一〇 石井末忠軍忠状
末忠申
(貼紙)
「頭中将顕忠卿之判」
(花押)
(賜)
安藝国在廳石井七郎源末忠申合戦事、馳二参伯州船上一、依三下二預四月十四日
忝 綸旨一、付二頭中将家御手一致二度々合戦一畢、此上者爲レ蒙二恩賞一、可三
下二預御一見状一候哉、恐惶謹言、
(1333)
元弘三年五月十日 源末忠
進上 御奉行所
「書き下し文」
末忠申す
安芸国在庁石井七郎源末忠申す合戦の事、伯州船上に馳せ参じ、四月十四日忝き綸旨
を下賜するにより、頭中将家の御手に付し度々合戦致し畢んぬ、此の上は恩賞を蒙ら
んが為、御一見状を下賜すべく候ふや、恐惶謹言、
「解釈」
石井末忠が申し上げる。
安芸国在庁官人石井七郎源末忠が申し上げる合戦のこと。伯耆国船上に馳せ参じ、四月十四日に畏れ多い綸旨をご下賜になったことにより、頭中将千種忠顕の御軍勢に属し、度々合戦をいたした。このうえは恩賞をいただくため、御一見状をお下しくださりませんか。恐れながら謹んで申し上げます。
「注釈」
「頭中将」─千種忠顕。?─一三三六。南北朝時代の貴族、武将。後醍醐天皇の廷臣。
村上源氏六条有忠の子。忠顕に至り、氏を六条とも千種とも称する。千種
は伊勢の地名であり、忠顕が伊勢千種氏の祖であるに因る。忠顕は蔵人
頭、左近衛中将、弾正大弼、丹波守、参議。従三位。後醍醐天皇の信任篤
く、元弘の乱が起るや、天皇に随従して笠置山に籠り、忠勤した。笠置落
城ののち、天皇以下皇子臣僚ら、事に関与した者は、罪の軽重により、あ
るいは斬られ、あるいは流れることになり、忠顕は佐々木高氏入道道誉に
拘禁となった。天皇は流罪に決定、元弘二年(一三三二)三月七日京都を
出発、四月二日隠岐島に到着、島後国分寺を行在所にした。天皇に従って
渡島した者は少なく、数人であったが、忠顕は京都出発以来近侍して苦難
を経た。天皇が隠岐に滞在中下された唯一の伝存文書たる『鰐淵寺文書』
元弘二年八月十九日宸筆願文について、貞治五年(一三六六)三月二十一
日同寺僧頼源の『鰐淵寺文書』送進状には、右宸翰には、「上卿千種宰相
中将忠顕卿(于時六条少々云々)」と記されており、忠顕の存在が確認さ
れる。その後天皇は、翌三年閏二月二十四日同島を脱出し、伯耆大阪に上
陸、ついで名和長年に封ぜられて船上山を本拠とし、敵徒の来襲に対抗し
た。しかして同地に滞在中天皇は、出雲杵築社神主に宛て、同年三月十四
日王道再興綸旨および同十七日宝剣代綸旨の二文書を発しているが、とも
にその奉者が忠顕の名義になっている。しかし前文書は別人の筆、後文書
は天皇宸筆の綸旨として著聞する。その後官軍の京都六波羅攻撃が行われ
るや、忠顕は勅命を受け、兵を率いて赴き援助し、功を賞せられた。建武
新政の世となり、忠明は依然蔵人として政務に参与していることは、多く
の文書の示すところである。その後足利氏の反により新政は崩壊し、京都
は延元元年(北朝建武三、一三三六)正月および五月同氏のために再度占
拠され、天皇は叡山に難を避けた。当年六月足利方軍勢は、叡山行在所に
強烈な攻撃を加え、忠顕はついに同月七日西坂本で戦死を遂げた。彼は当
時すでに出家していたようである。なお大正八年(一九一九)十一月その
功により従二位を追贈されている(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文
館)。
「船上」─船上山。赤碕町の南西部に位置し、大山外輪山連峰の北東端にあたる。俗に
頂上と称される地点(標高六一五・六メートル)は薄ヶ原(すすきがはら)
と称され、南西の勝田ヶ山(一二一〇メートル)の北側からせり出したなだ
らかな溶岩台地の北東端にあたり、周辺には千丈滝・ますがえしの滝などが
ある。古くから大山と並ぶ聖地とみなされていたらしく、薄ヶ原から南西の
船上神社に至る台地上には古代から寺院があったとされ、約二十の寺院跡が
残るほか、鎌倉時代の宝篋印塔があり、江戸時代には三所権現が祀られてい
た。薄ヶ原の東・西・北の三方は傾斜が急峻な天然の要害で、後醍醐天皇を
奉じて名和長年が山上に拠ったことはよく知られており、現在、薄ヶ原には
船上山行宮碑(国指定史跡)が建っている(『鳥取県の地名』平凡社)。
「一見状」─中世、軍忠状・着到状において、大将や奉行が内容を承認したしるしとし
て、文書の奥や袖に「一見了」と記し花押を加えたもの(『古文書古記録
語辞典』)。