周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

竹の中からトクトクと… ─竹取物語の変異譚 part2─(The power of Vaiśravaṇa)

  永享八年(1436)七月五日条

        (『図書寮叢刊 看聞日記』5─296頁)

 

 五日、晴、入夜雨下、自公方五色二籠・酒蘸十桶・沸出酒小棰一給、件酒河内国

       〔者〕〔沙〕

  住人窮困之物毘舎門祈請、為其利生竹切、中より酒沸出、又味噌も涌出

  云々、(後略)

 

 「書き下し文」

 五日、晴る、夜に入り雨下る、公方より五色二籠・酒蘸十桶・沸出酒小棰一つを給はる、件の酒は河内国の住人窮困の者毘沙門に祈請し、其の利生として竹を切るに、中より酒沸き出で、また味噌も湧き出づと云々、

 

 「解釈」

 五日、晴れ。夜になって雨が降った。公方足利義教から、五種類二籠の食べ物、酒漬け十桶、湧き出し酒を小さな樽に一ついただいた。この酒は、河内国の住人で貧しい者が毘沙門天に祈願し、そのご利益として竹を切ったところ、竹の中から酒が湧き出し、また味噌も湧き出したという。

 

 It was sunny on July 5. It was rainy at night. Shogun Ashikaga Yoshinori sent me food and drink. This liquor has the following episodes. I heard that the sake sprang out of the bamboo when a poor man in Osaka prayed to Vaiśravaṇa (Bishamonten) and cut the bamboo. I heard that miso sprang out of it too.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「酒蘸」─未詳。酒に漬けた食べ物か。

 

 

*以前に紹介した「壬生閻魔堂のかぐや姫」に続き、これも『竹取物語』の変異譚になるでしょうか…。竹の中から黄金がザックザクではなく、ジャブジャブと酒や味噌が湧き出てきました。何でも構わないので、ウチの竹林からもそんなありがたい賜り物が出てきてほしいものです。

 それにしても、なぜ竹の中から黄金や酒、味噌などのありがたいものが湧き出してくるのでしょうか。実は、竹には次のような神秘的なイメージがあったと考えられています(斉藤研一「石女地獄について」『子どもの中世史』吉川弘文館、2003年、初出2000年、207〜209頁および注釈参照)。竹の中の空洞には何かが宿っており、そこでは何らかの変身(変生)が成し遂げられるという普遍的な心性があったそうです。また、竹はその成長の速さや繁殖力から、繁栄や繁盛のシンボルでもあったそうです。

 毘沙門天のご利益(エネルギー)が竹の中に宿り、貧困者を豊かにする酒や味噌(物質)に変成した。中世では、このような理屈ができあがっていたのかもしれません。

唾液フェティシズム (Saliva fetishism)

  永享八年(1436)三月二十七日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』5─255頁)

 

            (土御門)

 廿七日、晴、(中略)陰陽師有重参、霊気祭今月仕事之間、禁裏申沙汰、仍是へも

  持参之由申、四半紙十三枚鶏一羽つヽ書、是御唾被吐懸可給之由申、一年中

  閏月まて十三羽云々、此祭当家ならて相伝之由申、吐唾返遣、太刀一被下、

  不及対面、(後略)

 

 

  同年十二月三十日条        (『図書寮叢刊 看聞日記』5─352頁)

 

 卅日、晴、(中略)有重朝臣参、対面、身固申、一年中霊気祭御祈申、御身触之物可

  給之由申、御服練貫、一給、新暦八卦等献之、(後略)

 

 

  永享十年(1438)三月二十一日条

                   (『図書寮叢刊 看聞日記』6─134頁)

 

          (土御門)

 廿一日、晴、(中略)有重朝臣参、霊気祭鶏持参、祓之返給、御剣一被下、対面御

  身固申、(後略)

 

 

 「書き下し文」

 (三月)二十七日、晴る、(中略)陰陽師有重参る、霊気祭今月仕る事の間、禁裏に申し沙汰す、仍て是れへも持参するの由申す、四半紙十三枚に鶏一羽づつ書き、是れに御唾を吐き懸けられ給ふべきの由申す、一年中閏月まで十三羽と云々、此の祭は当家ならでは相伝せざるの由申す、唾を吐き返し遣はす、太刀一つ下さる、対面に及ばず、(後略)

 

 (十二月)三十日、晴る、(中略)有重朝臣参り、対面す、身固し申し、一年中霊気祭を御祈り申す、御身に触るるの物給ふべきの由、御服練貫一つを給ふ、新暦八卦等之を献ず、(後略)

 

 (三月)二十一日、晴る、(中略)有重朝臣参る、霊気祭の鶏を持参す、之を祓ひ返し給ふ、御剣一つ下さる、対面し御身固し申す、

 

 

 「解釈」

 三月二十七日、晴れ。陰陽師の土御門有重が参上した。今月は霊気祭を執行するときなので、朝廷で祭を執行した。それで、こちらへも四半紙を持参すると申してきた。有重は、四半紙十三枚に鶏を一羽ずつ書き、それにあなた様の唾を吐きかけてください、と申した。一年十二ヶ月と閏月までを合わせて十三羽だという。この祭は当土御門家だけが相伝してきたと申した。唾を紙に吐いて送り返した。(私は褒美に)太刀を一つお与えになった。対面はしていない。(後略)

 

 

 十二月三十日、晴れ。(中略)土御門有重が参上し、対面した。有重は祈祷し申し上げ、この一年の安全を祈る霊気祭を執行し申し上げた。あなた様のお体に触れたものをお与えください、と申すので、私は絹織物の服一つをお与えになった。有重は新暦八卦などを献上した。

 

 三月二十一日、晴れ。土御門有重朝臣が参上した。鶏が書かれた霊気祭の紙を持参した。これを祓い、お返しになった。(私は褒美に)太刀を一つお与えになった。有重は私と対面して祈祷し申し上げた。

 

 It was fine on March 27th. Tsuchimikado Arishige (the Yin-yang master) visited me. He held a reiki festival at the Imperial Palace. And he tried to hold a festival here too. He drew a chicken on each of thirteen pieces of paper. And he said to me, "Please spit on the paper." A total of twelve months and Undecimber is thirteen. He said only the Tsuchimikado family could hold this festival. I spit on thirteen pieces of paper and sent it back to him. I gave him a sword as a reward.

 

 

 「注釈」

「霊気祭」

 ─病気その他直接身体の障害や危険を取り除き、悪霊の祟りを防ぐもの(村山修一「鎌倉武家社会の陰陽道」『日本陰陽道史総説』塙書房、1981、310頁)。

 

「身固」

 ─身体が丈夫になるように、加持や祈祷をすること。また、そのような祈祷やまじない(『日本国語大辞典』)。

 

*この記事については、前掲村山著書(「室町期公武社会の陰陽道」356頁)で検討されているので、その箇所を引用しておきます。

 

 興味あるのは、上記有重が今月霊気祭を禁中のために執行するに際し、親王のためにも同じ祭りを奉仕したいといって来、それについて四半紙十三枚に鶏を一羽宛書き、是に唾を吐き掛けて賜りたいと求め、十三枚は一年十二月と閏月を合わせたもので、求めに応じ十三羽にすべて唾を掛けて親王は有重に半紙を返された。一体この紙をどのように祭るのか明らかではないが、有重の家のみの秘伝としている。霊気祭は古くから行われているが、秘伝と称し、陰陽師各自の流儀をいれて特色を出すことを競っていたのだろう。

  

 鶏の絵を描いた四半紙を十三枚用意し、それに唾を吐きかける。祭の詳細はさっぱりわかりませんが、妙な風習があるものです。そもそも、なぜ鶏を紙に書くのでしょうか。どうやら、鶏には「魔を除け、疫病を払い、死を防ぎ、悪を避ける霊力を有するという信仰」があったそうです(葉漢鰲「昔話『桃太郎』の原像 ─雉・鶏の民俗信仰論─」『台湾日本語文学報』22、2007・12、180頁、http://taiwannichigo.greater.jp/pdf/g22/pb06youkangyo_ye_.pdf)。

 では、なぜ唾を紙に吐きかけるのでしょうか。唾自体にどのような意味があったのかはっきりしませんが、人間の罪穢や人間に害をなす鬼魅を唾に託し、それを吐くことで払うという風習が、古代からあったそうです(出口米吉「唾を祓除に用ゐる習慣につきて」『人類学雑誌』27─5、1911年、265・268頁、https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/27/5/27_5_263/_pdf/-char/ja)。おそらく、人体から吐き出された唾は、その人の代替物とみなされたのでしょう。穢や災厄を負った唾を吐きかけた紙は、その人物の代わりとして処分されたか、清め祀られたのではないでしょうか。まさに唾液フェティシズム。唾を言語によって記号化(象徴化)し、それに特別な意味をもたせ、それを忌避したり欲望したりする。中世びとも現代人と同じように、フェチ意識が強かったのかもしれません。

 なお、「フェティシズム」については、坂田登「セクシュアリティのエチカ(2)」(『福井大学教育地域科学部紀要』第I部人文科学(哲学編)、47、2007・12、https://karin21.flib.u-fukui.ac.jp/repo/BD00001818_001_cover._?key=QYIOTU)と、「自殺の中世史 21 ─分析視角・課題・展望 その4─ 」を参照。

 

 Imperial Prince Sadafusa drew chicken on thirteen pieces of paper and spit saliva on it. I do not know the details of Reiki Festival, but this is a strange custom. Why did he draw chicken on paper? Apparently, it is said that the chicken has the spiritual power of amulet (180 pages, http://taiwannichigo.greater.jp/pdf/g22/pb06youkangyo_ye_.pdf).
 So why did he spit on paper? In ancient times in Japan, it was said that there was a custom of putting human sins and evil spirits that harm us on the saliva and throwing it away (265, 268 pages, https: //www.jstage .jst.go.jp / article / ase 1911/27/5 / 27_5_263 / _pdf / -char / en). Presumably, saliva exhaled from the human body was considered as a substitute for that person. I think that the paper that they spit saliva containing sins and disaster on has been disposed of as a substitute for that person, or purified. Just salivary fetishism. People in the Middle Ages gave special meaning to saliva by language, and they hated or desired it. They may have had a strong sense of fetishism.

 In addition, about "fetisism", Noboru Sakata "Ethica of sexuality (2)" ("Fukui University Education and Area Science Bulletin" Part I Humanities (philosophical edition), 47, 2007. 12, https: //karin.21 See flib.u-fukui.ac.jp/repo/BD00001818_001_cover._?key=QYIOTU) and "Study of suicide in Medieval Japan 20".

 (I used Google Translate.)

 

 

*2022.4.17追記

 この史料を解説した研究書を見つけたので、引用しておきます。

 

  高橋昌明「〈補説2〉 鶏と雷公(頼光)」

    (『定本 酒呑童子の誕生』岩波書店、2020年、60頁)

 

 伏見宮貞成親王の所に陰陽師安倍有重がやって来て、今月霊気祭を執行しているが、禁裏の意向で親王の所でも同じ祭を奉仕することになった、ついては一三枚の四半紙に鶏を一羽宛画いたものを持参したので、唾を吐きかけて欲しいと申した。一三枚は一年一二カ月とこの年の閏月(閏五月)分を合わせたもので、求めにしたがい、唾を吐きかけて有重に返した、というのである。その二年後の永享一〇年三月二一日条にも、「有重朝臣参る、霊気祭の鶏を持参す、これを祓し返し給ふ」の記事がある。

 霊気はリョウゲと訓み、生霊や死霊の類、モノノケやツキモノの意で、病気や身体の危険をもたらす。これを取り除き悪霊の祟りを防ぐのが霊気祭で、名こそ違え鬼気祭や泰山府君祭・天曹地府祭などと、ほとんど同種の祭である。それに毎月一枚画鶏が使われていることがわかり興味深い。

 さらに「これを祓し返し給ふ」によって、唾吐きが祓いにかかわる呪的行為だったように読める。唾は、中国では人間の気(生命力)と類縁性の強いものとされ、唾するという動作も、呪文との併用によって、病気を治癒する力、異常を正常にもどす力として作用する、と考えられた。日本でも唾を吐きかけることは「相手の呪力を禊ぎ同様に消すための呪術」といわれる。陰陽師は、画鶏に唾を吐きかけさせることによって、ケガレや災厄を撃退する効果を増幅させることをねらったのではないか。

竹林寺文書(小野篁伝説) その1

解題

 詞書と絵を交互に描いた縁起上下二巻があり、この寺の由来を述べている。小野篁にゆかりのある真言宗の古刹である。

 竹林寺子院の一乾蔵房の本尊であった地蔵菩薩半跏像の胎内には建武五年(1338)造立になる旨の墨書がある。また、本堂の須弥壇内の板には天文十四年(1545)造立の墨書があり、ともに付録(1180頁)に収めた。

 

 

 「竹林寺」(『広島県の地名』平凡社より)

 現河内町入野。篁山山頂付近にあり、篁山と号し、真言宗御室派。本尊千手観音。寺蔵の紙本著色竹林寺縁起絵巻(室町時代の作、県指定重要文化財)によると、入野郷に奇瑞を現す山があり、天平二年(730)夏、行基がこの山を訪れ、山上の光り輝く桜樹で千手観音を刻んで本尊とし、桜山花王寺を建立したという。この縁起はおもに上巻は当寺の申し子という小野篁の伝、下巻は篁の冥府勤仕の話からなり、寺号の縁由を小野篁に結びつけている。矛盾するところも多いが、応安四年(1371)今川了俊の記した「道ゆきぶり」に「安芸国沼田の里を越えて、入野といふ山里を通り侍るに、此所は、昔小野篁の故郷とて、やがて篁とも小野とも申侍るとかや、大なる山寺あり」と記し、篁生誕との伝説があったことが知られる。

 境内には本堂(国指定重要文化財)・護摩堂・十王堂・鐘楼・宝蔵・庫裏などがあり、北の中河内側からの参道もある。入野(にゅうの)に乾蔵坊・小野寺・南光坊満願寺中河内甘露寺などの子院があったが、今は小堂などを残す。乾蔵坊の本尊と伝える木造地蔵菩薩半跏像(県指定重要文化財)の胎内墨書銘に「建武五年戊寅六月日、大願主知心敬白」とあり、本堂須弥壇内面墨書銘乃美村には「天文拾四年乙巳八月三日」とある。本堂前庭にある七重石塔は享禄三年(1530)、供養碑は永正十一年(1514)の刻銘があり、名井光叶の造立。また当寺の三重塔は、現在東京都の椿山荘へ移されている。本堂南西のやや小高い場所にある鐘楼付近からの眺望は広大で、西は西条盆地、東は沼田川河口、南は瀬戸内海の島々や四国山地を遠望できる。

 

 

    一 安芸国豊田郡入野郷篁山竹林寺縁起 その1

 

*送り仮名・返り点は、『県史』に記載されているものをそのまま記しています。ただし、大部分の旧字・異体字常用漢字で記載し、割書は〈 〉で記載しました。本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。なお、森下要治監修・解説『篁山竹林寺縁起』(広島大学デジタルミュージアム・デジタル郷土図書館、http://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/portal/dc/kyodo/chikurinji/top.html)に、竹林寺や縁起絵巻の情報が詳細に紹介されています。書き下し文や解釈はこれを参照しながら作成してみましたが、わからないところが多いです。

 

 

 大日本国芸州豊田郡入野郷篁山竹林寺之縁起事

 

    ハ     ノ        ト   ノ  トリノコホリイエ  ノコウノ

 抑当寺者行基菩薩建立也、彼薩埵者和泉国大 鳥 縣 家 原 郷 人也、氏者高志

        (マ丶)      ホウ             レ チ    ノ     テ

、仁皇三十九代天智天皇御宇白鳳八年〈戊寅〉再誕給、是則文殊大士化身也、於

   シ        ヲ シ ケウ  ヲ ス ト   ハ     シ  テ   ヲ  タテ  ヲ

十五歳為出家、而紹隆為業、済度為、然則諸国往来、而開霊地而隆伽藍

キサンテ    スルコト ト   ソ         チ クニヲ    ニ   テ  メ  ヲ リ

仏像而 為本尊、凡四十九ヶ処也、分刻於六十余州、始而定田数

  ヲ  テ   ヲ  シメシ ノ  ヲ    □

行路、別九重而示王城之地、祈祷四海泰平 一天静謐 国土安穏 風雨

       ノ ヲ  コヽニ      ノコホリ ニ リ  ノ   リ ノ テン ヨナヽヽ  ツ

順時 五穀成𤎼旨、玆頃芸州豊田郡入野郷有一山、自其絶巓夜々 放

 ヲ ヒヽニ   アマクタル  トモ     コレヲ シ ルコト □ ヲ コヽニ           ノ

光、日々紫雲降、諸人雖之 無知  其由、爰仁皇四十五代聖武天皇

               コロ    □   ノ ノミネニ ヨモノテイタラクヒソカ

御宇天平正暦二年〈庚午〉中夏之比、行基登彼山峯而 四方 為躰  窃

ヲモンミレ   ハ   ノミネ  ク テ メヲク  ノ  ヲ      ク モ ツト     ヲ

以、  東西北大慈之嶺 高廻而留十五種之善水、白雲遠雖四十由旬

ソウテンヨウヽヽトシテ    ノ   カヒ ニ    ハ タニ ク チテ     ノ  ヲ

蒼天杳々、    三辰之影浮玉池、南大悲渓深落而流十五種之悪水、青山

ルカニ  モ ト    ヲ  エンカイマンマントシテ      ヲ ル  ニ      ノ ニ 

遥   雖隔七十余里、遠海漫漫、    普陀落見眼前、独一法界故無

    ニ       ノ ニ コモヽヽ ヲ   ニ レ               ココニ リ

続於余山、森羅万象故 交万木枝、誠是希代不思儀之勝地也、加之爰 在

 ナル サクラノ  ンテ タ  ニ   ラソナフ ヲ   ハ  ヲ

大  桜樹、及二 枝一千而自備仏形、風鳴梢者有慈眼視衆生福聚海無量

  キ コレ キニ ノ ツ ヲ   モノナリ  ニ  スイエンノ     ノ   ヲホヘ ヘル

之響、玆則先 所於物、 誠法性随縁姿、真如実相理、新覚 侍、

     (絵1)

 チ (菩薩)ハ テ サクラキヲ  ン    ト  カラ □ウコクシ ノ ヲ

行基 𦬇 取彼桜木一  御衣木、自 彫刻 千手尊容、而造一宇

  ヲ  ケテ シ □ウ    ト   フ   ノ ヲ

精舎、名 号桜山花王、述供養済会、令法久住利益人天乃至衆生無辺、

                                    

誓願度煩悩無辺、誓願断法門無尽、誓願覚無上菩提、誓願証等之祈念深矣、従

コノカタ   ノ   ヘ  ヲツキ ヲ   ツラネ ヲ   シ               キ

以来坐禅称名僧庵並軒継踵、人天陣華貴賤成市昼夜之参詣不怠、無

 ルコト セ ヲノヽヽノ  ウ

レ 各各  願望成就者也、

     (絵2)

   つづく

 

 「書き下し文」

  大日本国芸州豊田郡入野郷篁山竹林寺の縁起の事

 抑も当寺は行基菩薩の建立なり、彼の薩埵とは和泉国大鳥縣家原郷の人なり、氏は高志なり、仁皇三十九代天智天皇御宇白鳳八年〈戊寅〉に再び誕まれ給ふ、是れ則ち文殊大士の化身なり、十五歳に於いて出家を為し、紹隆を業と為(し)、済度を心と為す、然れば則ち諸国往来し、霊地を開きて伽藍を降て、仏像を刻んで本尊と為(す)ること、凡そ四十九ヶ処なり、刻を六十余州に分かち、始めて田数を定め行路を作り、九重を別ちて王城の地を示し、四海泰平・一天静謐・国土安穏・風雨順時・五穀成熟の旨を祈祷す、茲の頃芸州豊田郡入野郷に一つの山有り、其の絶巓より夜な夜な光を放つ、日々紫雲降る、諸人之を怪しましむと雖も其の由を知ること無し、爰に人皇四十五代聖武天皇の御宇天平正暦二年〈庚午〉仲夏の比、行基彼の山の峯に攀ぢ登りて四方の為体を窃かに以れ、東西北は大慈の嶺高く廻りて十五種の善水を留めおく、白雲遠く四十由旬を隔つと雖も、蒼天杳々として、三辰の影玉池に浮かび、南は大悲の渓深く落ちて十五種の悪水を流す、青山遥かに七十余里を隔つと雖も、遠海漫漫として補陀落を眼前に見る、独一法界の故に余山に続くこと無し、森羅万象の故に万木枝を交々、誠に是れ希代不思議の勝地なり、しかのみならず爰に大なる桜の樹在り、枝一千に及んで自ら仏形を備ふ、風梢を鳴らすは慈眼視衆生・福聚海無量の響き有り、茲れ則ち先に光を放つ所の物なり、誠に法性随縁の姿、真如実相の理、新たに覚え侍る、

     (絵1)

 則ち行基菩薩は彼の桜木を取りて御衣木と為し、自ら千手の尊容を彫刻し、一宇の精舎を造立す、名づけて桜山花王寺と号し、供養の斎会を述ぶ、令法久住・利益人天、乃至衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無尽誓願覚・無上菩提誓願証等の祈念深し、尓れより以来坐禅称名の草庵軒を並べ踵を継ぎ、人天華を陣ね貴賤市を成し昼夜の参詣怠らず、各々の願望成就為(せ)ざること無き者なり、

     (絵2)

   つづく

 

 「解釈」

   大日本国芸州豊田郡入野郷篁山竹林寺の縁起のこと。

 そもそもこの竹林寺は、行基菩薩が建立した寺である。この菩薩とは、和泉国大鳥郡家原郷の人である。氏は高志である。人皇四十代(カ)天武天皇の御代、白鳳八年〈戊寅〉に再びご誕生になった。この人は文殊菩薩の化身である。十五歳で出家し、仏法を継承して盛んにすることを仕事とし、人々を迷いの苦しみから救って悟りの境地へ導くことを重んじていた。だから諸国を往来し、霊場を開創し伽藍を建て、仏像を刻んで本尊としたところは、およそ四十九ヶ所である。日本を六十余州に分け、始めて田数を定め道路を作り、皇居を区画し王城の領域を示し、天下泰平・天下静謐・国土安穏・風雨順時・五穀成熟を祈願した。この頃、安芸国豊田郡入野郷に一つの山があった。その山の頂上から夜ごと光が放たれ、毎日紫雲がたなびいていた。さまざまな人々がこのことを怪しんでいたが、その理由はわからなかった。人皇四十五代聖武天皇の御代天平正暦二年〈庚午〉(730)五月ころ、行基はこの山の頂上によじ登り、四方の様子を密かに見て思いを巡らせた。この山の東・西・北には、仏の慈愛を表す嶺が高く聳え廻っており、十五種のすばらしい水を留め置いていた。白雲は遠く四十由旬(約400km)も隔たっていたが、大空は遥か遠く、太陽・月・北斗星の光が玉池に浮かび、南は仏の慈悲を表す渓谷が深く削れ落ちて、十五種の汚れたを排出している。青々とした山は遥か遠く七十余里を隔てているが、陸地から遠く離れた海は果てしなく広々として、補陀落が眼前に見えた。(この桜山は、)唯一の実相であるから、他の山に連なることはなく、宇宙に存在する一切のものでもあるから、多くの木々の枝が交わっている。本当に世にもまれな思いはかることもできない優れた地である。そればかりでなく、ここに大きな桜の木があった。枝は千にも及び、ひとりでに仏の形を備えていた。風が吹いて梢を鳴らす音には、観音菩薩が慈悲の目で一切衆生を平等に見て、その恵みが広大であるという響きがあった。これこそが先に光を放ったものであった。本当に、真理がさまざまな縁にしたがって生じるという様相や、永久不変で平等無差別という諸事・諸現象の真相を新たに悟りました。

     (絵1)

 そこで行基菩薩はこの桜の木をとって御衣木とし、自身で千手観音のお姿に彫刻し、一宇の寺院を建立した。名づけて桜山花王寺と称し、供養の斎会を勤めた。法華経が永久に伝えられていくようにすることや、人間界と天上界の幸せをはじめとして、一切の衆生を救おうとすること、果てしない煩悩を絶とうとすること、尽きることのないほど広大な法の教えを悟ろうとすること、無上の悟りに達しようとすることなどまで、祈念の思いは深い。これ以来、座禅や称名念仏の僧庵が次々と軒を連ね、人間や天人が花を供え、身分の高い人や低い人がたくさん集まり、昼夜を問わず参詣が止まることはなかった。それぞれの願望はすべて成就したのである。

     (絵2)

   つづく

 

 「注釈」

行基

 ─668─749(天智7─天平勝宝1)。奈良前半期の高僧。河内(のち和泉)国出身。父は百済系渡来人の高志才智(こしのさいち)、母は蜂田古爾比売(こにひめ)。はじめ官大寺で修行したが、民間布教を行ったため国家の弾圧をうけた。三世一身法の発布とともに、灌漑施設の造営と説教を結びつける特色ある運動を行い、広い支持を集めた。その活動は1175(安元1)泉高父宿禰(いずみのたかのりのすくね)著の『行基年譜』にくわしい。東大寺の大仏造営に協力し、745(天平17)大僧正となった(『角川新版日本史辞典』)。

 

天智天皇

 ─第四十代天武天皇の誤りか。〈戊寅〉は678年(天武天皇7)になります。

 

「斎会」

 ─①衆僧に斎食を供養する法会。②神をまつること。神を祭祀する儀式(『日本国語大辞典』)。

 

 

*「四弘誓願」について

 仏語。すべての仏や菩薩が共通して持っている四個の誓願衆生無辺誓願度・煩悩無量誓願断・法門無尽誓願学(または知)・仏道無上誓願成の総称。総願。しぐうぜいがん(『日本国語大辞典』)。「衆生無辺誓願度」は「仏語。菩薩が起こす四種の誓願の一つ。一切の衆生を済度しようとする誓い」(『同上』)、「煩悩無量誓願断」は「計り知れない煩悩を滅しようという」(「四弘誓願」『大辞林』)誓い、「法門無尽誓願学」は「尽きることのないほど広大な法の教えを学びとろうという」(『同上』)誓い、「仏道無上誓願成」は「無上の悟りに達したいという」(『同上』)誓い。

  『web版 新纂浄土宗大辞典』(http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/四弘誓願)によると、大乗仏教の菩薩が初発心時に必ず立てなければならない四つの誓いのこと。①すべての衆生を救おう(度)、②すべての煩悩を断とう(断)、③すべての教えを学ぼう(知)、④この上ない悟りを得よう(証)、という四つの根本的な誓いを言う。「しぐせいがん」とも。菩薩が各自の個性に合わせて立てる個別の誓願(別願)に対し、これはすべての菩薩に共通しているので「総願」とも呼ばれる。だが、この四弘誓願の起源は必ずしも明らかではない。(中略)浄土宗の日常勤行式に見られる「衆生無辺誓願度煩悩無辺誓願断法門無尽誓願知無上菩提誓願証」という表現の起源は、智顗の『釈禅波羅蜜次第法門』や、智顗の説を門人の灌頂が記した『摩訶止観』に求められるが、智顗はこの四つを以て「四弘誓」の内容と考えていたわけではなく、この両者を結びつけて考えたのは天台の灌頂であろうと考えられている。浄土宗日常勤行式の「総願偈」は、『往生要集』において源信が「四弘おわってのちに、自他法界同利益・共生極楽成仏道というべし」(浄全一五・七〇下/正蔵八四・四九上)と記している文を加えて成立した。

  今回の史料の表記は、浄土宗の「総願偈」に最も似ています。ただし、「法門無尽誓願」と「法門無尽誓願」の違いはあります。竹林寺は現在、真言宗ということになっていますが、この縁起が作成された時代には天台宗や浄土宗の影響が強かったのか、浄土信仰・念仏信仰に傾倒した僧侶が縁起を作成したのかもしれません。

本宮八幡神社文書3(完)

    三 乃美八幡宮流鏑馬次第注文

 

   秀遠当郷之儀依存知仕〈乃美八幡宮」矢鏑馬之次第」新儀ニ矢鏑張之事〉

              高橋内蔵助

 大永四年〈甲申〉 新給     天正 高橋□法師

              内藤九郎左衛門尉

                 天正 新請取

              眞田又五郎

 大永五年〈乙酉〉 同      天正 眞田助二郎

              山内与三左衛門尉

                 天正 高橋三郎衛門

 大永六年〈丙戌〉 同   〈兒玉新次郎」岩崎新右衛門尉〉

 大永七年〈丁亥〉 同   〈草井木工助」賀藤九郎五郎〉

 享禄元年〈戊子〉 本給  〈山内四郎右衛門尉」眞弓田孫左衛門尉〉

 享禄二年〈己丑〉 同   〈矢原衛門尉」小田又次郎〉

 享禄三年〈庚寅〉 同   〈草井飛騨守」草井木工助〉

   

 享禄年〈辛卯〉 同   〈高橋少輔五郎」眞田四郎左衛門尉〉

 享禄五年〈壬辰〉 同   〈土屋小太郎」高橋三郎右衛門尉〉

 天文二年〈癸巳〉 同   〈高橋少輔次郎」井原九郎五郎〉

 天文三年〈甲午〉 同   〈神足又三郎」井原与拾郎〉

 天文四年〈乙未〉 同   〈高橋内蔵助」内藤九郎左衛門尉〉

 天文五年〈丙申〉 同   〈賀藤佐衛門三郎」有田善拾郎〉

 天文六年〈丁酉〉 同   〈眞弓田孫左衛門尉」賀藤孫八郎〉

 天文二年〈戊戌〉 新給  〈山岡太郎五郎」原与三左衛門尉〉

     (1579)            安芸守

   于時天正七年〈己卯〉八月吉日     隆興(花押)

              安芸郡

 右之書付当年迄年数百拾八年倉橋徳蔵寺殿ニ有之候、我等断申ニ附廣島鹽屋町専勝寺

 殿にて受取申候、幾久所持可有之候、

     (1696)          久芳村神主   (黒印)

     元禄九年子ノ極月十一日      治部大夫○

        乃美村いなば

           与三郎殿

       ○本文書、二号文書ニ貼リ継グ、ソノ継目裏ニ治部大夫ノ黒印アリ

 

*割書とその改行は〈  」 〉で記しました。

 

 

 「書き下し文」

   (前略)

 右の書付当年まで年数百十八年倉橋徳蔵寺殿に之有り候ふ、我ら断り申すに附け広島塩屋町専勝寺にて受け取り申し候ふ、幾久しく所持之有るべく候ふ、

 

 「解釈」

   (前略)

 右の書付は当年まで百八十年間、安芸郡倉橋島の徳蔵寺殿にありました。我らが道理を申し上げて、広島塩屋町の専勝寺殿で受け取り申しました。いつまでも所持しなければならない。

 

 

 「注釈」

「久芳村」

 ─現福富町久芳(くば)。安芸国豊田郡の西北部、高田郡との境にある鷹ノ巣山東南麓に位置し、東は能良(のうら)村(現豊栄町)。村の中央部を流れる沼田川の本支流域に形成された低地に耕地がある。丘陵地には多くの古墳が築造され、出土地は確定できないが、安芸国の一部に見られる島形瓶が出土しており、早くから開けた地である。「和名抄」所載の豊田郡訓芳郷の地に比定され、後には久芳村・久芳郷と称された。建武三年(1336)十一月二十六日の足利尊氏寄進状(本圀寺文書)によると、久芳保が京都本圀寺の造営料として寄進されたが、貞和三年(1347)五月日付の園城寺堂舎造営料所支配注進状(園城寺文書)に、園城寺新羅社造営領未進分として久芳保がみえる。正平六年(1351)十二月二十三日の足利義詮下文写(小早川家文書)により久芳郷の半分は足利義詮から小早川胤平に、至徳元年(1348)十二月二十四日の将軍家御教書写(同文書)では小早川宗平・兼平に宛行われ、同三年十月二十九日には小早川春貞に安堵されている(「足利義満安堵御判御教書案」同文書)。

 応永十一年(1404)九月二十三日付の安芸国諸城主連署契状(毛利家文書)に久芳秀清が名を連ねており、地名を負った在地武士の存在がうかがえる。同二十一年四月十一日の小早川則平譲状案写(小早川家文書)によると、久芳保は大内氏が押領していた。応仁二年(1468)から文明三年(1471)の頃小早川氏と大内氏がこの地で抗争、久芳の地を小早川熙平は幕府から(同文書)市来家朝と久芳氏一族は大内政弘からそれぞれ安堵されている(「附録」所収市来家文書、「閥閲録」所収久芳庄右衛門家文書)。大永三年(1523)七月十四日尼子経久書状(平賀家文書)によると、平賀弘保は尼子経久から久芳400貫を宛行割れており、尼子氏の勢力が及んだことも知られる。天文十五年(1546)三月二十九日には大内義隆が久芳途重の所領を安堵している(「閥閲録」所収久芳庄右衛門家文書)が、義隆の死後大内氏に離反した毛利元就・隆元は、同二十二年九月二十日、久芳本郷を久芳賢直に宛行い(同書所収久芳五郎右衛門家文書)、同二十三年十月五日には賢重が陶晴賢から久芳保内の松弘名・末弘明・国弘名合わせて35貫を宛行われている(前記庄右衛門家文書)から、賢重は陶氏から離反したらしい。同年三月十五日大内義長は賢重先知行の久芳保内35石を市来元家に恩賞として宛行っている(同書所収一来幾之進家文書)。厳島合戦後の弘治三年(1557)大内義長を滅ぼした毛利氏は、十月二十八日に井上元継に久芳内30貫文を宛行う(同書所収井上甚左衛門家文書)とともに、元継・久芳兼重(賢重)・賢直に対し、久芳惣郷で藩屏となるよう命じている(同書所収久芳小兵衛家文書)。伊勢神宮御師村山氏が記した村山家檀那帳(山口県文書館蔵)の天正九年(1581)分には、久芳賢直・元和らのほかに井上元豊・綿貫直家・満蔵寺(万蔵寺)などの名がみえる。元豊は同十二年十一月には厳島神社回廊一間の檀那として名を連ねている(大願寺文書。文禄四年(1595)九月二十一日付の平賀元相同市松連署起請文案(平賀家文書)に、久芳分として120石5斗2升、うち所務70石2斗、家10軒とあり、同年十月二十四日付の平賀氏知行付立案(同文書)には、田数13町270歩(分米107石9斗)・畠数2町8段120歩(分銭4貫620文)を記す(『広島県の地名』平凡社)。

本宮八幡神社文書2

    二 乃美八幡宮流鏑馬次第注文写

 

     八幡宮矢鏑馬之次第

     (1524)

   大永四年甲申

 一番   為正小陣殿    宗吉大方殿

   乙酉

 二番   是貞       則正

   丙戌

 三番   是末       為安

   丁亥

 四番   太郎丸      重守

 五番   久重       弘末

     (1529)

  又始而享禄二年〈己丑〉為正宗吉矢鏑馬当り候、

     (1527)            高橋内蔵助

    寔大永七年〈丁亥〉八月拾五日     秀遠(花押)

                     弥十郎

                       元遠(花押)

*割書は〈 〉で記しました。

 

 

*よくわからないことばかりですが、乃美八幡宮流鏑馬は、「小陣殿方」と「大方殿方」の二手に分けられ、それぞれの名に割り振って運営していたようです。