Zikan" for surgical treatment. They called the surgeon at that time "Kinsoui", but the explanation of "Zikan" is written in the Kinsoui secret book. According to this document, "Zikan" is a powdered mummified fetus. And they used the powder to repair the cut muscles and bones.

 

 The following is an interesting content, so I will quote the text of Kenichi Saito's paper as it is.

 

 

 "The important thing is that ZIkan is a prenatal fetus. It means that it is very difficult to obtain Zikan because it is a abortion or miscarriage fetus. So the value has increased. Even if people in the Middle Ages cut the belly of pregnant women, they tried to get the fetus.

 In the Middle Ages, the true character of the devil who caught and ate children was "Kodori" (a trafficker). Apparently the kidnapped child was killed and the organ was used as a secretive drug. The rumor of the devil who ate children in the Middle Ages might have spread because the traffickers were underhanding.

 When people in the Middle Ages saw the corpse of a child who was abducted viciously and abandoned, they thought that the devil must have appeared and ate a child. Recently they came to see the corpse of these children well. The devil must have appeared again. I think that such people's perception spread the devil's rumor and people believed it.

 It was a crime to abduct a child and to kill a child and to collect the "living liver". However, it seems that using the abortion or miscarriage fetus as a medicine was by no means illegal or taboo. People in the Middle Ages believed that "Zikan" was a specific medicine for repairing cut bones and muscles, and that it had an effect on physical regeneration. "

 

 Reading these sources and studies, I keenly felt that there are significant differences between medieval people and modern people. And I understand that we must not read old sentences in the sense of modern people. People in the past who used to live in areas called “Japan” by modern people used corpses as the medicines. Modern Japan is formed on such a history, and it is amazing that modern Japanese people live on such a history.

 It is Medieval people, Japanese people, and human beings who are able to use the liver of the other child as a medicine and to love one's own child. It is Medieval people, Japanese people, and human beings who are able to cut the belly of the other wife and to love to one's beloved woman. I do not intend to generalize this idea, but it seems we can do that. So...? How should we live in the future knowing such a history?

 (I used Google Translate.)