周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ハーレム内の憂鬱4 ─中世公家密通法─

  永享二年(1430)五月十一日条 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─201頁)

 

                                 (正親町三条) 

 五月十一日、晴、仙洞女房一条局〈日野中納言盛光卿女、〉令懐妊云々、是三条中将

         (後小松上皇)(足利義教     (実煕)

  実雅朝臣所犯也、自仙洞室町殿被訟仰之間、洞院中納言事有傍例、以准拠之例

              (季保ヵ)

  可有御免之由被申、御使四辻中納言也、時宜猶不許之間以外腹立、有扶持之子細

                     〔処〕

  執申入之処、無御免以前洞院事同罪一々可拠罪科也、向後院参可斟酌之由被

  申之間、無力御免、向後事堅被置厳法之由被仰云々、其大法以宸筆被遊、諸家・

                               (親光)

  公卿・殿上人・医陰輩不限老若悉可相触、面々可進請文之由、広橋中納言為奉行

       (親光)(田向経良)

  被仰出、仍自広橋源宰相ニ此旨申送、可被進請文云々、折紙云、宸筆、

                            〔処〕

  於禁裏・仙洞之間若有女犯之輩、不依上中下臈之勝劣可被拠罪科事、

 一、遠流事、

 一、被召放所帯、或被返付由緒之仁、或可被宛行便宜之輩事、

   雖為女公人有犯過之儀、同可及所帯之沙汰者也、

 右条々厳法、令申談室町殿所定置也、

  (1430)

  永享二年五月七日

 請文之旨大略一同云々、於禁裏・仙洞之間、女中不依上中下臈至女公人有女犯之

                        (田向経良) (重有)(田向)

 儀、可被拠罪科之由謹奉了、其旨可存知之由也、前源宰相・庭田三位・長資

    (庭田)              (庭田重有)

 朝臣・重賢請文如此、重賢雖未出仕、為向後父卿請文可存知之由書載云々、

 禁・仙之番不祗候此御所輩まて被仰下、不得其意事也、凡前代未聞之厳法也、

 禁裏・仙洞小番衆厳密被定云々、番帳一見記之、(後略)

 

 

 「書き下し文」

 五月十一日、晴る、仙洞の女房一条局〈日野中納言盛光卿の女、〉懐妊せしむと云々、是れ三条中将実雅朝臣の犯す所なり、仙洞より室町殿へ訴へ仰せらるるの間、洞院中納言の事傍例有り、准拠の例を以て御免あるべきの由申さる、御使四辻中納言なり、時宜猶ほ許さざるの間以ての外腹を立つ、扶持有るの子細執り申し入るるの処、御免無くんば以前の洞院の事も同罪にて一々罪科に処すべきなり、向後院参も斟酌すべきの由申さるるの間、力無く御免、向後の事堅く厳法を置かるるの由仰せらると云々、其の大法宸筆を以て遊ばされ、諸家・公卿・殿上人・医陰の輩老若を限らず悉く相触るべし、面々請文を進らすべきの由、広橋中納言奉行として仰せ出ださる、仍て広橋より源宰相に此の旨を申し送り、請文を進らせらるべしと云々、折紙に云ふ、宸筆、

  禁裏・仙洞の間に於いて若し女犯の輩有らば、上中下臈の勝劣に依らず罪科に処せらるべき事、

  一つ、遠流の事、

  一つ、所帯を召し放たれ、或うは由緒の仁に返し付けられ、或うは便宜の輩に充て行はるべき事、女公人たりと雖も犯過の儀有らば、同じく所帯の沙汰に及ぶべき者なり、

  右条々の厳法、室町殿に申し談ぜしめ定め置く所なり、

   永享二年五月七日

 請文の旨大略一同と云々、禁裏・仙洞の間に於いて、女中上中下臈に依らず女公人に至るまで女犯の儀有らば、罪科に処せらるべきの由謹んで奉り了んぬ、其の旨存知すべきの由なり、前源宰相・庭田三位・長資朝臣・重賢の請文此くのごとし、重賢は未だ出仕せずと雖も、向後のため父卿の請文に存知すべきの由書き載すと云々、禁・仙の番に祗候せざる此の御所の輩まで仰せ下さる、其の意を得ざる事なり、凡そ前代未聞の厳法なり、禁裏・仙洞の小番衆厳密に定めらると云々、番帳一見し之を記す、

 (後略)

 

 

 「解釈」

 五月十一日、晴れ。仙洞の女房一条局〈日野中納言盛光卿の娘〉が懐妊したという。なんと正親町三条中将実雅朝臣が犯したのである。仙洞後小松上皇から室町殿足利義教へ訴えなさったので、室町殿は、「洞院中納言実熙の件という先例があります。準拠する慣例があるから、お許しになるべきです」と申し上げなさった。御使者は四辻中納言季保である。仙洞のお考えは、依然として許さないというものであったので、このうえなくお腹立ちであった。御使者の四辻季保は、助ける理由を取り次ぎ申し入れ、「お許しがないなら、以前の洞院実熙の件も同罪で、一々処罰しなければなりません。今後は院中に参上することも斟酌するべきです」と室町殿が申し上げなさったので、仕方なくお許しになった。「今後は厳重に法令を定め置かれるべきである」と後小松上皇は仰せになったそうだ。その大法は宸筆によってお書きになり、諸家・公卿・殿上人・医師・陰陽師ら、老いも若きもすべてに広く知らせるべきで、各々が請文を進上しなければならないと、広橋中納言親光が奉行としてご命令になった。というわけで、広橋親光から源宰相田向経良にこの内容を申し送り、請文を進上すべきであると命じられたそうだ。宸筆の折紙は次のようなものだ。

  禁裏と仙洞において、もし女犯の罪を犯した者がいれば、上中下臈の身分差によらず、処罰されなければならないこと。

 一つ、遠流に処すること。

 一つ、所領・所職を取り上げ、あるいはその所帯に由緒をもつ者に返し付けられ、あるいは都合のよい人物に支給されるべきこと。

  女の下級職員であっても、女犯の罪を犯したら、同じく所領・所職を召し上げるべきである。

 右の一つひとつの厳法は、室町殿に相談させ申し上げて制定したのである。

  永享二年五月七日

 請文の内容はおよそみな同じものだったそうだ。禁裏・仙洞の間で、女中は上中下臈によらず女の下級職員にいたるまで、女犯の罪があれば、処罰されてもよいという内容の請文を謹んで差し出した。その内容を承知しておくべきだということである。前源宰相田向経良・三位庭田重有・田向長資朝臣・庭田重賢の請文はこのようなものである。庭田重賢はまだ出仕していなかったが、今後のため父庭田重有の請文に、重賢も承知しているということを書き載せたそうだ。禁裏や仙洞の番に祗候していない我が御所の被官まで請文を提出するようにご命令になった。納得できないことである。まったく前代未聞の厳しい法律である。禁裏・仙洞の小番衆に対しても、厳密に法律が定められたという。番帳を一見してこれを記した。

 

 

 「注釈」

「三条実雅」

 ─1409〜1467(応永十六〜応仁元)。室町時代の公卿。父は権大納言三条公雅。母は家女房。応永二十年(1413)正月、叙爵。侍従・近衛・頭中将から永享四年(1432)七月、参議に任ず。同九年十月、権中納言で使別当に補す(左衛門督)。妹に将軍足利義教の側室尹子があったが、嘉吉元年(1441)六月二十四日、義教暗殺のときにその席に陪従していたため数カ所の傷を受けた。その年十二月、権大納言に進み、翌々年三月、太宰権帥を兼ねる。享徳二年(1453)十二月、官を辞し、長禄元年(1457)九月、内大臣に任ず。翌年七月これを辞し、長禄三年正月、従一位に昇叙。寛正二年(1461)七月二十九日、出家、法名常禧。応仁元年(1467)九月三日没す。五十九歳。青蓮華院入道前内大臣と号す。和歌にも秀でていた(『鎌倉・室町人名事典』新人物往来社)。

 

「洞院実煕」

 ─1409─? 室町時代の前期の公卿。初名実博。法名元鏡。東山左府と号す。応永十六年(1409)生まれる。父は内大臣洞院満季、母は法印兼真の女。応永三十一年従三位、非参議。正長元年(1428)参議を経ずして権中納言となったが、翌永享元年(1429)勅勘によって辞官。同二年還住し同四年権大納言、嘉吉二年(1442)に右大将、文安三年(1446)内大臣に昇ったが宝徳二年(1450)辞職。しかし享徳三年(1454)に右大臣、康正元年(1455)には左大臣となった。長禄元年(1457)四月十一日辞官、同六月五日出家。没年は明らかでないがまもなく没したものとみられる。朝儀典礼通暁し、父祖公賢の著した『拾芥抄』を補訂したともいわれている。現存の日記『実煕日記』(『洞院左府記』『東山左府記』ともいう)は永享四年・享徳二年の記事を部分的に収めている(『日本古代中世人名辞典』)。

 

 

*さて、今回の記事では、正親町三条実雅と一条局(日野盛光の娘)との密通が発覚しています。ところが、室町殿足利義教の口入(執奏)によって、正親町三条実雅は無罪となっています。一条局の処遇はわかりませんが、足利義教の意向によって、後小松上皇の処罰権に制限がかけられたことはわかります。前回の記事でも紹介しましたが、天皇の介入によって起請文を書くことを免れた日野西資子の場合と同様に、この時期の密通問題は、各家政権力内だけで処理できる案件ではなかったということがわかります。つまり、問題は仙洞御所で起きているのに、後小松上皇の意志だけで処分することができなかったようです。なぜ、自分の妾たちと自分の部下が密通に及んだのに、上皇は自分の意志を通すことができなかったのでしょうか。

 中世では、天皇の官吏として禁裏に祗候しながら、室町殿や摂関家の家司、院司を兼任する公家がおり、こうした複数の身分や役割をもつ人物が国政を支えていたそうです(井原今朝男「天皇の官僚制と室町殿・摂家の家司兼任体制」・「結語」『室町廷臣社会論』塙書房、2014)。禁裏・仙洞・摂関家・室町殿といったさまざまな家政機関に廷臣が出入りするような政治形態だったからこそ、公家や武家の入り乱れた密通事件が起きるようになったのかもしれません。後小松上皇は厳格な法令の制定を命じたのですが、その法令が足利義教との相談のうえで制定されていることも、「公武共同執行体制」という政治形態を象徴しているかのようです。

 ところで、密通・密懐の研究については、勝俣鎮夫「中世武家密懐法の展開」(『戦国法成立史論』東京大学出版会、1979)を嚆矢に、以後多くの研究が積み重ねられてきました。その中で、今回の史料に触れている研究として注目されるのが、辻垣晃一「密懐・密通・色好み」(『比較家族史研究』22、2007)です。この研究によると、武家の場合、間男への復讐観念が強いが、公家では復讐観念が弱いそうです。その背景にあるのは婚姻形態の違いで、武家は嫁取婚が多く、公家は婿取婚と嫁取婚が並立した曖昧な状態だったそうです。古代では、皇后や妃、それらの予定者、及び後宮の女官と密通したものは処刑される運命にあったそうですが、8〜9世紀になると、殺害されない代わりに流罪という緩和された措置へと変化します。これは、天皇を暴力による血の穢れから回避させるためだったと考えられています。結局、今回の法も死罪にまでは至らないので、公家社会では密通に寛容であったことがわかります。

 前掲辻垣論文によると、この法令は厳密には遂行されなかったらしく、法令以後の密通事件では、当事者は出仕停止、最終的には赦免されたそうです。法令は制定したのですが、以前と同じように、その時の上皇の意向によって、解決が図られていたのです。今回の「中世公家密通法」に永続的な効果はありませんでしたが、法令の制定経緯を見ると、その背景に「公武共同執行体制」という室町期の政治形態が浮かび上がってくるような気がします。

ハーレム内の憂鬱3

【史料1】

  応永三十一年(1424)六月一日・四日・八日条

                 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─38〜45頁)

 

                     (田向)  (兼宣)

 六月一日、晴、毎事幸甚々々、祝着如例、抑長資朝臣自広橋可来之由申間出京、是仙

                称光天皇

  洞女中事、此間被閣了、而再発、禁裏・仙洞外様小番衆并楽人等悉可書告文云々、

                                西大路

  長資禁裏小番衆也、依計会自去年不参、然而加人数可書告文云々、隆富朝臣

        世尊寺

  昨日書進云々、行豊朝臣以広橋被仰出云々、

 

 四日、雨降、長資朝臣帰参、語云、告文一昨日書進了、仙洞祗候事、先度院中

                             (季保)

  祗候不可然事也、不吉之由有御沙汰、誰今度不祗候、四辻宰相中将奉行之

  間、彼卿付渡云々、人々起請、仙洞へハ不被取入、四辻宿所皆取置云々、告文

                      洞院(満季) (実盛) 

  書人々縦雖為番之日、院中不可参云々、内府・徳大寺大納言仙洞時宜後記

  為不可然之間、難被仰之由室町殿被申、然而彼所存不許之間、徳大寺雖無仰

               (綾小路)

  進而書進云々、洞院定同然歟、信俊卿老者之間御免歟之処、自広橋可来之由申

  云々、是定可被書歟、清華・老者等悉不漏、希代不思儀也、起請題目書様

  右衛門佐局不申通、惣而雖向後、禁裏・仙洞女房達・女官・々人不可犯、其内

  以前女官等犯人ニハ其女官犯了向後不可有其儀、既又生数子輩除其人之由

       松木宗量)                松木

  付注云々、中御門中納言入道露顕、為人数之間逐電、子息宗継卿同罪、閇

       中山

  門戸籠居、有親朝臣田舎罷下云々、友興頭臣不知行方逐電了、女中

        (日野西資子)    (公光)

  皆告文書之、但二位殿・上臈〈三条相国息女〉、此両人不書、二位殿禁裏依被

       (日野西資国女)

  執申不書、其妹廊御方も禁裏雖被執申、仙洞不許書之、上臈室町殿聊被懸御手

             

  之間被除云々、自余悉書、室町殿毎日院参、大飲御張行、御内心嫌疑人々

  沈酔せさせられて、若有其失者、告文之失として為有御罪科、如此大飲御張行

  云々、人々恐怖無極、何様前代未聞不思儀、且標示歟云々、仙洞此間有御修法、

  如此御祈歟、

 

 八日、晴、

  (中略)

  重有朝臣正永宿所立寄、永基朝臣仙洞祗候、正永閑談、女中事、大納言典侍

    (橘)

  殿知興朝臣密通露顕、仍知興切本鳥逐電了、右衛門佐無懐妊之儀、去五月

                              召次

  廿九日只逐電云々、此局有親朝臣・ 土岐与安密通勿論也、幸末佐も雖令

  密通、仙洞時宜快然之間、御空不知ニて幸末佐無其沙汰云々、中御門中納言

  入道〈宗量卿、〉只今女中無密通之儀、日比院中昵近之時二位殿国母、密通申、

  只今露顕之間、可被流罪由有御沙汰、内々奉之則逐電云々、二位殿不調、無面目

                 (広橋兼宣)

  御事歟、抑室町殿先日院参之時、一位大納言以下庭上蹲踞不可然、向後此儀可止

                  (マヽ)

  之由被仰、又室町殿へ公家近習人々細々参候不可然、向後被喚外不可参入之

      (高倉)

  由被定、永藤卿為奉行、広橋以下喚之外不可参之由、可進請文之由被仰、仍面々

  進請文云々、条々閑談云々、不思儀事共也、

 

 

 「書き下し文」

 六月一日、晴る、毎事幸甚々々、祝着例のごとし、抑も長資朝臣広橋より来たるべきの由申す間出京す、是れ仙洞女中の事、此の間閣かれ了んぬ、而るに再発す、禁裏・仙洞の外様小番衆并びに楽人ら悉く告文を書くべしと云々、長資は禁裏小番衆なり、計会により去年より不参、然れども人数に加へ告文を書くべしと云々、隆富朝臣昨日書き進らすと云々、行豊朝臣も広橋を以て仰せ出ださると云々、

 

 四日、雨降る、長資朝臣帰参し、語りて云く、告文一昨日書き進らせ了んぬ、仙洞に祗候の事は、先度院中に祗候然るべからざる事なり、不吉の由御沙汰有り、誰も今度は祗候せず、四辻宰相中将奉行の間、彼の卿に付し渡すと云々、人々の起請、仙洞へは取り入れられず、四辻宿所に皆取り置くと云々、告文を書く人々縦へ番の日たりと雖も、院中に参るべからずと云々、内府・徳大寺大納言は仙洞の時宜は後記のためも然るべからざるの間、仰せられ難きの由室町殿へ申さる、然れども彼の所存許さざるの間、徳大寺は仰せ無しと雖も進みて書き進らすと云々、洞院定めて同然か、信俊卿老者の間御免かの処、広橋より来たるべきの由申すと云々、是れも定めて書かるべきか、清華・老者ら悉く漏らさず、希代不思儀なり、起請の題目の書き様は、右衛門佐局に申し通さず、惣じて向後と雖も、禁裏・仙洞の女房達・女官・官人犯すべからず、其の内以前に女官ら犯す人には其の女官を犯し了りて向後其の儀有るべからず、既に又数子を生む輩は其の人を除くの由付し注すと云々、中御門中納言入道露顕す、人数たるの間逐電し了んぬ、子息宗継卿同罪、門戸を閇じ籠居す、有親朝臣は僧に成りて田舎へ罷り下ると云々、知興朝臣は行方知らず逐電し了んぬ、女中皆告文之を書く、但し二位殿・上臈〈三条相国息女〉、此の両人は書かず、二位殿は禁裏執り申すにより書かず、其の妹廊御方も禁裏執り申さると雖も、仙洞許さずして之を書く、上臈は室町殿聊か御手を懸けらるるの間除かると云々、自余悉く書き畢んぬ、室町殿毎日院参す、大飲御張行す、御内心は嫌疑の人々沈酔せさせられて、若し其の失有らば、告文の失として御罪科有らんがため、此くのごとき大飲御張行すと云々、人々の恐怖無極なり、何様前代未聞の不思儀、且つ標示かと云々、仙洞此の間御修法有り、此くのごとき御祈りか、

 

 八日、晴る、

  (中略)

  重有朝臣正永宿所へ立ち寄る、永基朝臣は仙洞に祗候す、正永と閑談す、女中の事、大納言典侍殿は知興朝臣との密通露顕す、仍て知興本鳥を切り逐電し了んぬ、右衛門佐は懐妊の儀無く、去んぬる五月二十九日只逐電すと云々、此の局は有親朝臣・土岐世保との密通は勿論なり、召次の幸末佐も密通せしむと雖も、仙洞の時宜快然の間、御空知らずにて幸末佐其の沙汰無しと云々、中御門中納言入道〈宗量卿〉、只今は女中密通の儀無し、日ごろ院中に昵近の時二位殿国母と密通し申す、只今露顕の間、流罪せらるべきの由御沙汰有り、内々之を奉り則ち逐電すと云々、二位殿不調、面目無き御事か、抑も室町殿先日院参の時、一位大納言以下庭上に蹲踞すること然るべからず、向後此の儀止むべきの由仰せらる、又室町殿へ公家近習の人々細々参候すること然るべからず、向後は喚ばるるの外は参入すべからざるの由定めらる、永藤卿奉行として、広橋以下喚ぶの外参るべからざるの由、請文を進らすべきの由仰せらる、仍て面々請文を進らすと云々、条々閑談すと云々、不思儀の事どもなり、

 

 

 「解釈」

 六月一日、晴れ。すべてのことが非常にありがたいことだ。朔日の祝いはいつものとおりである。さて、田向長資朝臣が大納言広橋兼宣のもとよりやって来るつもりだと申すので、出京して伏見に戻ってきた。仙洞女中の一件は、しばらくの間放って置かれていた。しかし、再び事態が動き始めた。禁裏と仙洞の外様小番衆と楽人らは、みな起請文を書かなければならないという。田向長資は禁裏小番衆である。困窮により去年から参上していない。しかし、人数に加えられ、起請文を書かなければならなくなったそうだ。西大路隆富朝臣は昨日書いて進上したという。世尊寺行豊朝臣も大納言広橋兼宣によって起請文を書くように命じられたそうだ。

 

 四日、雨が降った。田向長資朝臣が帰参し、語って言うには、一昨日起請文を書いて進上した。仙洞に祗候の件については、先日「(起請文を書いた者が)院中に祗候することは不適切なことであり、縁起が悪いことだ」とご命令があった。今度は誰も祗候していない。四辻宰相中将季保がこの一件を担当しているので、四辻季保に渡したそうだ。人々の起請文は、仙洞へ取り入れられず、四辻の邸宅にすべて集め置かれたという。起請文を書いた人々は、たとえ当番の日であっても、院中に参上してはならないそうだ。内府洞院満季と徳大寺大納言実盛については、後小松上皇のご意向は、将来に書き残される処置にもなるため、両人に起請文を書かせることは不適切であるので、ご命令になることができない、と室町殿足利義持へ申し上げなさった。しかし、足利義持の考えは許さないというものだったので、徳大寺には起請文を書くというご命令はなかったが、自ら進んで書いて進上したという。洞院満季もきっと同じであろう。綾小路信俊卿は年寄りなので免除なされるだろうと思っていたが、大納言広橋兼宣から、参上しなければならないと申し上げたそうだ。この信俊卿もきっと起請文を書かなければならないのだろう。清華家や年寄りらもみな漏らさない。世にも稀な思いもよらないことである。起請文の題目の書き方は、右衛門佐の局に申し届けていない。概して、今後、禁裏や仙洞の女房たちや女官、官人を犯してならない。そのうち以前に女官らを犯した人には、その女官を犯しおわって以後、同じことをしてはならない。すでにまた数人の子をもうけた人は、起請文を書かなければならない人から除外するということを付け加えたという。中御門中納言入道松木宗量の密通が露顕した。起請文を書く人間であったので逐電した。子息の宗継卿も同罪で、門戸を閉じて蟄居した。中山有親朝臣は僧になって田舎へ下向したそうだ。治部卿橘知興は行方が知れず、逐電した。女中もみな起請文を書いた。ただし、二位殿日野西資子と上﨟〈三条相国公光の息女〉、この両人は書かなかった。二位殿は天皇方がうまく取り計らい申し上げたことにより書かなかった。その妹の廊御方も天皇方が取り計らい申し上げたが、上皇方が許さず、起請文を書いた。上臈は室町殿が少しばかりお手を付けられていたので、人数から除外されたそうだ。それ以外の女中はみな書き終わった。足利義持は大宴会を強行した。そのご内心は、嫌疑の人々が泥酔なさって、もし過失があるなら、それを起請の失として処罰しなさるため、このような大宴会を強行したそうだ。人々の恐怖はこのうえない。本当に前代未聞の思いもよらないことであり、さらに何かが起こる兆しであろうかという。仙洞ではこの間御修法が行われた。このような不都合なことが起きないようにというお祈りであろう。

 

 八日、晴れ。

  (中略)

  庭田重有朝臣が冷泉範綱(か)の邸宅へ立ち寄った。冷泉永基朝臣は仙洞に祗候していた。範綱と閑談した。女中のこと。大納言典侍殿は橘知興朝臣との密通が露顕した。そういうわけで、知興は髻を切って逐電した。右衛門佐は懐妊しておらず、去る五月二十九日にただ逐電したそうだ。この右衛門佐は中山有親朝臣と土岐世保持頼との密通はもちろんのことである。召次の幸末佐も密通したが、後小松上皇のお気に入りだったので、知らないふりをなさって幸末佐にその裁きはなかったという。中御門中納言入道宗量卿は、少し前までは女中との密通はなかった。近頃、仙洞方と親密であった時、二位殿国母日野西資子と密通し申した。今しがた露顕したので、流罪にせよとご命令があった。内々にこの件を伝え聞き申し上げ、すぐに逐電したそうだ。二位殿は不義密通をはたらき、面目ないことだろう。さて、室町殿足利義持が先日院に参上したとき、一位大納言広橋兼宣以下の者が庭先に蹲居することは不適切であり、今後この儀を止めよと仰せになった。また室町殿へ公家近習の人々がたびたび参上して祗候することも不適切である。今後は呼ばれた者以外は参入してはならない、と決められた。高倉永藤卿は担当者として、広橋兼宣以下の者に、呼ばれた者以外が参上してはならないという請文を進上せよ、とご命令になった。そういうわけで、各々が請文を進上したそうだ。一つひとつの事案をのんびりと話したという。思いもよらないことなどである。

 

 

 

【史料2】

  応永三十二年(1425)六月二日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』3─127頁)

 

               (和気)   (和気)(称光天皇

 二日、晴、無殊事、抑聞、医師郷成朝臣子息保成禁裏昵近昼夜奉公、而此間蒙勅勘

       称光天皇

  逐電云々、主上御寵愛女官蜜通露見之間、有逆鱗、失生涯、郷成被懸罪科云々、

 

*割書は〈 〉で記載しました。

 

 

 「書き下し文」

 二日、晴る、殊なる事無し、抑も聞く、医師郷成朝臣の子息保成禁裏に昵近し昼夜奉公す、而るに此の間勅勘を蒙り逐電すと云々、主上御寵愛の女官との密通露見の間、逆鱗有り、生涯を失ふ、郷成に罪科を懸けらると云々、

 

 

 「解釈」

 二日、晴れ。特別なことはなかった。さて、聞くところによると、医師の和気郷成朝臣の子息和気保成は称光天皇に親しく仕え、昼夜を問わず奉公した。しかし、この間勅勘を蒙り、逐電したという。帝ご寵愛の女官との密通が露顕したので、逆鱗に触れ、生活のよりどころを失った。郷成にも罪科が懸けられたそうだ。

 

 

 「注釈」

「召次」

 ─召継。①取次。②院庁・東宮摂関家で雑事をつとめ、時を奏する役の下級職員(『古文書古記録語辞典』)。

 

「幸末佐(こうまさ)」

 ─院の召次久重(『薩戒記』応永三十三年(1426)九月十三日条)。「御壺召次」(上皇の御所の庭の雑役をつとめたり、歌会の時に硯の水を供えたりする者、『日本国語大辞典』)とも記されている(『薩戒記』永享二年(1430)一月十九日条)。桜井英治「『神慮』による政治」(『日本の歴史12 室町人の精神』講談社、2001年、90頁)参照。

 

「中山有親」

 ─応永三一年六月十四日卒(『尊卑分脈』)。事件発覚後、わずか10日で死んでいます。

 

 

*さて、今回の記事からわかることは、密通が判明しているにもかかわらず、起請文を書くことなく不問に付されている人物がいることです。それは、後小松上皇の召次幸末佐、称光天皇の生母日野西資子、三条公光の息女である上﨟です。幸末佐は上皇のお気に入りであったため、罪を免れたのでしょうが、日野西資子は天皇の口入によって、上臈は足利義持との密通関係によって、起請文を書くのを免れています。とくに、上臈に起請文を書かせることになれば、足利義持にも罪が及ぶことをなったでしょうから、それを避けるために不問に付したと考えられます。

 また、室町殿へ公家近習の人々がたびたび参上して祗候することも不適切であるとされ、今後は呼ばれた者以外は参入してはならないと決められました。つまり、呼ばれもしないのに室町亭へ参上する公家がいたことがわかります。いったい、何の目的で、どのような仕事があって参向していたのでしょうか。女房漁りとは言わないまでも、密通につながるような出会いを防ぐために、このような取り決めをしたのかもしれません。

ハーレム内の憂鬱2

  応永三十一年(1424)五月十二日・十五日・十六日・二十日条

                 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─36〜37頁)

 

 十二日、晴、入夜大雨降、行豊朝臣参語世事、仙洞女房事御所中女房達皆御糺明、随

  而卿相雲客十人許ツヽ結番被書告文、三ケ日殿上ニ被召置祗候被守失云々、四辻宰

  相中将告文案持参之間、是失之由被仰、則被追籠、室町殿被執申起請之告有九ケ條

  之法、此案文程の事ハ失念歟、不可為失之由被申宥、有御免云々、男共起請了、女

  中ニ又可被書云々、但二位殿はかりをは自禁裏可有御免之由被申、仙洞ハ只可書之

  由被仰、雖然禁裏再三被申之間御免云々、殿上昼夜祗候之輩、周章之式是非忙然

  云々、前代未聞事歟、

 

 十五日、晴、

  (中略)

  抑仙洞告文事、外様小番衆堂上楽人皆可被書云々、隆富朝臣外様小番衆也、加人数

  可書告文云々、雖無其咎周章之由申不便也、

  (後略)

 

 十六日、晴、

  (中略)

  抑仙洞告文事近習三番衆四十余人已書了、然而猶逆鱗不休、一番衆猶御不審之間、

  起請再返可被書、今度者七ケ日殿上祗候可被守其告云々、凡外様老若悉可被書之由

  御沙汰云々、

 

 廿日、晴、

  (中略)

  仙洞女中猥雑事、一番衆告文再返已書了、三日殿上祗候、無殊失之間、先被

  閣云々、大納言典侍甘露寺被預置云々、彼大納言典侍之姉二位殿局祗候、

  甘露寺青侍男密通、里へ出之時会合云々、露顕之間、青侍男欲召捕之処、彼

  女房相伴逐電畢、依之大納言典侍好色振舞露顕云々、台所別当之局親小兵衛

  督勅勘籠居云々、為局子間被懸其罪、此小兵衛土岐宮内少輔息女也、仍与安

  知音之間、別当密通云々、

 

 「書き下し文」

 十二日、晴る、夜に入り大雨降る、行豊朝臣参りて世事を語る、仙洞女房の事御所中の女房達を皆御糺明す、随ひて卿相雲客十人ばかりづつ結番し告文を書かせらる、三ケ日殿上に召し置かれ祗候させ失を守らせらると云々、四辻宰相中将告文案を持参するの間、是れ失の由仰せられ、則ち追ひ籠めらる、室町殿起請の告に九ケ条の法有るを執り申さる、此の案文のほどの事は失念か、失と為すべからざるの由申し宥められ、御免有りと云々、男ども起請し了んぬ、女中にまた書かせらるべしと云々、但し二位殿ばかりをば禁裏より御免有るべきの由申さる、仙洞はただ書かすべきの由仰せらる、然りと雖も禁裏再三申さるるの間御免と云々、殿上に昼夜祗候の輩、周章の式是非忙然と云々、前代未聞の事か、

 

 十五日、晴る、(中略)抑も仙洞告文の事、外様小番衆・堂上・楽人皆書かせらるべしと云々、隆富朝臣外様小番衆なり、人数に加へ告文を書くべしと云々、其の咎無しと雖も周章の由申すこと不便なり、

 

 十六日、晴る、(中略)抑も仙洞告文の事、近習三番衆四十余人已に書き了んぬ、然れども猶ほ逆鱗休まらず、一番衆猶ほ御不審の間、起請再び返し書かせらるべし、今度は七ケ日殿上に祗候し其の告を守らるべしと云々、凡そ外様老若悉く書かせらるべきの由御沙汰すと云々、

 

 二十日、晴る、(中略)仙洞女中猥雑の事、一番衆の告文を再び返し已に書き了んぬ、三ヶ日殿上に祗候し、殊なる失無きの間、先ず閣かると云々、大納言典侍甘露寺に預け置かると云々、彼の大納言典侍の姉は二位殿局に祗候し、甘露寺の青侍男と密通す、里へ出づるの時会合すと云々、露顕するの間、青侍男を召し捕らんと欲するの処、彼の女房を相伴ひ逐電し畢んぬ、これにより大納言典侍も好色の振舞露顕すと云々、台所別当局の親小兵衛督も勅勘籠居すと云々、局子たるの間その罪を懸けらる、この小兵衛は土岐宮内少輔の息女なり、仍て世保の知音の間、別当局も密通すと云々、

 

 「解釈」

 十二日、晴れ。夜になって大雨が降った。世尊寺行豊朝臣がやってきて世間話をした。仙洞の女房のことで、禁裏の女房たちも全員ご糺明になった。そこで、公卿や殿上人十人ほどずつ、順番を決めて交代で起請文を書かせなさった。三日間院の御所に呼んで祗候させ、その異変を監視させなさったという。四辻宰相中将季保が起請文の案文を持参したので、「これぞまさしく異変である」と仰せになり、すぐに閉じ込められた。室町殿足利義持が、起請の異変に九ケ条の法があるのを後小松上皇にご執奏になった。「今回の案文を提出した件は、四辻季保が正文を提出しなければならなかったことを忘れていたのでしょう。異変だと思ってはなりません」と宥め申しあげなさり、上皇はお許しになったそうだ。男たちは起請文を書き終わった。女中にはまた書かせる予定だという。ただし、二位殿日野西資子だけは禁裏からお許しになるべきだと申し上げなさった。上皇は「ただ書かせなければならない」と仰せになった。しかし、禁裏が再三申し上げなさったので、お許しになったという。宮中に昼夜祗候する人々のあわてふためく様子に、あきれてしまったそうだ。前代未聞のことであろう。

 

 十五日、晴れ。(中略)さて、仙洞起請文の件であるが、外様小番衆・堂上家・楽人はみな書かせられなければならないという。西大路隆富朝臣は外様小番衆である。(起請文を書く)人員に加えられ、起請文を書かなければならないそうだ。密通の咎はないけれども、あわてふためいていると申していることは気の毒である。

 

 十六日、晴れ。(中略)さて仙洞起請文の件であるが、近習三番衆四十人余りがすでに起請文を書き終わった。しかし、依然として上皇のお怒りは休まらず、一番衆についてはさらに御不審であったので、起請文を再び返し、書かせなさる予定である。今回は七日間院の御所に祗候し、起請文の異変を監視されるはずだという。だいたい外様小番衆は老いも若きもみな起請文を書かせられなければならない、とご命令になったそうだ。

 

 二十日、晴れ。(中略)院の女中の猥雑のこと。院中の一番衆の起請文はすでに書き終わっており、再び戻された。一番衆は三日間仙洞に祗候し、たいした起請の失もなかったので、まず彼らは除外されたという。大納言典侍甘露寺家に預け置かれたそうだ。この大納言典侍の姉は、二位殿の局日野西資子に祗候し、甘露寺の青侍の男と密通した。生家へ出かけたときに密会していたという。この件が露顕したので、青侍の男を召し捕らえようとしたが、この女房と一緒に逐電してしまった。この件により、大納言典侍も淫らな振る舞いが露顕したそうだ。台所別当の局の親である小兵衛督も勅勘を蒙り、蟄居したという。台所別当の局は小兵衛督の子であるので、その罪をかけられた。この小兵衛は土岐宮内少輔の息女である。よって、世保土岐持頼の知り合いであったので、別当の局と密通したそうだ。

 

 「注釈」

「外様小番衆」

 ─仙洞外様小番衆。仙洞小番制を専門とした研究はよくわかりませんが、禁裏小番制については多くの研究があります。最近のものでは、井原今朝男「廷臣公家の職掌と禁裏小番制」(『室町廷臣社会論』塙書房、2014)があり、従来の研究をまとめるとともに、新たな事実を指摘されています。この研究によると、小番制には「外様番」と「内々番・御前番・近臣番」の二形態があり、勤務日の多寡によって区別されていたようです。文明11年(1479)土御門内裏への還幸を契機に文亀2年(1502)までの間に、鬼間・黒戸を詰所とする近臣番と、殿上の下侍を詰所とする外様番とに区別されたそうです。小番衆の職務は、昼夜の祗候・警備と和歌・連歌会の開催、禁裏文庫の復興のための書写活動でした。仙洞小番衆の職務も、このようなものであったのかもしれません。

 

「九ケ条」

 ─御成敗式目の追加法七三条(文暦二年閏六月二十八日)に記された「失」の一覧。これについては、清水克行『日本神判史』(中公新書、2010、16頁)で詳しく解説されているので、ここではその要点をまとめておきます。

 告文とは起請文のことで、裁判で有罪か無罪か判断しかねる案件や、双方の主張が真っ向から対立し、どちらが真実であるか容易に究明できない場合、彼らに自身の主張にウソ・偽りがないと宣誓する起請文を書かせ、その後、宣誓者を一定期間、神社の社殿に参籠させて、その間に彼らの身体や家族に異変が現れないかどうかを監視させることを「参籠起請」と呼ぶそうです。

 「失」「告」というのは、参籠中に起きる異変のことで、起請文の内容に違犯している者には神罰・仏罰が当たり、必ず自身の身体や家族に異変が生ずるはずだと考えられていたそうです。

 「九ケ条の法」とは、次のようなものでした。

   ①鼻血が出ること。

   ②参籠中に病気にかかること(ただし、もともとの病気は除く)。

   ③トンビやカラスに尿をかけられること。

   ④ネズミに衣服をかじられること。

   ⑤身体から出血すること(楊枝を用いたとき、生理による出血、痔病は除く)。

   ⑥身内に不幸があること。

   ⑦父親や子どもが犯罪を犯すこと。

   ⑧飲食の際にむせること(ただし、背中を叩かれたほどのむせ方)。

   ⑨普段乗っている馬が死ぬこと。

 

 

*実はこの4年前、応永27年(1420)9月16日にも院侍左衛門二郎が女官と密通し、懐妊させるという事件を起こしています。当初、左衛門二郎はその妻とともに御所から追放されるという寛大な処分を受けただけだったのですが、彼は後小松上皇の勅免をもらおうと考え、とうとう直に上皇に訴えようとしたのです。彼は仙洞の門番衆に召し捕られ、最終的には斬首に処されました(『康富記』応永27年9月16・17日条、『看聞日記』同年9月20日条)。今回の事例では、斬首という厳しい処罰は見えていないのですが、当事者たちは密通が露顕するとすぐに逐電しているので、ひょっとすると死刑を恐れていたのかもしれません。

 さて、こうした密通事件の分析を通して、天皇上皇の女房衆処罰権について言及したのが、井原今朝男「室町戦国期における天皇権力の二面性」(『中世の国家と天皇儀礼校倉書房、2012)です。この研究によると、「室町期の天皇が住む禁裏内での女房は、天皇の家父長制的支配権の下にあるものとして天皇の所有物であったから、処刑することも懐妊させることも天皇の自由であった」そうです。また、後小松上皇称光天皇の凶暴性については、その個人的な気質として語られてきたのですが(桜井英治「神慮による政治」『室町時代の精神』日本の歴史12、講談社、2001、93頁)、むしろ天皇家の家父長制的権力の凶暴性を物語るものだとされています。

 複数の密通が一度に発覚したことによって、怒りのおさまらない後小松上皇は、その他の密通者を見つけるために、仙洞御所に出入りする女官や廷臣たちに起請文を書かせ、交代で三日間、強制的に御所内に詰めさせて、その間に身体に変調が訪れるかどうか監視しようとしました。周囲の者が次々と自分を裏切ってゆくなかで、後小松上皇は哀れなほど猜疑心の虜になっていたようです(清水克行『日本神判史』中公新書、2010、35頁)。

 

*追記

「家父長制」

 ─〔古代〕父ないし家長あるいは伝統的「家」がもつ権威に、家族成員・家内従属民が恭順する体制。法的には父の親権・夫権・主人権・所有管理権などに支えられ、その形態は権威の所在によって多様であり、同じ社会でも階層によって差がある。(中略)現在、家父長制は院政期以降に成立するという説が優勢である(明石一紀)。

 〔中世〕マックス=ウェーバーによれば、「伝統的支配」のもっとも純粋な形態が家父長的支配であるとし、それを成り立たせる要素は伝統の権威・神聖性に対する恭順であるという。さらに、この家父長制の展した類型の一つが家産制であると考えた。(中略)一九八六年(昭和六十一)には「比較家族史学会」に発展した。この学会の当初からのテーマが「家父長制」であり、日本ではじめて学際的検討が行われた。この研究の中で飯沼賢司は中世を中心に家父長制理論を整理検討し、家父長権は父権・夫権・家長権・主人権の四つからなるとした。血縁家族と関係する父権・夫権・家長権の要素に注目すると、中世前期の家族は父・母の親権がイエを統制し、他の権限が未分離であった。それが室町時代になると、父権は夫権の確立によって、親権から分離し、家長権は単独相続制と隠居制の確立によって親権から分離したと考えられる(飯沼賢司)(『日本女性史大辞典』吉川弘文館)。

ハーレム内の憂鬱1

  応永三十一年(1424)五月六日・七日・九日条

                 (『図書寮叢刊 看聞日記』3─35〜36頁)

 

            (後小松上皇

 六日、時々雨灑、只今聞、仙洞祗候女房大納言典侍殿〈甘露寺故大納言兼長卿息

            〔世〕(持頼ヵ)

  女、〉逐電云々、土岐与安密通露顕云々、但定説不分明、与安事自仙洞室町殿

              土岐(土岐持益)

  被訴仰之間、与安逐電了、仍美濃守護被仰、可討伐之由有御下知云々、与安

    〔惣〕

  土岐宗領伊勢守護也、失生涯之条不便也、(後略)

 

                        (資則) 

 七日、晴、聞、大納言典侍懐妊云々、近習人々日野一品禅門以下被書告文、但与安

  密通露顕歟、定説不審、彼局逐電之処、様々被尋被求出、人ニ被預置云々、

 

 九日、雨降、仙洞女房事種々風聞、所詮与安密通台所別当也、〈山徒樹下息女〉

                                 松木

  但与安不限有結縁之人数、御糺明之間、白状申、所謂中御門中納言入道宗量、

     〔知〕(橘)

  治部卿友興朝臣云々、友興則逐電了、台所別当逐電之処、被尋出被預父

  樹下云々、大納言典侍も同前、勿論也、近習卿相雲客被書告文云々、洞中猥雑、

  言語道断事也、希代不思儀歟、

 

 「書き下し文」

 六日、時々雨灑ぐ、只今聞く、仙洞に祗候の女房大納言典侍殿〈甘露寺故大納言兼長卿息女〉逐電すと云々、土岐世安との密通露顕すと云々、但し定説分明ならず、世安の事仙洞より室町殿へ訴え仰せらるるの間、世安逐電し了んぬ、仍て土岐美濃守護に仰せられ、討伐すべきの由御下知有りと云々、世安は土岐惣領伊勢守護なり、生涯を失ふの条不便なり、

 

 七日、晴る、聞く、大納言典侍懐妊すと云々、近習の人々日野一品禅門以下告文を書かる、但し世安の密通露顕か、定説不審、彼の局は逐電するの処、様々に尋ね求め出だされ、人に預け置かると云々、

 

 九日、雨降る、仙洞女房の事種々風聞あり、所詮世保の密通は台所別当なり、〈山徒樹下の息女〉、但し世保に限らず結縁有るの人数を御糺明するの間、白状申す、所謂中御門中納言入道宗量、治部卿知興と云々、知興則ち逐電し了んぬ、台所別当も逐電するの処、尋ね出だされ父樹下に預けらると云々、大納言典侍も同前、勿論なり、近習の卿相雲客告文を書かせらると云々、洞中猥雑、言語道断の事なり、希代の不思議か、

 

 「解釈」

 六日、時々雨が降った。たったいま聞いたところによると、後小松上皇にお仕えしていた女房の大納言典侍殿(亡くなった甘露寺大納言兼長卿の息女)が逐電したという。世保土岐持頼との密通が露顕したそうだ。ただし、真相ははっきりわからない。土岐持頼のことは、後小松上皇から室町殿足利義持へ訴えなさったので、土岐持頼は逐電した。そこで、室町殿は美濃守護土岐持益に仰せになり、討伐せよとご命令になったという。世保は土岐氏の惣領で伊勢国の守護でもある。生活のよりどころを失ったことは気の毒なことである。

 

 七日、晴れ。聞くところによると、大納言典侍が懐妊しているという。近習の人々である日野一品禅門資則らが起請文をお書きになった。ひょっとすると、世保土岐持頼の密通が露顕したのか。真相ははっきりしない。この大納言典侍は逐電したが、様々なところを尋ね捜し出され、人に預け置かれたそうだ。

 

 九日、雨が降った。仙洞の女房のことで様々な噂がある。結局、世保土岐持頼の密通相手は、台所別当日吉社の社家、樹下家の息女〉であった。ただし、土岐持頼以外にも密通した人間をご糺明になったので、(台所別当は)白状した。世間で言われているのは、中御門中納言入道松木宗量と治部卿橘知興だそうだ。橘知興はすぐに逐電したそうだ。台所別当も逐電したので、捜し出されて父の樹下に預けられたという。大納言典侍ももちろん同様である。近習の公卿や殿上人らは起請文を書かせられたそうだ。仙洞御所中の雑然として下品な状態は、とんでもないことである。世にもまれなけしからぬことであろう。

 

 「注釈」

「土岐与安」

 ─世保土岐持頼か。?〜1440(?〜永享十二)。室町時代の武将。伊勢国守護。刑部少輔。大膳大夫。世保康政(土岐康行の子、伊勢守護)の子。正長元年(1428)、伊勢国北畠満雅足利持氏の命により反幕挙兵の動きを示した際、これを幕府に報じた。ついで幕命を受け、同族の美濃守護土岐持益の支援を得て満雅を討ち取った。その後も義教との関係を深め功を積んだが、逆に義教の疑いを受け、永享十二年(1440)五月十五日、大和の出陣先で突然、一色義貫とともに殺された(『鎌倉・室町人名辞典』新人物往来社)。

 ?─1440。室町時代の武将。伊勢国守護。刑部少輔、のち大膳大夫。康政の子。世保氏を称す。応永三十一年(1424)仙洞女房の密通事件に関係して一時伊勢守護を解任されたが、正長元年(1428)北畠満雅小倉宮を報じて挙兵した際再任され満雅を討って伊勢を平定した。永享十二年(1440)五月十六日、国人一揆鎮圧のため大和三輪山麓に滞陣中、将軍足利義教の命を受けた長野氏らに攻められ自害した。竜源寺春岩と号す(『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館)。

 

「土岐持益」

 ─?〜1474(?〜文明六)。室町時代の武将。美濃国守護。右京大夫・頼益の子。応永二十九年(1422)、美濃の守護に任じられ四十三年間在職。その間、正長元年(1428)八月、南朝の遺臣、伊勢国北畠満雅小倉宮後亀山天皇の皇子)を奉じ伊勢で挙兵した際、同国守護土岐持頼を助けて満雅を討った。義持・義教との関係も深く、永享十一年(1439)には侍所頭人に任ぜられた。文明六年(1474)九月七日、六十九歳で没す。法名常祐(『鎌倉・室町人名辞典』新人物往来社)。

 

「告文」

 ─①神に申し上げる言葉を記した文書。宣命体がふつう。②虚偽のないことを神仏に誓い、また相手に表明するための文書。「告文する」といえば起請する意。「告文を捧げ申す」という(『古文書古記録語辞典』)。この場合、密通していないことを表明した起請文のことと考えられます。

 

「山徒樹下」

 ─近江坂本の日吉社の社家の一つ樹下家(『中世寺院社会の研究』思文閣出版、2001)。

 

松木宗量」

 ─従二位前権中納言松木宗宣。応永三十年(1423)二月二十九日出家。法名常祐。五十二歳(『公卿補任』)。

 

「橘知興」─右兵衛(左兵衛)・三河守・治部卿(『尊卑分脈』)。

 

「失」

 ─起請の失。鎌倉時代の訴訟法上の挙証方法。訴訟の当事者が主張を起請文に書き、一定期間(七日間など)神社に参籠し、その間に鼻血が出ること、発病することなどの所定の失(しつ)が現れると、その主張は虚偽であり、失が現れない場合は真実と判定された。起請文の失(『日本国語大辞典』)。

 

「青侍」

 ─貴族の家に仕える身分の低い侍。六位の位袍の色が深緑であるところから出た語という。青年および官位の低い者を称し、「なま侍」というも同意か(『古文書古記録語辞典』)。

 

 

*少々とりとめのない記事になりますが、これから4回にわたって、仙洞御所における密通事件を紹介していきます。密通や密懐という事象にそれほど興味があったわけではないのですが、応永31年(1424)の記事だけで、実に10件もの密通が露顕しており、さすがに驚きました。これまで、貴族の男女関係は比較的自由で、密通関係も黙認されているのかと思っていたのですが、室町時代の後小松上皇称光天皇のときには、かなり厳格に取り締まられていたことを知り、先行研究を調べてみようと思ったわけです。以下の記事で徐々に新たな密通関係が判明していきますが、ここでまとめて示しておきます(「密通関係一覧」)。

 

 まず、世保土岐持頼との密通が疑われた大納言典侍ですが、実際のところは、治部卿橘知興がその相手でした。一方、世保土岐持頼の本当の密通相手は台所別当でした。この台所別当は、大納言典侍と密通した橘知興、称光天皇の母日野西資子と関係をもった松木宗量とも密通していたのです。

 台所別当と関係をもった世保土岐持頼は右衛門佐とも密通し、その右衛門佐は中山有親と院の召次幸末佐(久重)とも関係をもっていました。

 その他に、室町殿足利義持と上臈(三条公光の息女)、医師和気保成と称光天皇の女官、正親町三条実雅と一条局(日野盛光の息女)も密通関係にありました。

 以上、6年間で都合12件の密通が発覚しています。この密通件数が多いのか少ないのかよくわかりませんし、なぜこの時期に一挙に露見し、問題化したのかもわかりません。また、バレなかっただけで、実はもっと多くの密通関係があったのかもしれません。

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 ところで、宮女(宮廷に仕えた女性)が廷臣たちと密通することのどこに問題があったのでしょうか。まずは、宮女がどのような存在であったのかを確認してみたいと思います。参考になるのが、奥野高廣「室町時代の皇室御経済運用機関」(『皇室御経済史の研究』正篇、国書刊行会、1982、初版1942)、「宮女」(『戦国時代の宮廷生活』続群書類従完成会、2004)です。後ほど、後者の研究内容をそのまま提示しますが、ここでは簡単に概要をまとめておきます。

 まず、宮女とは、宮廷の奥御所(内廷)に仕えた女性のことで、常に天皇の側近にいて、奏請・伝宣・陪膳・経済などの任務に携わっていました。また、位の高い上臈・典侍・内侍、命婦たちのなかには、皇子・皇女の生母となっている人も少なくありませんでした。とくに上臈や典侍は、平安朝の初めから天皇の正妃と同じようにお伽に侍したのですが、室町時代では立后がなかったので、上臈や典侍たちは皇室の一員と考えてよいそうです。

 この指摘を踏まえると、今回の密通事件の問題点が見えてきます。密通の当事者になった女性たちは、単なる仙洞御所の職員だったというだけでなく、後小松上皇のお伽を務めていた、あるいは務める可能性のあった女性たちであり、それを廷臣が寝取ったために、大きな問題になったと考えられそうです。

 それにしても、当事者たちは揃いもそろって、みな逐電しています。バレたら逃亡…。これが当時の慣習だったのでしょうか。

 

 

*追記

「廷臣」

 ─禁裏と室町殿の両者を権力基盤にして、公家官人の身分秩序を超えて活躍した特権貴族・官人層のこと(井原今朝男「廷臣公家の職掌と禁裏小番制」『室町廷臣社会論』塙書房、2014、271頁)。

 

「宮女」(奥野高廣『戦国時代の宮廷生活』続群書類従完成会、2004)

  第一節 宮女について

 宮女(『運歩色葉集』)すなわち宮廷の奥御所(内廷)に仕えた女性は、常に天皇の側近にあっただけでなく、戦国時代には、天皇の正妃に準ずる地位にあった人々とか、皇室経済を管理した人もあって、女性史の上からも高く評価されねばならない。

 内廷には、内侍司(ないしのつかさ)・蔵(くらの)司・書(ふみの)司・薬(くすりの)司・兵(つわものの)司(内廷の兵器管理)・闈(みかどの)司(門の鍵を管理)・殿(主殿寮と同じ)司・掃(かにもり)司(掃部寮と同じ)・水(もいとり)司(主水司と同じ)・膳(かしわでの)司(内膳司と同じ職掌)・酒(みきの)司(造酒司と同じ)・縫(ぬいの)司の十二司(十二の官庁)があって、その官人は中国の唐の官制をまねて、いずれも尚(かみ)・典(すけ)・掌(じょう)・の三字で長官・次官・判官を示す。例えば殿司には、尚殿・典殿・女嬬の職員があった。しかし内侍司・典司・掃司以外の九司は、後に廃絶し、闈司などは儀式の時においたにすぎない。

 内侍司には尚侍二人・典侍四人・掌侍(内侍)四人・女嬬百人があって、天皇に常侍して奏請(天皇に申し上げる)とか、伝宣(天皇の意思を伝える)のことに当たった。神鏡(皇位のしるしの八咫鏡)奉安の場所に内侍などが常に伺候しているため、内侍所の名称が起こるけれど、鎌倉時代になると内侍は、もう後宮の局(部屋)に移っていた。また尚侍の官は戦国時代にはなく、典侍が長官である。しかし上臈は、二位とか三位で典侍の上位であるから、室町時代の上臈は、尚侍と同じ地位にあったろう。

 宮女には、位の高下で上臈・小上臈・中臈・下臈の区別があった。大臣や大中納言の女であって、二位・三位の典侍を上臈といい、公卿(大臣・大納言・中納言・参議で三位以上の人)や四位・五位の殿上人(清涼殿の南の端の殿上に昇れる人)の女を小上臈とよび、諸大夫(しょだいぶ・五位の人)・和気氏・丹羽氏・勘解由小路家・土御門家などの女を中臈・諸侍(摂政大臣の家人)や賀茂・日吉社などの社司の女を下臈とした。そして上臈・中臈・下臈の宮女を総称して女房という。大宝令の制では、五位以上の宮女を内命婦(うちのみょうぶ)とし、五位以下のを外命婦(げみょうぶ)といったが、のちには中臈の女房を命婦とよぶ。

 「上臈」には東御方(ひがしのおんかた)・南御方・廊御方・対御方・御妻・一条殿・二条殿・三条殿・近衛殿・冷泉殿・春日殿・坊門殿・堀川殿・高倉殿・大宮殿・京極殿などの称号があり、

 「小上臈」には四条・五条・六条・大納言・按察使・民部卿中納言・帥・左衛門督・別当・兵衛督・大蔵卿・刑部卿・治部卿・宮内卿兵部卿など、

 「中臈」には小宰相・小督(こごう)・小兵衛督・中将・少将・左京大夫(たいふ)・左衛門佐などの称号、

 「下臈」には侍従・小侍従・少納言・少弁などと、伊予・播磨・丹後・周防・越前・伊勢・尾張・美作・備後・甲斐・下野・筑前などの国名がつく(室町将軍の奥座所に仕えた女性の呼名も宮廷のまねをしている。『大上臈御名之事』)。

 戦国時代には、内侍司・殿司・掃司の宮女以外に、女蔵人・御匣殿蔵人二名・内教坊・女史(おんなふびと)・掌縫(しょうほう)・主殿女嬬(とのものにょじゅ)・水取・采女・得選(とくせん)・刀自(内侍所・御厨子所などに勤める)・女嬬・女官(にょうかん・御湯殿などに勤める)・下女などの宮女が勤めていた。長女(おさめ・下女の長だろう)・樋洗(便器を洗う)・厠人(便器を取扱う)などもいたであろうが、その証拠はない。

 

  第二節 戦国時代の宮女

 宮女でも命婦以上は局をもつが、それ以下は御末とか局に属して、使役された。そのあらましは次のようである。

 上臈局 女房や、皇室領の伊勢栗真荘(くるまのしょう)から出した仕丁一人を召使っている。

 乳人 天皇親王・皇子・皇女に乳人があった。そして「御乳人局官女小茶」などの名前もみえる。

 大典侍局 あや・あちやち・茶々などの召使があった。

 新大典侍局 才・阿茶々・あここなどが勤めていた。

 長橋局 小督・あやや・茶々・あかか 右京大夫・やや・鶴・あここ・いと・阿茶・五位・下女若狭・阿五・御万などが各時点において勤めている。

 新内侍局 いちや・あかか・阿五々などの名がみえる。

 播磨局 今参・あやなどの宮女がいた。

 伊予局 小少将・さい・阿茶々・阿五・御万とか、児も新参している。

 女嬬 女嬬職掌の一つは掌灯を置くことであったが、その人員はよくわからない。天文十五年(一五四六)二月には、京都清水寺目代円陽院宗澄の女が姉と代わり、またその妹も女嬬を勤めるようになった。

 お末 宮女らの食事や廷臣などに下さる酒饌の調進をした場所が台所で、お末などがそこに勤めていた。とを・薄以緒の室・かか・たと・あかか・阿茶・梅などの名がみえる。総人員はわからないが、『言継卿記』には二、三箇処にわたり末衆五人とあるから、これが全員かもしれない。

 女官 記録類に官女と書いてあるのは、宮女の広称と女官の場合とがあった。『御湯殿上日記』元亀三年(1572)正月三十日の条には、「ありなか(土御門有脩)御みかため(身固)まいる、いつものことし、きちやう所に御ふく(服)おかれる、申つきねうくわん(女官)する」と書いてある。「たと」や「ほた」は女官であったらしい。

 御下 下仕のことで、雑役を勤めたのであろう。天文八年(一五三九)三月には、近江国日吉神社社家の女が御下(おしも)になった。日吉社祠官の女が、宮廷に奉仕することは江戸時代にもつづく。なお『御湯殿上日記』天正十五年(一五八七)九月一日条などに見える「御物し」はお服の裁縫などを司ったものである。

 下女 御下と同じように雑役を勤めたものであるらしい。

 得選 二人であった。御厨子所に奉仕する。

 禁中に常住している宮女の総員についてはよくわからないが、五、六十人ほどであろう。

 掌侍以上の任命には宣旨(外記や弁官から出される公文書)がでた。上臈は天皇が代わるとともに、二位に叙せられ、典侍は五位であるが、御代替とともに多くは三位に叙せられ、勾当内侍は職をやめると、典侍に任ぜられる慣例である。

 典侍の上席の者は、宮女を監督していた。そして勾当内侍でも宮廷では、足袋をはくことができない。

 

  第三節 宮女の職掌

 宮女には、天皇に常侍したのと、内侍所に勤めたものとがある。天皇に常侍したのは、上臈・典侍・内侍であり、内侍所に常時仕えたのは、一采女(いちのうねめ)以下刀自・女嬬であった。そして天皇の側近に仕えた宮女は、奏請・伝宣・陪膳・経済などの任務をもつ。

 奏請・伝宣 上臈・典侍掌侍は、天皇の側近にあって、勅旨の伝宣にあった。

 陪膳 宮女は朝御物や御拝・御湯殿の儀・御手水などに奉仕し、そして陪膳を勤めた。宮女が支障のときには廷臣に命じたこともある。この陪膳は晴儀と平常とで区別がある。

 そして専ら陪膳をつとめたのは采女であった。戦国時代でも内侍所の阿子は、一采女を兼任している。『御湯殿上日記』永禄十三年(一五七〇)二月一日の条には、

  けふはないし所のさい(才)心わろきとて、あさかれいまいらす、

 とあって、采女が陪膳を勤めたことがわかる。ただそれは儀式とか一日などの場合で、平生は典侍などであろう。また御厨子所の女官で、采女から選ばれた得選が勤めたこともある。御飯を調進したのは櫃司(ひつかさ)という二人の女性であったことは別に述べる。

 また上臈・典侍・内侍または命婦のうちには、皇子・皇女の生母となっている人が少なくない。ことに上臈や典侍は、平安朝の初めから天皇の正妃と同じようにお伽に侍したが、室町時代では、立后のことがなかったから、上臈や典侍は宮女だが、皇室の一員と考えられよう。

 勾当内侍つまり長橋局(第一編第二章「皇居」の項参照)は、皇室経済運用の実務に当たった。その例を一、二あげてみよう。

 一、皇室領から年貢などの納まったときの請取状は、長橋局が出している。また禁裏内の金銭を納めた倉庫を管理した。

 二、御倉職などから融通させたときには、長橋局が借状を出す。

 三、支出金は長橋局の手をへる。

 四、御服の調達を司った。『御湯殿上日記』天正十五年(一五八七)七月二日の条に「くこの御ふく一かさね、なかはしよりまいる」などとある。

 五、そして長橋局で、このような実務に従ったのは右京大夫(実名は不明)であった。右京大夫のうちには十八歳で初参し、八十八歳まで務めたものもある。

 供御調進 供御について宮女の職掌は前にのべた。

 内侍所奉仕 内侍所で神鏡に奉仕したのは、采女以下の女性であった。室町時代の主な人員は十九人ほどである。そして、一采女を勾当といい、天正九年(一五八一)には長橋局が内侍所別当を兼ねている。内侍所勤務の人員は、刀自・博士命婦二人・掃部のいち・女嬬などで構成される。

 宮女のうちには、一生を宮廷に仕えた人も少ないくないが、職を退いて家庭生活に入ったものもある。

 

  第四節 宮女の風俗

 当時の女性が宮廷に出仕した動機は、皇室の勧誘によるものと、志願したものとがある。

石井文書(石井昭氏所蔵)4

    四 石井賢家合戦手負注文(切紙)

 

 (證判)     (大内義長)

 「一見畢、    (花押)」

 石井蔵人賢家謹而言上

 欲早賜 御證判後代亀鏡軍忠状之事

 右、去年〈天文廿貳〉、至石州、吉見大蔵少輔正頼要害御取懸之時、被疵之

 次第、備左、

 去年八月二日於三本松固屋口〈石疵左膝〉

    同六月十三日郎従寺地弥太郎矢疵二ケ所〈右肩左腕〉

    去年十二月廿二日於野坂僕従助左衛門太刀討、同日僕従五郎左衛門

    矢疵〈壱ヶ所左脚〉

    去八月二日僕従三郎兵衛〈石一ヶ所左腕〉

    同日僕従三郎左衛門〈矢疵一ヶ所左股〉

      以上

      (1554)

      天文廿三年九月二日      賢家(花押)

       (晴賢)

      陶尾張守殿

 

 「書き下し文」

 (証判)      (大内義長)

 「一見し畢んぬ、  (花押)」

 石井蔵人賢家謹んで言上す

 早く御証判を賜り後代亀鏡に備へんと欲する軍忠状の事

 右、去年〈天文二十二〉、石州に至り、吉見大蔵少輔正頼の要害に御取り懸かるの時、疵を被るの次第、左に備ふ、

 去年八月二日三本松固屋口に於いて〈石疵左膝〉

  (後略)

 

 「解釈」

 「承認しました。」

 早く大内義長様のご証判をいただき、のちの証拠として役立てようとする軍忠状のこと。

 右、去年〈天文二十二年〉に石見国に出陣し、吉見大蔵少輔正頼の城に攻め掛かりなさったときの、我々が負傷した有様を、左に書いておく。

 去年八月二日、三本松の固屋口で、石を投げられ、左膝に疵を受けた。

  (後略)

 

 「注釈」

「吉見正頼」─1513〜1588(永正十〜天正十六) (弥七・三河守・大蔵大

       輔・周鷹)石見津和野城主。頼興の五男。もと津和野興源寺の僧で周鷹

       と称したが、長兄頼隆の死去により天文九年(一五四〇)、還俗。家督

       を継ぎ、大内義隆の娘大宮姫を妻として大内氏に属す。のち陶晴賢が大

       内義隆を滅ぼして大内氏領国を把握したのに対し、同二十二年、陶氏打

       倒を目指して挙兵。弘治元年(一五五五)、再挙兵のときは毛利氏に呼

       応、晴賢を滅ぼす。その後は毛利元就に属し、長門阿武郡など一万五千

       石を領有。天正十三年(一五八五)ごろ萩の指月に隠居。同十六年閏五

       月二十二日、同地で死去。七十六歳(『戦国人名事典』新人物往来

       社)。

「三本松」─現津和野城跡(津和野町後田)。城山(霊亀山)山塊の南端、標高三六七

      メートルの山上に築かれた山城。中世の吉見氏時代は一本松城・三本松城

      と称した。別に蕗城、槖吾(つわぶき・たくご)城ともいう。国指定史

      跡。永仁三年(一二九五)吉見頼行が築城したと伝え、吉見氏代々が本拠

      としたが、関ヶ原合戦後、慶長六年(一六〇一)坂崎直盛(成正)が当城

      に入り津和野藩三万石を領し、城郭を改修した。坂崎氏改易後の元和三年

      (一六一七)には亀井政矩が入り、政矩および同氏代々が寛永─元禄年間

      (一六二四─一七〇四)にかけて城下町を拡張整備し、明治四年(一八七

      一)まで城主として居住した。

      〔吉見氏時代〕史料とするには疑問が多いが、吉見隆信覚書(下瀬家文

      書)によれば、二度目の蒙古襲来後の弘安五年(一二八二)に鎌倉幕府

      ら西石見の海岸防備を命じられた吉見頼行が、能登から海路石見国に至

      り、まず木部の木園(木曾野)に居住。その後永仁三年に城山の地を選び

      一本松城の縄張りを始め、二代頼直の正中元年(一三二四)に完成、嘉暦

      二年(一三二七)に木園から館を移したという。城山は麓を流れる津和野

      川が西麓から南端を回って大きく北に屈曲し、西・南・北を囲み、天然の

      内堀を形成していた。また東の津和野盆地、西の高田・喜時雨(きじう)

      の両盆地の外周をかなり高い山々が囲んでおり、防御上の適地であった。

      この段階の城は、現鷲原八幡宮裏の丘陵突端から北に続く丘陵に削平地を

      設けたもので、西側を大手とし、吉見氏は丘陵の西側の喜時雨に館を構え

      たと推定されている(津和野町史)。戦国期には三本松城と称し、奥ヶ野

      の御岳城、中組の徳永城や下瀬山城(現日原町)、三之瀬城(現柿木

      村)、能美山城・萩尾城(現六日市町)など多くの支城や砦をもってい

      た。

      天文二〇年(一五五一)九月に陶隆房(晴賢)が大内義隆を倒し、大内義

      長を擁立して実権を掌握すると、吉見正頼は夫人が義隆の姉であることも

      あって、陶晴賢・大内義長と対決する道を選んだ。そして同二十二年五月

      には下瀬左京助を安芸吉田郡山城(現広島県吉田町)に遣わして、毛利元

      就との連携を強めた(五月二十三日「上瀬休世書状」閥閲録)。晴賢・義

      長方は同二十三年三月、当城を包囲する態勢を固め、これに呼応した益田

      氏も下瀬山城を包囲して当城との連絡を絶った。同年の春から秋にかけて

      「喜汁原」や「三本松本郷表」「坪尾小屋」などにおいて、戦闘が断続的

      に続いた(天文二十三年四月二十一日「益田藤兼感状」俣賀文書など)。

      陶晴賢は、津和野川の対岸で後ろを見下ろす鷲原の段原山に本陣を置いた

      といい、陣跡には陶ヶ嶽、津和野川の渡河点には戦(幾久)という古称が

      残る(津和野町史)。天文末年の段階では、当城は北方の尾根上に、ピー

      クを選んで点々と曲輪が設けられたようで、小規模な堀切が確認できる。

      当城の北限は三本の大規模な堀切が設けられていた千人塚の谷奥までとみ

      られる。南限は鷲原八幡宮裏の丘陵突端の中荒城である。ここは陶方の

      攻撃を最も受けやすい地点であったと考えられ、起伏を拾って曲輪を重ね

      ている。このうちで最大規模の曲輪群は標高三四三メートルの地点を主郭

      とするもので、西方の喜時雨側の尾根にも曲輪群を延ばして防御としてい

      る。吉見正頼は、長期間の籠城に耐えきれず、天文二十三年八月末に室町

      幕府の計らいで、尼子氏の斡旋によって、陶晴賢・益田藤兼との和議に応

      じ、三本松城を開城した。毛利元就・同隆元軍が、九月十五日安芸の折敷

      畑合戦で陶方を大破し、翌弘治元年(一五五五)十月一日の厳島合戦で陶

      晴賢を敗死させたので、正頼は山口に向けて進撃を開始し、大内義長を自

      刃させた。吉見氏は以後毛利氏に臣従し、当城を拠点として、鹿足郡全域

      (野々郷・吉賀郷)と長門国厚東郡に置いて一万五千四百五十石余を領し

      た(毛利氏八箇国時代分限帳)(『島根県の地名』平凡社)。