周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

剣舞はいつから?

  応永二十七年(一四二〇)二月十日条 (『看聞日記』2─24頁)

 

 十日、晴、早旦御堂巡礼、

  (中略)

  抑便路之間桂地蔵堂参詣、御堂造営奇麗也、暫念誦之間門前有放歌、以太刀刀跳

  狂、男共見物、其風情奇得之由申、立輿見之、誠奇異振舞、不可説也、賜扇則帰、

  (後略)

 

 「書き下し文」

  抑も便路の間桂地蔵堂に参詣す、御堂造営奇麗なり、暫く念誦の間門前にて放歌有り、太刀・刀を以て跳び狂ひ、男ども見物す、其の風情奇得の由申す、輿を立て之を見る、誠に奇異の振る舞ひ、不可説なり、扇を賜ひ、則ち帰る、

 

 「解釈」

  さて都合のよい道だったので、桂の地蔵堂に参詣した。御堂は綺麗に造営してあった。しばらく念誦していると、門前で放下が行われた。太刀や刀を持って跳び狂っていて、男どもがそれを見物した。その様子は非常に珍しいと申していた。輿を立ててこれを見た。本当に珍しい所作は、言葉では説明できないのである。扇を与えて、すぐに帰った。

 

 「注釈」

地蔵堂

 ─西京区春日町桂離宮の西南、山陰道沿いにある。俗に桂地蔵といい、浄土宗。洛陽六地蔵第五番札所。本尊は地蔵菩薩立像(江戸期)(『京都市の地名』)。このブログの「ドラマチックな地蔵譚」参照。

 

「放歌」

 ─放下。中世・近世に行われた芸能の一つ。小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞・手品・曲芸などの芸。また、それを専門に行う者。多くは僧形であったが、中には頭巾の上に烏帽子をかぶり、笹を背負った姿などで演ずるものもあった。放下師。放下僧。放家。放歌(『日本国語大辞典』)。なお、放下はインドから中国を回って日本へ入ってきた芸能と考えられています(野間宏沖浦和光『アジアの聖と賤』人文書院、1983年、93頁)。

 

*太刀や刀を持って、跳び狂う。こうした芸能は歌舞伎や神楽に近いので、現代人にしてみれば見慣れた光景と言えるかもしれませんが、記主貞成親王にとっては、かなり珍しい所作だったようです。

 いつどこで聞いたのか、まったく覚えてないのですが、昔、日本の文化を「摺り足の文化」、西洋の文化を「跳躍の文化」と聞いたような気がします。そしてその違いは、それぞれの舞踊に顕著にあらわれている、と。

 今回の「放下」の詳細はわかりませんし、どれほどの激しい動きなら「跳狂」と言えるのか、その区別をつけることはできません。また、見物人たちや貞成親王が当時のすべての舞踊を見ていたとも思えないので、今回の放下の珍しさが一般化できるのかわかりませんが、ひとまず中世に刀剣を用いた跳躍型の歌舞があったことはわかります。少しだけ、日本の舞踊のイメージが変わりました。こうした舞踊がいつから始まったのか、中世では一般的だったのかを知りたいものです。

千葉文書8

    八 小早川隆景書状(折紙)

 

 追而鶴一羽差上せ候、一段新敷候、獵味之薬食別而祝着候、

 (神保源右衛門尉)               (包久景相)

 神源右肝煎候由、神妙候、弥其心懸干要候、猶従包次兵所申候、謹言、

       十二月十六日         隆景(花押)

 

          高又兵

          神源右

 

 「書き下し文」

 神源右肝煎し候ふ由、神妙に候ふ、弥其の心掛け干要に候ふ、猶ほ包次兵の所より申

 すべく候ふ、

 追つて鶴一羽差し上らせ候ふ、一段と新たらしく候ふ、獵味の薬食別して祝着に候

 ふ、謹言、

 

 「解釈」

 神保源右衛門尉があれこれと世話をしておりますことは、感心なことです。ますますその心掛けが大切です。さらに包久景相のところから申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 追伸。鶴一羽を進上してくれました。格別に新しいものでした。鳥獣の肉を食べることは、とりわけ喜ばしいことです。

 

 「注釈」

「薬食」─くすりぐい。①冬に、保温や滋養のために猪、鹿などの肉を食べること。普

     通、獣肉は穢があると忌んで食べなかったが、病人などは薬と称して食べ

     た。②からだにとって栄養になるものを食べること(『日本国語大辞

     典』)。

千葉文書7

    七 小早川隆景條々

 

     ケ条

                               (鵜飼元辰)

 一先度蔵田太郎衛門尉差上せ候、我々下向海上にて行違、伏見⬜︎候てう新ニ令

  対談候而下向候、即可下候處、彼是用段等一度ニ可申下と、

            (神保弥三郎)

  一日々々遅々候處、其後神弥兵上着、打続其表之趣追々聞届候事、

   付、右の事のほり候船此節迄、當春之趣者右之分にて相延候、爲心得候事、

 一下着即剋高平可差下、其返事之早飛脚も到来候、いつれも、度々之都合相易

  無題目候て、皆以同事候事、然間はや聞届候、条数者不返答事、

 

 一御城米大概相調之由干要候、未進方之儀、無緩さいそく肝心候事、

 一二郡者土貢納所未進遣方以下目録披見候、未進方可成程之儀、弥可相究事、

 一はかたへかし付候御城米、銀子にて不相成所者、米にて可納之由度々申聞

         (銀)

  候、其米を来秋艮子調之かし米ニ可仕付之段申付候處、最前者不相成

  由申上せ候、又かし付候儀も可成哉之由、得其意候、弥可申上之由候

  之間、縦大坂へ上せにてもつゆより内ニ仕置下候様、其地にて相成哉、不成哉

  之段、早々可申上候事、

 (山口正弘)      (蒔二郎兵)

 一山玄より返米之儀付て、蒔二兵算用状披見候、桂新兵上ニう新所へ申遣候、弥

  相調候様蒔二兵可相談事、

 一於子米夏方ニ継相之事、とかく山玄より被申下候ハてハ、難相澄之由候、

  是も以新兵う新へ申遣事、

 一両三人事、吉木手野ニ當座居候、然者今度郡かわりニ付て、只今郡替相澄候事

  にて無之候間、蒔二兵相談罷居之由干要候、住所秋ニ至而可申聞事、

 一両郡鷹究置之由、可然候、以前申下候鳥尾取集可差上事、

 (備後御調郡     (包久景相)

 一三原詰夫之儀、委細従包二兵所申下事、

 一蕉雪去務之儀、彼方理聞届候、其分目是も包二兵所より申下事、

 一今度合力米弥延米之事、算用重而可申上事、

                筑前

 一いろり銭之儀、此方へ相定候、宗像郡之儀申付ましく候、然者来秋より鞍手此方

                   筑前穂波郡

  存候、彼郡者蒔二よりはや被取納候、穂波来秋相渡候間、穂波一郡へ者、

  彼方員数並ニかけ候て可取納候、其元も其分別之由干要候事、

 一穂波八木山舟板之事、是も此郡さいはんの内百姓少々隙を以、津出干要候、隣郡

  之人力加勢之事、蒔二兵へ申遣候間、入事ニ候ハヽ可談合候事、

 一蒔二兵へ書状之事、前太郎右にて申のほせ候、只今調遣候事、

 一前太事も、手前之隙明候へ共、返事可持下と申候へ共、此上別条無之候間、

  留置候事、

 一催促衆上着候、則三人差下候、涯分少成共相調候様ニ、肝煎不油断

  候事、

 (伊予越智郡安居島)         (安芸安南郡蒲刈

 一あい嶋にて何篇相調之由干要候、此方かまかりにても時儀能相調候、追々飛脚

  差上せ祝着候事、

 一大阪へ運上之米積舟之事、其方より申上時分々々ニ差下事、

       以上

      (文禄四年ヵ)

       卯月廿五日            隆景(花押)

       (高尾又兵衛)

        高又兵

       (横見太郎右衛門)

        横太右

       (宗近新左衛門)

        宗新左

 

 「書き下し文」

 一つ、先度蔵田太郎衛門尉差し上らせ候ふ、我々下向し海上にて行き違へ、伏見⬜︎候ひて、う新に対談せしめ候ひて下向し候ふ、即ち下らるべく候ふ処、彼れ是れ用ゐる段等一度に申し下すべしと、一日一日遅々に候ふ処、其の後神弥兵上着し、其の表に打ち続くの趣追々聞き届け候ふ事、付けたり、右の事のぼり候ふ船此の節まで、当春の趣は右の分にて相延び候ふ、心得のために候ふ事、

 一つ、下着し即剋高平を差し下すべし、其の返事の早飛脚も到来し候ふ、いづれも、度々の都合相易はり題目無く候ひて、皆以て同じ事に候ふ事、然る間はや聞き届け候ふ、条数は返答する能はざる事、

 一つ、御城米大概相調ふるの由干要に候ふ、未進方の儀、緩み無く催促肝心に候ふ事、

 一つ、二郡は土貢納所未進遣はし方以下目録披見し候不、未進方成るべき程の儀、弥相究むべき事、

 一つ、博多へ貸し付け候ふ御城米、銀子にて相成らざる所は、米にて納むべき由度々申し聞かせ候ふ、其の米を来秋に銀子之を調へ貸し米に仕へ付くべきの段申し付け候ふ処、最前は相成らず候ふ由申し上らせ候ふ、又貸し付け候ふ儀も成るべきかの由、其の意を得候ふ、弥申し上ぐべきの由候ふの間、縦ひ大坂へ上らせにても梅雨より内に仕置き下し候ふ様、其の地にて相成るか、成らざるかの段、早々に申し上ぐべく候ふ事、

 一つ、山玄より返し米の儀に付けて、蒔二兵算用状を披見し候ふ、桂新兵上らすにう新所へ申し遣はし候ふ、弥相調へ候ふ様蒔二兵と相談すべき事、

 一つ、子米に於いて夏方に相継ぐの事、とかく山玄より申し下され候はでは、相澄み難きの由に候ふ、是れも以て新兵う新へ申し遣はす事、

 一つ、両三人の事、吉木手野に当座居候ふ、然れば今度郡替わりに付けて、只今郡替わり相澄み候ふ事にて之無く候ふ間、蒔二兵と相談し罷り居るの由干要に候ふ、住所秋に至りて申し聞かすべき事、

 一つ、両郡の鷹を究め置くの由、然るべく候ふ、以前に申し下し候ふ鳥尾取り集め差し上ぐべき事、

 一つ、三原詰夫の儀、委細包二兵の所より申し下す事、

 一つ、焦雪去務の儀、彼方の理聞き届け候ふ、其の分目包二兵の所より申し下す事、

 一つ、今度合力米弥延米の事、算用重ねて申し上ぐべき事、

 一つ、いろり銭の儀、此方へ相定め候ふ、宗像郡の儀申し付くまじく候ふ、然らば来秋より鞍手此方存じ候ふ、彼の郡は蒔二よりはや取り納められ候ふ、穂波来秋に相渡し候ふ間、穂波一郡へは、彼方員数並みにかけ候ひて取り納むべく候ふ、其元も其の分別の由干要に候ふ事、

 一つ、穂波八木山舟板の事、是れも此の郡さいはんの内百姓少々隙を以て、津出し干要に候ふ、隣郡の人力加勢の事、蒔二兵へ申し遣はし候ふ間、入事に候はば談合すべく候ふ事、

 一つ、蒔二兵へ書状の事、前太郎右にて申しのぼせ候ふ、只今調へ遣はし候ふ事、

 一つ、前太の事も、手前の隙明らめ候へども、返事持ち下すべしと申し候へども、此の上別条之無く候ふ間、留め置き候ふ事、

 一つ、催促衆上着し候ふ、則ち三人差し下し候ふ、涯分少なく成れども相調へ候ふ様に、肝煎油断有るべからず候ふ事、

 一つ、安居嶋にて何篇も相調ふるの由干要に候ふ、此方蒲刈にても時儀能く相調へ候ふ、追々飛脚差し上らせ祝着に候ふ事、

 一つ、大坂へ運上の米を積む舟の事、其方より申し上ぐる時分時分に差し下す事、

       以上

      (1595)

       卯月廿五日            隆景(花押)

        高又兵

        横太右

        宗新左

 

 

*わからないことが多すぎて、解釈することができませんでした。一応、書き下し文も作ってみましたが、自信のないところが多すぎます。

 

 「注釈」

「山口正弘」

 ─?〜一六〇〇(?〜慶長五)(宗永・宗長・左馬助・玄蕃頭・従五位下豊臣氏の臣。加賀大聖寺城主。尾張鳴海の将甚介光広の子。秀吉に仕え、天正十一年(一五八三)、賤ケ岳合戦に参陣。地方支配にすぐれ、丹波の山奉行となる。のち秀吉の養子羽柴(小早川)秀秋の補佐となり、小早川氏の領国筑前・肥後などで検地を実施。また慶長二年(一五九七)、朝鮮再派兵に際しては秀秋に従って朝鮮へ出陣。その後間もなく秀秋との不和により秀吉のもとへ戻り、加賀大聖寺城六万石を領有。同五年、関ヶ原合戦では西軍に属し、子修広とともに大聖寺城に籠城するが、八月四日、攻略されて戦死した(『戦国人名事典』新人物往来社)。

 

「鵜飼元辰」─小早川隆景の宿老(『三原市史』第一巻、通史編)。

 

「鞍手」

 ─天正一五年豊臣秀吉の九州平定によって筑前小早川隆景に与えられ、当郡は小早川領となった。隆景の養子小早川秀秋が慶長三年(一五九八)に越前へ転封され豊臣政権の直轄領となったが、同四年秀秋は旧領に復し再び小早川領となる(『福岡県の地名』平凡社)。

 

「宗像郡」

 ─天正一五年九州平定を成し遂げた豊臣秀吉筑前一国と筑後二郡・肥前二郡を小早川隆景に与えた。この結果当郡は全て小早川氏領となる(『福岡県の地名』平凡社)。

 

「穂波」

 ─天正一五年豊臣秀吉の九州平定に伴って、筑前一国は小早川隆景に宛行われた。文禄四年(一五九五)十二月一日の「文禄三郡内知行方目録」によると、備後国三原(現広島県三原市)に隠居した隆景の隠居領として宗像・鞍手両郡の大半と御牧郡の一部が与えられているが、翌五年四月の段階では鞍手郡に対する隆景の支配は行われておらず、宗像・穂波両郡が支配の対象であった(同月二十五日「小早川隆景条々」千葉文書)(『福岡県の地名』平凡社)。

 

「安居島」

 ─現北条市安居島。斎灘にある小島。安居島・小安居島の二島からなる。安居島は東西一・二キロ、南北〇・二キロ、高さ五六メートル。寛政年間(一七八九─一八〇一)まで無住の島であった(『愛媛県の地名』平凡社)。

 

蒲刈(島)」

 ─芸予諸島西端に位置する上蒲刈島(現蒲刈町)・下蒲刈島(現下蒲刈町)は、近世には蒲刈島と総称され、「芸藩通志」には「上下二島あり 上は周六里四町、下は三里三十四町」と記される。この上下両島は嘉応二年(一一七〇)四月日付の伝燈法師雲暁解(興福寺本信円筆因明四相違裏文書)にみえる「安芸国日高御庄にあたり、「芸藩通志」も「蒲刈島 此島を日高庄といへり」と記す。日高庄は奈良興福寺領と推定され、雲暁は日高庄に私領田畠を有し、過去三年間に米一〇〇余石、杉榑三千寸などの収得があったようである。以後日高庄に関する記録はないが、蒲刈島には春日神社が多く鎮座しており(「芸藩通志」では四社)、興福寺との関係がうかがえる。正平六年(一三五一)九月二十八日付常陸親王令旨(毛利家文書)に、多賀谷孫次郎支配の日高下島を三戸頼顕に預けたとある。この日高下島は下蒲刈島をさし、上蒲刈島は日高上島とよんだものと思われる。享徳元年(一四五二)閏八月二十四日付の平賀弘宗小早川守景等注進状写(小早川家文書)によれば、伊予国河野氏重臣重見氏が日高城麓にいたことが知られるが、この城が上下どちらの城にあったかは不明。

 寛正二年(一四六一)六月二十九日の大内氏奉行人奉書(大内家掟書)には、周防山口からの行程を「日高島七日(中略)蒲刈島六日」と記す。この頃には上蒲刈島だけを日高島と称し、蒲刈島は下蒲刈島の呼称としている。応永二十七年(一四二〇)朝鮮回礼使宋希暻の訪日紀行「老松堂日本行録」に可忘家利(かまかり)に停泊した記事があるが、これも下蒲刈島のことと考えられる。それによると可忘家利は「群賊所居、王令不及無統属」の地で、賊は相互に危害を加えないことになっているので、あらかじめ賊一人を雇ったとか、島民のなかに朝鮮人僧がおり、茶に招待しようとしたが「此処人心難測」ということでやめたという話がみえる。

 弘治三年(一五五七)八月十六日の安芸国安南郡蒲刈島神田坪付(広島大学蒲刈島文書)には上下両蒲刈島内の地名がみえ、この頃より両島をもって蒲刈島と称するようになったと思われる。大永三年(一五二三)八月十日の安芸東西条所々知行注文(平賀家文書)に「蒲刈島 七百貫」とあるのも両島合わせたものであろう。なお、室町時代には両島ともほぼ多賀谷氏領地であったと思われるが、弘治元年毛利氏に敗れて以後は小早川氏の支配下となった。上蒲刈島向かいにあった光明寺(現豊田郡川尻町)に、慶長五年(一六〇〇)京都本願寺より木仏が下付されたが、その裏書に「安芸国阿南郡日高庄蒲刈光明寺」と記されており、(「木仏之留」龍谷大学蔵)、日高庄の呼称もこの頃までは生きていたことが知れる(『広島県の地名』平凡社)。

千葉文書6

    六 豊臣秀吉朱印状

 

 (継飛脚)

 つきひきやく壹人、大坂まて夜中ニよらす可相届候、然者御定のことく、

 壹里ニ四文つゝ可之候也、

     (1593)

     文禄貳年六月廿九日     ◯ (秀吉朱印)

               ふか江

 

 「書き下し文」

 次飛脚一人、大坂まで夜中によらず相届くべく候ふ、然れば御定めのごとく、一里に

 四文づつ之を遣はすべく候ふなり、

 

 「解釈」

 次飛脚一人を、大坂まで夜中によらず届け合うべきです。だから、御定めのとおりに、一里につき四文ずつ、次飛脚に与えるべきであります。

 

 「注釈」

「次飛脚」─「継飛脚」と漢字を当てた場合、江戸幕府公用の飛脚を指します(『角川

      新版日本史辞典』)。豊臣政権の場合は「次飛脚」と漢字を当てます。本

      多博之論文では次のように説明されています(「豊臣政権の次夫・次馬・

      次飛脚・次船制について」『内海文化研究紀要』45、2017・3、

      http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/list/HU_journals/AN00176886/--/45/item/42925)。「豊臣政権の次夫・次馬・次飛脚・次船制は、第一次朝鮮侵略戦争

      (文禄の役)の実施に当たり、軍勢発進基地となった肥前名護屋と京・大

      阪との間の通信・輸送を迅速かつ確実にするために、政権がその経路(陸

      路・海路)を整備して設定した長距離通信輸送制度である」。

「ふか江」─深江宿。福岡県糸島市二丈深江。

千葉文書5

    五 小早川氏奉行人連署書状

 

 神保五郎方愁訴之儀、當時無御闕所等も候へ共、㝡前御約束之由候、又旁以

 御申之条、十貫文之地御打渡被遣候、此由可仰聞候、恐惶謹言、

       九月廿二日         春忠(花押)

                     景道(花押)

  (捻封ウハ書)

  「             磯兼左近大夫

                井上又右衛門尉

        乃美宗勝

        兵部丞殿 参人々御中   春忠」

 

 「書き下し文」

 神保五郎方愁訴の儀、当時御闕所等も無く候へども、最前御約束の由候ふ、又旁々以

 て御申すの条、十貫文の地御打ち渡し遣はされ候ふ、此の由仰せ聞けらるべく候

 ふ、恐惶謹言、

 

 「解釈」

 神保五郎方の愁訴の件について、当時御闕所の地はなかったのですが、最初から(土地を給与する)お約束がありました。また、あれこれと訴え申し上げなさるので、十貫文の地を引き渡し遣わしなさるつもりです。この内容を乃美殿から神保五郎へ言い聞かせなさるべきであります。以上、謹んで申し上げます。

 

*書き下し文、解釈ともに、よくわからなところがあります。

 

 「注釈」

「闕所」─①欠けている不十分なところ。②持ち主のない土地。中世に罪を犯して没収

     されたり、裁判で改替されたりした荘園の諸職。③中世に財産を没収するこ

     と(『古文書古記録語辞典』)。