周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

田所文書2 その3

    二 沙弥某譲状 その3

 

       一所田三反      [  ]

       一所畠五反 同     ⬜︎重⬜︎[  ]

       一所畠二反       佐[

     安南郡

      符中

        田

        畠

                  安南郡

       一所畠         矢加村

                             (爲ヵ)

        件畠者、造符所公文[  ]京都⬜︎河長次郎米⬜︎⬜︎祖父知音

       (之間ヵ)       (爲ヵ)

        ⬜︎⬜︎、⬜︎國下向之時、依⬜︎船津所望之間⬜︎預之畢、而所従令

        沽却于助正父爲正之、此条雖其謂、云爲正同母白河

        尼同妹松女〈在廳政所清家母〉召仕之間、即宛給給恩者也、

                   (地ヵ)   (引ヵ)

        彼等死去之後者、令収納⬜︎子[ ]見⬜︎付、

       一所田畠六反〈[ ]西o大道者西⬜︎至海邊 早馬立〉

        件所者、本主在廳弘助也、而國衙供僧西常坊永西自弘助手傳領之

        後、所従

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

        則延法師父近延〈源三郎祖父〉傳領者也、

       一所田二⬜︎〈[ ]祖[      ]早馬立〉

                                   

        件田地者、所従國助父國元相傳之地也、爲所従領上者雖不

        別子細、載種々子細去状了、巨細見彼状地頭押領

       一所田一反小 地頭押領、■分 上山 〈澤行作墨丸父也、〉

        件所者、在廳行圖領澤門名田⬜︎也、以負物[   ]之者也、

                    (濱ヵ)

       一所屋敷畠二反 地頭押領、北⬜︎ 〈[   ]國衙公人也、〉

        件所者、造符所公文名内也、而号負物代有冨名主[

            ]領不及敍用[

         (田)

       一所⬜︎畠一反

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

       一所田◼️反◼️◼️◼️  ◼️◼️◼️◼️

       一所田畠      自河南濱

        件屋敷田畠并娘秋石女等父大源太宗員引文明白也、仍宛給彼従女

        給恩者⬜︎、

 (裏書)

 「田數御帳」

       一所田畠二反内 〈田一反畠一反〉 一宮政所敷

        件所者、國元引文内也、然而召仕國助一類之間、不改易

           入于

        之處、o福嶋二郎信景利銭質募、寄事於左右已依押領

                     (云ヵ)

        自眞土彼銭領作⬜︎々、此条方々以無其謂之上者、

                        (息ヵ)

        敢不承引者也、然者雖爲何子⬜︎[  ]處分之条勿論也、

                  譲渡

        但眞土於長壽御前o者、可其左右者也、 ◼️◼️◼️◼️

                  分給分

       一所田二反 山田藤兵衛o末宗

       一所田畠二反 南濱中小路平三分

       一所田二反小 河角屋敷 ◼️◼️屋敷◼️◼️

          (清ヵ)(夫ヵ)

        件条、⬜︎大⬜︎末宗同大郎宗弘二男末門等、云其身屋敷田畠

        各依有證[ ]領知者也、仍所領給末門以下子息等給恩也、子細

        見引文状等

       一所屋敷田畠二反 〈祖父兼資母堂内部屋敷也、〉三昧堂

       一所同三反         河窪

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「矢賀村」─現東区矢賀町。温品川下流右岸にあり、安芸郡に属した。村の西部は標高

      七〇─八〇メートルの南北に長い丘陵がある。北は中山村、東は府中村

      (現安芸郡府中町)に接する。「屋賀」とも書き、中世には佐東郡とされ

      ることもあった。

      正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某譲状(田所文書)に「一所畠

      二反 矢加村」とあり、有力在庁官人田所氏の私領があったことが知られ

      る。なおこのとき矢賀村は府中の一部とされている。室町時代は武田氏の

      治下にあり、応永十四年(一四〇七)武田信之から熊谷氏に預けられてい

      るが(同年一月二十日付「武田信之預ヶ状」熊谷家文書)、のち武田氏家

      臣渋谷氏に与えられたようである(弘治二年十月二十三日付大内義長宛行

      状「閥閲録」所収白井友之進家文書)。中山・尾長・矢賀三村の境にある

      大内越(おおちご)峠の名は、天文十年(一五四一)銀山城(跡地は現安

      佐南区)の武田氏を倒した大内軍が府中の白井氏攻撃にこの峠を越えたの

      にちなむと伝える。武田氏の滅亡後、毛利元就大内氏から「矢賀卅五

      貫」などを預けられて(天文十年七月二十三日付「大内義隆預ヶ状写」毛

      利家文書)以後、矢賀は戸坂・牛田などとともに水軍の拠点とされ、「佐

      東矢賀之内弐拾貫前」が小早川水軍の乃美氏に(天文二十年二月二十八日

      付毛利元就宛行状「閥閲録」所収浦四郎兵衛家文書)、「矢賀村之内太歳

      原が毛利水軍の統率者の一人児玉氏に(永禄十一年十二月付東林坊事書案

      「知新集」所収)それぞれ宛行われ、村役人として目代・散使が置かれた

      (「毛利氏八箇国時代分限帳」山口県文書館蔵)。なお弘治元年(一五五

      五)厳島合戦を前にして陶方の水軍が矢賀を攻撃したが、仁保城(跡地は

      現南区)にいた東林坊(現中区の光円寺)の僧や飯田氏ら川の内水軍に退

      けられた(前記東林坊事書案、年欠正月九日付毛利元就同隆元連署感状

      「閥閲録」所収飯田七郎右衛門家文書)(『広島県の地名』)。

「早馬」─通信連絡のための急使または急使の乗る馬。早打などと同義であるが、鎌倉

     時代から南北朝期ころまで使用されることが多い。鎌倉幕府は創幕早々、東

     海道に駅制を設けたが、その宿駅に常備した馬も早馬と呼ばれ、その数は弘

     長のころ、各宿二疋と定められた。文永・弘安の役後、幕府は駅制を京より

     博多まで延長した。そのつぎ替えの早馬は沿道の御家人あるいは荘園に負担

     させたが、この課役は早馬役または早打雑事などと呼ばれた。古代駅制の駅

     馬・伝馬の名を捨て早馬と呼称されたのは、通信の迅速性が駅制の主眼であ

     ることを直截に示すが、じっさい京─鎌倉間三、四日、京─博多間六、七日

     という古代駅制を上回る早さであった(新城常三『国史大辞典』)。

「去状」─「去文」。避文とも書く。去状ともいう。自己の所領・所職などを放棄し、

     その領有を主張しないことを保証した文書(『古文書古記録語辞典』)。

「公人」─①寺院の下級職員で、寺領の雑事、荘園の年貢・公事徴収、寺領内の検断を

     行った。②六位以下の下級官人。③鎌倉幕府の政所・問注所の寄人、六波羅

     探題の奉行人、室町幕府の奉行人また下級職員。④国衙の国掌、雑色(『古

     文書古記録語辞典』)。

「引文」─「曳文」。身引とも。犯罪を償うため、また債務未済の代償として、自分じ

      しん或いは家族の身柄を債権者に渡して下人・所従とすること。そのとき

      書く証文は曳文という(「身曳」『古文書古記録語辞典』)。

妙薬!? 亀の小便 (Good medicine? Turtle's piss!)

  応永二十三年(一四一六)四月二十六日条 (『看聞日記』1─29頁)

 

      栄仁親王

 廿六日、晴、御所様此間御耳ホ丶メキテ不聞、昌耆有御尋、亀、アヲノケ

  テ鏡令見之時、小便ヲスヘシ、其シトヲ良薬御耳可入之由申、良薬

  献之、仍宇治川之亀捕、如然鏡令見、則小便、医師如申也、厳重事歟、

 

 「書き下し文」

 廿六日、晴る、御所様此の間御耳ほほめきて聞こえず、昌耆に御尋ね有り、亀を水に洗ひて、仰のけて鏡の影を見しむるの時、小便をすべし、其の尿を良薬に合わせて御耳に入るべきの由申す、良薬之を献ず、仍て宇治川の亀を捕らへ、然るがごとく鏡を見しむ。則ち小便を出だす、医師申すがごときなり、厳重の事か、

 

 「解釈」

 二十六日、晴。御所様が最近、お耳が熱っぽくなって聞こえなくなった。医師の昌耆に御所様が対処法をお尋ねになった。「亀を水で洗って、仰向けにして鏡で自分の姿を亀にみせると、小便をするはずです。その小便を良い漢方薬に調合してお耳に入れるとよろしいです」と昌耆は答えた。そしてその良薬を献上しようとして、宇治川に行って亀を捕まえて、言われたとおりに鏡を見せた。亀はすぐに小便をした。医師の言ったとおりだ。すばらしい処方だ。

 

 April 26th, fine. The prince has recently been deafened by the fever. The prince asked doctor Shouki for a remedy. Shouki said, "If you wash the turtle with water, lie down facing up and let the turtle look at it in the mirror, it should urinate. You'll mix that urine with herbal medicine, put it in your ears. "Then, I tried to give the good medicine to the prince, and let the servant go to the Ujigawa river, catch the turtle, and let the mirror look as Shouki said. The turtle urinated at once. It was exactly what the doctor said. It's a great remedy.

 

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 「注釈」

「御所様」

 ─栄仁親王。記主伏見宮貞成親王の父(松薗斉「中世の宮家について─南北朝・室町期を中心に─」『人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要』25、2010・9、

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__25F/02__25_1.pdf)。

 

*なかなか興味深い記事です。現代では難聴を治療するのにステロイドを服用することが多いですが、中世では亀の尿と漢方薬を混ぜて耳に入れたようです。ただ亀の尿を使うのは、一種の呪術ではないか、と考えられています(横井清『室町時代の一皇族の生涯』講談社学術文庫、2002、122頁。八木聖弥「『看聞日記』における病と死(1)」『Studia humana et naturalia』京都府立医科大学医学部医学科(教養教育) 編37、2003・12、https://kpu-m.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=918&item_no=1&page_id=13&block_id=21)。いったいどんな呪術的根拠があって、亀の小便を使ったのでしょうか。亀自体は漢方や薬膳で利用されているので、呪術とは無関係に納得できるのですが、尿を使う根拠はよくわかりません。尿と呪術の関係を研究した論文でもあればよいのですが…。

 また、亀に小便をさせる方法があったことにも驚きです。まさか、仰向けにした亀に、鏡に映した自身の姿を見せることで、放尿するとは思いませんでした。試しに飼っている亀で試してみようと思います。

 

 This is a very interesting article. In modern times, steroids are often used to treat hearing loss, but in the Middle Ages, it seems that they used the herbal medicine that turtle urine are mixed. However, researchers believe that using turtle urine is a kind of magic. On what sort of magical ground did medieval people use turtle piss? The turtle itself is used in Chinese medicine and cooking, but I do not understand the grounds for using urine well. It would be good if it was a paper that studied the relationship between urine and magic.

 (I used Google Translate.)

田所文書2 その2

    二 沙弥某譲状 その2

 

                 (林ヵ)

 一  惣社二季春夏御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事、

                        (引ヵ)

     田貳町伍反〈[ ]五反爲圖免造[ ]浮免[ ]⬜︎募[ 〉

           (瀬村)

    [   ] 黒⬜︎⬜︎

     麥畠八反 〈安[    而地頭[  〉

           賀茂郡)(佐東郡

     栗林二丁内 〈黒瀬村五反杣村一丁五反〉

 一  同御社四季仁王講畠夏秋各壹町

     件免畠者、刑部阿闍梨嘉憲爲田所代、云田云秋畠麥畠、被

     申立十余町免之間、依正員此名一丁許令立用、田所得分割分

     之者也、

 一 [ ]御修理以下[  ]神主職[

             (爲ヵ)

    [  ]無別得⬜︎自⬜︎⬜︎御[

    佐東郡

     古河村田畠九反

      一所田七反 〈所當者段別単乃米五斗二升代〉 今原

       件名田者飯田三郎入道寂願〈俗名頼長〉傳領之間、雖却下作職

                               (弥ヵ)

       於福光四郎兵衛尉為時、依年来所領、猶以爲⬜︎冨名内

       國檢之時、⬜︎田之殘者令進止

      o但爲時者、依守護家人、不傳本所進止領之由、帯

       國司御擧状、訴─二申子細於六波羅殿之間、被御教書

       爲御沙汰也、然者就落居勘注者也、

       (所畠二反ヵ)

      一[    ]〈⬜︎作[ ]安道地子[      ]友〉

    佐東郡

     八木村畠二反 子細同⬜︎[    作人不定

     安南郡田畠

       田

       畠

      戸坂村田畠一丁七反六十歩

        田一丁五反六十歩

         (二ヵ)

        畠⬜︎反

     [       ]小作人 友近

     當浦入米[

     勧農田夫役梶取[   ]〈[ ]田所職免田[   ]致取沙汰之上者可

                  二重云々、各別之時者不可有別子細者也、〉

     歳末筵料并御采役令勤仕事、子細同前、

     諸運上物雑用缺物事、但近年無沙汰条無其謂者也、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

              

 一  安南郡并原郷散在造府o領公文名主両職兼帯得分事、

                        (宛ヵ)

     作田段別単乃米一斗三升 公物単乃米三斗九升外也、

                       (宛ヵ)

     秋畠地子大豆段別単六升六合 同一斗五升外、

                       (宛ヵ)

     ⬜︎畠[      ]升六合 同一斗二升外、

    [     ]役事、

    [

 

           (者)

     副代官令奉行⬜︎也、

 一  所々散在名田畠

      [

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「黒瀬村」

 ─「芸藩通志」によると、現(賀茂郡黒瀬町に含まれる十六ヵ村と、北東に続く現東広島市域の馬木村、西南に続く現呉市域の郷原村を含めて十八ヵ村を黒瀬郷としている。正応二年(一二八九)正月二十三日付沙弥某譲状(田所文書)に「惣社二季御神楽料田畠栗⬜︎⬜︎事」として「栗林二丁内黒瀬村五反 杣村一丁五反」と見える。大永三年(一五二三)八月十日付の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)には「黒瀬 三百貫 大内方諸給人」「黒瀬乃美尾 百貫金蔵寺領」とあり、黒瀬が東西条に含まれており、のちの乃美尾(のみのお)村を含む広域の地名であったことがわかる(『広島県の地名』)。

 

「杣村」

 ─現在の安佐南区沼田町全域と安佐北区安佐町の西部地域を範囲とする中世の村(『広島県の地名』)。

 

「古河村」

 ─広島市安佐南区。中世佐東郡内にあったと思われる村であるが、その地域は不詳(『広島県の地名』)。

 

「国検」

 ─国衙領において国司によって行われる検注。十二世紀になると、荘園・公領の田数を一国単位で掌握する一国検注が行われ、その結果大田文が作成された。この検注をも国検と呼ぶ(『古文書古記録語辞典』)。

 

「御挙状」

 ─下位の者が直接上位の者に申状を差し出すことをはばかる場合、あるいは下位の者の申状を上位の者に紹介する場合、あるいは下位の者の行為を上位の者に取り次ぐ場合、あるいは官途受領を推挙する場合などに、下位の者と上位の者との中間に地位する者が、取次あるいは推薦するために出す文書を挙状あるいは吹挙状と呼ぶ。文書の形式としては、書状・請文などの形式をとり、充所は上位者に直接充てられることは少なく、奉行所・奉行人・側近者に充てられることが多いことから、「以此旨御披露候」なる文言を用い、書き止めは書状と同じく「恐惶謹言」を用いる。内容は御家人の大番役勤仕の吹挙、所領所職の安堵の取次ぎ、訴訟のための参上者の紹介など多岐にわたっている。官途を推挙した場合は、推挙した人に対して、推挙した官途を知らせるための文書を発給しているが、この場合も官途吹挙状と称している。しかしのこの場合の吹挙状は充名人に推挙したわけではないので、同じ挙状と称していてもその内容趣旨は異なる。『貞永式目』にも挙状に関する規定がみえる。すなわち鎌倉幕府は、原則として諸国の荘園公領ならびに神社仏寺領の訴訟に口入しなかったが、本所の挙状を帯して鎌倉幕府に訴えた場合は口入できることを定めた第六条、官爵を所望する輩が昇進のため鎌倉幕府の挙状を求めることを禁じた第三九条の規定などがある。なお、挙状を交付されることを「御一行を賜はる」ともいった(瀬野精一郎『国史大辞典』)。

 

六波羅殿」

 ─この史料は正応二年(一二八九)正月二十三日付なので、六波羅探題は北条盛房になります(「鎌倉幕府諸職表」『日本史総覧Ⅱ』)。

 

「八木村」

 ─現安佐南区佐東町八木。「和名抄」の佐伯郡養我郷は養義郷の誤りとして当地に比定する説が有力であるが、その根拠には城山南西の平地の岩見田・椿原・下土居一帯に、今日は消滅したが五町と二町の範囲で条里遺構が見られたことがあげられる。

 

「戸坂村」

 ─現東区戸坂町・戸坂。安芸郡の西北端に位置する。南西は新山村に接し、南は牛田村との境界をなす通称牛田山(二六一・一メートル)、東は標高三三〇─三七〇メートルの尾根に囲まれ、西北に開けた比較的広い谷あいにあり、西北を太田川が流れる。古代には山陽道が東南の中山村から中山峠を越えて当地を通っていた。寛元四年(一二四六)五月二十一日付安芸国司某下知状案(厳島野坂文書)によれば、遠兼なる者が、それまで所有していた戸坂門田内今富名九反の替地として、久武名に属する「戸坂久須木垣内」などの地の領知を国司から認められている。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には「戸坂道祖神免一反」と見え、かつて大上字中の畑(現戸坂大上三丁目)にあった幸之神社(現在三宅神社に合祀)は「戸坂道祖神」の後進と考えられる。鎌倉末期の戸坂村には有力在庁官人田所氏の私領田畠が一町七反余あった(正応二年正月二十三日付「沙弥某譲状」田所文書)。

 室町時代は守護武田氏の家臣芥川氏が狐爪木(くるめぎ)を領したといい(知新集)、戸坂氏を名乗る武田家臣もいるので、武田氏の支配下にあったことは確実である。大内氏の武田氏攻撃が本格化した天文八年(一五三九)九月十七日、尼子氏の援軍を加えた武田軍は大内方の毛利軍と戸坂で戦って敗れ(同年十月五日付毛利元就感状「閥閲録」所収岡吉左衛門家文書)、翌年四月には戸坂要害が陥落している(同九年四月二十日付某感状写「芸備郡中筋者書出」所収)同十年の武田氏滅亡後はしばらく大内氏の領地が続いたと思われるが、同二十一年以降は毛利氏の領するところとなり(毛利家文書)川の内水軍の触頭山県就相・福井元信らに戸坂の地が給地として与えられ(「閥閲録」所収山県四郎三郎家文書・福井十郎兵衛家文書など)、他の広島湾頭域の諸村とともに毛利氏水軍の拠点とされた(『広島県の地名』)。

 

「原郷」

 ─「和名抄」高山寺本・東急本ともに「幡良」と記し、前者が「波羅」、後者が「波良」と訓を付す。「芸藩通志」は「今上原村あり」とし、現広島市安佐北区の上原を遺名とするが、「日本地理志料」は「府中田所氏文書、佐東郡原郷注村名萱原、鳥田、大豆田、道末、尾喰、伊与寺」とし、西原・東原両村(現広島市安佐南区)をあて、南下安・北下安・東山本・西山本諸村(現同区)にも及ぶとする。「大日本地名辞書」は「今東原、西原、小田、川内、三川の諸村なるべし」とする。「広島県史」も鎌倉中期の沙弥某譲状(田所文書)に「原郷」が記されるとし、東原・西原を原郷の遺名とする。ただし中世には原郷は佐東郡であるから郡域に変化があったことが考えられる。なお同書は福田・馬木(現広島市東区)に原の地名が多いので、この方面に求める説もあるとする(「幡良郷」『広島県の地名』)。

 

「単乃米」

 ─「単米」(ひとえよね)。年貢徴収に伴う諸費用(検田使得分・沙汰人得分・公文所得分などや交分)を含まず、単位面積に斗代をかけただけの量の米(『古文書古記録語辞典』)。

怪鳥来襲 ─バケモノの処理法─ (Monster bird appearance! -How to dispose of monsters-)

「妖怪 猫鶏蛇(ねことりへび)」


  応永二十三年(1416)四月二十五日条 (『看聞日記』1─29頁)

 

 廿五日、晴、聞、北野社今夜有怪鳥、鳴声大竹ヒシクカ如云々、社頭鳴動

  二またの杉鳴、参詣通夜人消肝云々、宮仕一人以弓射落了、其形頭猫、

  身鶏也、尾如蛇、眼大光アリ、希代怪鳥也、室町殿注進申、射之宮仕

  御感有、練貫一重・太刀一振被下、鳥可流之由被仰云々、

 

 「書き下し文」

 廿五日、晴れ、聞く、北野社に今夜怪鳥有り、鳴き声大竹を拉ぐがごとしと云々、社頭も鳴動す、二股の杉に居て鳴く、参詣・通夜の人肝を消すと云々、宮仕一人弓を以て射落し了んぬ、其の形頭は猫、身は鶏なり、尾は蛇のごとし、眼大きに光有り、希代の怪鳥なり、室町殿へ注進申す、之を射る宮仕に御感有り、練貫一重・太刀一振下さる、鳥は河に流すべきの由仰せらると云々、

 

 「解釈」

 二十五日、晴れ。北野天満宮に今夜、怪しい鳥がいたという。鳴き声は、大竹を押しつぶしたような音だったそうだ。神社も大きな音を立てて揺れた。二またの杉に止まって鳴くので、参詣する人や通夜をする人たちがとても驚いたらしい。身分の低い社僧一人が弓でこの鳥を射落とした。鳥の頭は猫、身体は鶏で、尾は蛇のようだったそうだ。目は大きく光っていたという。世にも希な怪鳥である。室町殿足利義持へ報告したら、怪鳥を射落とした社僧にお褒めの言葉があった。練貫一重と太刀一振を社僧に下さった。鳥の死骸は川に流すようにお命じになったという。

 

*解釈、注釈の一部は、薗部寿樹「史料紹介『看聞日記』現代語訳(二)」(『山形県

 米沢女子短期大学紀要』50、2014・12、https://yone.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=203&item_no=1&page_id=13&block_id=21)を引用しました。

 

 April 25th, fine. I heard there was a strange bird at Kitano Tenmangu Shrine tonight. The cry was like a crush on a bamboo. The shrine also shook loudly because of the cry. Because it cried on the cedar, people who came to the shrine seemed to be very surprised. A low-ranking monk shot down the bird with a bow. The bird's head was a cat, the body was a chicken, and the tail was like a snake. It was said that the eyes were shining so much. It is a really rare monster. When the priest reported to Ashikaga Yoshimochi, he praised the monk who shot the monster. Yoshimochi gave the kimono and sword as a reward to the monk. I heard that he ordered the monster corpse to flow into the river.

 

 

 「注釈」

「北野社」

 ─北野神社。北野聖廟・天満宮とも。現社名は北野天満宮山城国葛野郡京都市上京区馬喰町。皇城鎮守二十二社の第20位。下八社の内。天皇外戚摂関家の守護神。平安京内の守護神。正暦2年(991)十六社から吉田社・広田社とともに十九社となる。奉幣使は菅原氏の五位。天慶5年(942)、右京七条に住む多治比文子に神託があり、邸内に小祠を構えて祀る。天暦元年(947)には、近江国比良宮の神良種の童男太郎丸に託して、北野の地へ移座したい旨の託宣が下り、北野の朝日寺の僧最鎮と文子・良種が相図り、同年の6月に社殿を創建した。その後、度々社殿の増築があり、天徳3年(959)の5度目の大造営には右大臣藤原師輔の尽力があり、摂関家の庇護をうけることになる。北野祭は永延元年(987)より公祭となる。神社行幸七社の内(寛弘元年〈1004〉初例)。祭神は菅原道真。相殿に中将殿・吉祥女を祀る。本地仏は十一面観音(天神記)。神宮寺は、北野聖廟・北野寺と呼ばれ、比叡山西塔の東尾坊(のちの曼殊院)を創った菅原氏出自の僧是算が寛弘元年(1004)別当職に補せられ、以降代々東尾坊が相承して北野社を管理した(『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

 

「宮仕」─掃除などの雑役に従事した下級の社僧(『日本国語大辞典』)。

 

「練貫」─縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。

 

*『看聞日記』

 ─『看聞御記』とも。(伏見宮貞成親王の日記。本記・別記あわせて54巻。本記は1416─48(応永23─文安5)にわたる。筆者の日常生活、朝廷の動向、足利義教期の幕府政局、世相、芸能など多岐に及ぶ事柄が記されている。自筆本は宮内庁書陵部蔵(『新版 角川日本史辞典』)。

 

 

【考察】

*頭は猫で、胴体が鶏、尻尾が蛇のような生き物って、な〜んだ!? そんな動物は知りません…。いわゆる「鵺」の亜種で、キメラだとか、キマイラと呼ばれるような怪物だったと考えられます。本当は、ヤマドリのような尻尾の長い鳥が、ギャーギャー鳴き騒いでいたのでしょうが、漆黒の闇夜に、見慣れない鳥が奇声を発していたために、妖怪が現れたと勘違いしたのではないでしょうか。

 さて、射殺された怪鳥ですが、そのまま川に流されてしまいます。私なら焼却処分にしてしまいますが、中世人は流してしまうのです。中世人は、いったいどんな葬送慣習や他界観をもっていたのでしょうか。人間と怪物(人ならざるもの)の扱い方では、違いがあるのでしょうか。時間を見つけて勉強してみようと思います。

 

 The head is a cat, the torso is a chicken, and the tail is a snake. What is that creature? I do not know such animals .... It may be a monster called a chimera. Surely a long-tailed bird like syrmaticus soemmerringii would scream loudly. People in the Middle Ages should have felt creepy, as the unfamiliar bird cried loudly at dark nights.

 By the way, the shot dead monster has been swept into the river as it is. I would burn it up and dispose of it, but the medieval people abandoned it in the river. What sort of funeral customs and other world views did they have? Is there a difference in how to treat humans and monsters? I will investigate further.

 

 

*2018.5.2追記

 その後、少し調べてみました。当初、私は射殺した怪鳥を水葬したものと考えていましたが、今では、災禍や疫病、穢れのようなものとして、怪鳥の遺骸を処理した(祓った)のではないかと思っています。

 この史料では「鳥は河に流す」と表記されています。勝田至氏の「中世民衆の葬制と死穢」(『日本中世の墓と葬送』吉川弘文館、2006)を読むと、葬送を表す史料用語は「棄つ」や「葬(す)る」という言葉であり、またそれらを「棄置」や「葬送」のように、複合動詞や熟語として使用していることがわかります。さらに、「河原に捨て置く」という表現はあっても、「河に流す」という表記は見られないようです。すべての史料を調べつくしたわけではありませんが、勝田氏の研究を参考にすると、この史料にあらわれた「流す」は、「葬送」という意味ではなかった、と考えられそうです。

 では、「河に流す」とはどういう意味なのでしょうか。山本幸司氏の「穢の伝染と空間」(『穢と大祓』解放出版社、2009)によると、まず河原のような開放空間では、穢は伝染しないようです。また、池や井戸のような限定された範囲に溜まっている水には浄化力はないが、流水には浄化力があるようです。一方で、火にも浄化力はありますが、不浄なものを焼いた火は、逆に不浄な存在に変わるそうです。

 関連する記事が見当たらないので、これ以上推測することはできませんが、おそらく怪鳥の出現はそれ自体が災禍、あるいは災禍の兆候と認識されていたのではないでしょうか。そして、怪鳥の遺骸を火葬・土葬しても災禍は祓えないからこそ、川に流したのではないでしょうか。

 

 Then I investigated further. At first, I thought that the medieval people had buried at the river the slaughtered monster bird. But now, I think that they purified the corpse of monster birds by water as things like disasters, plagues and impurities.

 In this historical material, it is written as "flowing monsters into the river." So what does that mean? According to a study by Yamamoto Koji, the impure does not seem to spread in open spaces such as river beach. In addition, water accumulated in a limited area such as a pond or a well does not have purification power, but it seems that running water has purification power. On the other hand, although fire also has purification power, fire that burns unclean things seems to turn into unclean existence.

 Since no relevant articles can be found, it can not be guessed any more, but perhaps the emergence of a monster bird was itself recognized as a disaster, or a sign of a disaster. And even if cremating or burialing the remains of the monster bird, the medieval people would have thrown into the river because they wasn't able to purify the disaster and impurities.

 

 

*2022.4.4追記

 酒呑童子玉藻前、鵺なども、退治された後に祓い流されたようです(小松和彦酒呑童子の首」『日本人と鬼』角川文庫、2018年、114・115頁)。

田所文書2 その1

    二 沙弥某譲状 その1

 

 (前闕)

 「   神事勤仕頭人等⬜︎役事、              」

     一宮二季〈二月十二月〉御祭鎭祭一夜⬜︎ 〈此物長〉進魚類酒二瓶等事、

                             

     八幡宮二季〈四月九月〉御祭役人別⬜︎人各送遣精進二種o酒一垂腹〈納三升〉

     宛事、頭人名神事参勤時依無其隠略之了、〉

     同臨時御祭役人〈本主時宗今者下司勤之、⬜︎⬜︎請取用途致其沙汰者也〉、二種清酒

     三升以同前也、

     同御社四季〈春夏秋冬〉御神楽役人季別五人[  ]二種清酒

     一垂腹〈納三升〉宛事、

   o正月修正斗餅一枚

                        

     角振社二季〈二月十一月〉御祭役人〈⬜︎⬜︎大夫清⬜︎後家⬜︎⬜︎平大夫多門〉

     膳[   ]進事、

    [      ]御神事[

 [

       伊勢大神宮ヵ)

     造[

                  (功ヵ)

     以下臨時段米徴下料田作進筆切得分事、〈子細波色々沙汰具書等具者也、〉

             (時弁ヵ)

     諸人申立免田畠之[  ]勘料事、子細見進物状等、

     同免田畠在所出入勘定得分事、〈子細載解文書状等分明者也、〉

     一宮御讀經衆不常住供僧等御初任之時、弁勘料其内切止壹町分事、〈子細

      代々任々次第沙汰状等明白者也、〉

             安南郡

     勧農時一[   ]符中温科供僧[  ]下書生以下國役人等迄、佐乃 八

                   (部ヵ)

     幡 戸坂 江田 牛田 原郷内⬜︎[   ]畢、懸具宿所令催勤[   ]

     依國宣参路時[ ]、

      件条、在廳并諸供僧郷々公文等下書生以下諸國役人等、先々皆以致

      沙汰畢、而近年寄事於世間不沙汰之条、無其謂者哉、

 一  船所惣税所職得分事、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏半花押)

 一  天台末五ヶ寺公文職得分事、

     給田壹町 〈國司御寄進浮免十一丁三百歩内也、但寺家若違乱者[    ]内之由、

      可問答者也、〉

     秋畠給免壹町 〈[  ]下地也、供物徴下之時[  ]加定壹[  ]升也、〉

    [

      (末節)

     歳⬜︎⬜︎料[

     名田畠等者後[

 

        (マ丶)

     栗林地子搗[   ]五合 〈[        不成年者五升宛⬜︎〉

     屋敷壹所 〈在阿奈[  ]者可見作、令自作哉否即進止也、〉

     散在名田畠栗林等、任古帳別紙之者也、

     京上時百姓人別草手銭百文宛弁之事、

     歳末節料百姓人別炭二籠宛弁進事、

     村人等官位時任料弁事、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(紙継目裏花押)

   つづく

 

*割書は〈 〉で記しました。

*書き下し文・解釈は省略。

 

 「注釈」

「一宮」─厳島神社

八幡宮」─松崎八幡宮安芸郡府中町宮の町5丁目。石清水八幡宮末社(「安芸国

      『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000)。

「垂腹」─未詳。酒量の単位で、飲んで腹が垂れるほどの量ということか。以下に、

     「納三升」とあることから、「納升」で三升の量が、「一垂腹」という単位

     なのかもしれません。

「角振社」─安芸国神名帳に角振隼総(つのふりはやぶさ)明神とみえ、天文年中に破

      壊され、前記注進状にみえる末社の山王社(現本町三丁目の三翁社)に合

      祀したという(芸藩通志)(「府中町」『広島県の地名』)。

「筆功」─習字に熟達すること。また、その人。「筆耕」のことであれば、写字によっ

     て報酬を受けること。また、その人(いずれも『日本国語大辞典』)。どち

     らにせよ、どのような「功」なのか、よくわかりません。

「勧農」─農業を勧めること。律令制下、国守の職掌中に勧課農桑があり、耕地を拡大

     し収穫を増やし官物の増徴につとめることになった。荘園においては領家・

     預所が勧農を行い、種子・農料を支出し、灌漑施設の整備、労働力の確保に

     つとめ、年間の農作業の進行に支障のないようにした。在地で実際に勧農に

     当たったのは荘官・地頭であったが、かれらはその権限を槓杆として在地支

     配を行い、領主化の途をたどる(『古文書古記録語辞典』)。

「浮免」─負担額と田積のみ指定され、それを負担すべき田地(下地)、坪が固定して

     いない免田をいう。大和国東大寺白米免・香菜免・油免、興福寺の雑役免

     田など、国衙から雑役を免除されたが、面積だけは定まっていたものの、下

     地は毎年浮動し固定していなかった。鎌倉時代高野山備後国太田庄で

     は、地頭別作が浮免で「雑役免は浮免なり、下地不定」と言われている

     (『古文書古記録語辞典』)。

「見作」─見作田。耕作可能の田地で、所当・加地子などを負担すべき田。現在、耕作

     している田。見は現(『古文書古記録語辞典』)。

「歳末節料」─歳末行事(読経や霊供)の実施に必要な物資として徴収されたもの(井

       原今朝男「中世の五節供天皇制」『日本中世の国政と家政』校倉書

       房、一九九五)。

「草手銭」─山野に入り草を刈る代償として支払う米・銭。草手米、草手銭(『古文書

      古記録語辞典』)。ただし、「京上時」という言葉とともに表記されてい

      るので、京上夫の代銭納であったのかもしれません。戦国時代、室町幕府

      御料所で見られ、荷物の運送に使役された夫役の一種に「草夫」というも

      のがあるようですが(『古文書古記録語辞典』)、これと同様のものかも

      しれません。「京上夫」は「荘園領主や地頭が住民に貸した夫役の一種。

      荘官・地頭らが荘園現地と京都との間を往来するとき、また年貢送進に用

      いる人夫役」(『古文書古記録語辞典』)。