周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

中村儀三郎氏所蔵文書2(完)

    二 毛利氏奉行人書状(切紙)

 

 在陣被 御祈念御久米被差渡候、則頂戴候、遠方御懇之儀難申尽

 候、又先日□階罷渡候時、御久米并御樽慥相届候、重々御心付忝存候、此表事朝鮮

 国無残所唐堺推詰御隙明候、帝王其外諸公家衆至大明国ニ退散候、大篇之

 御事如此事行候儀、更以不凡慮之候、高麗国中、東西へ四十日路、南北へ

 廿日路、是を八ケ道ニ被割候、郡数七百六郡在之由候、被聞召候旨候、

          豊臣秀吉

 大国にて候、来二月 太閤様御渡海候而、大明国へ可推入之由、此間大名衆

 七人被差渡、各々被仰聞候、唐物いか程茂取可申候間、御望次第可進之

              (言)

 置候、猶期来慶候、恐々謹□、

                       林肥

       七月廿二日           就長(花押)

       (祝)

       □師正久様

      厳島社)

 

 「書き下し文」

 在陣の御祈念を遂げられ御久米差し渡され候ふ、則ち頂戴し候ふ、遠方御懇ろの儀申し尽くし難く候ふ、又先日□階罷り渡り候ふ時、御久米并びに御樽慥かに相届け候ふ、重ね重ね御心付け忝く存じ候ふ、此の表の事朝鮮国残す所無く唐堺に至り推し詰め御隙明に候ふ、帝王其の外諸公家衆大明国に至り退散し候ふ、大篇の御事此くのごとく事行き候ふ儀、更に以て凡慮に及ばず候ふ、高麗国中、東西へ四十日の路、南北へ二十日の路、是れを八ケ道に割かれ候ふ、郡数七百六郡在るの由に候ふ、聞こし召すに及ばれ候ふ旨に候ふ、大国にて候ふ、来たる二月 太閤様御渡海し候ひて、大明国へ推し入らるべきの由、此の間大名衆七人差し渡され、各々仰せ聞けられ候ふ、唐物いか程も取り申すべく候ふ間、御望み次第に之を進め置くべく候ふ、猶ほ来慶を期し候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 あなた(正久)様は、私ども(毛利軍)の在陣の無事をご祈祷になり、私どもに御供米を送ってくださいました。私はすぐにそれを頂戴いたしました。遠方からのご厚意に(お礼を)申し尽くすこともできません。また先日、□階に渡りましたときに、御供米と御樽を、たしかに毛利軍に届けました。幾重にもあなた様のお心遣いに感謝しております。今回の手紙のことですが、朝鮮国の軍勢は残すところなく唐の境に追いやり、日本軍は御ひまになりました。朝鮮国の帝王やその他の貴族たちは、大明国に退散しました。壮大な計略(朝鮮出兵)がこのようにうまく運びましたことは、まったく凡人の考えの及ぶところではありません。朝鮮国は東西四十日、南北二十日の道のりで、この国を八ケ道に分割なさいました。郡数は七百六郡あるということです。太閤豊臣秀吉様がご統治になるということです。朝鮮国は大国です。来たる二月に太閤様はご渡海になりまして、大明国へ攻め入るつもりだということを、この間に大名衆七人を差し遣わし、各々にご命令になりました。舶来品はいくらでも取り寄せ申すことができるので、あなた様のお望みのままにそれらを進上することができます。なお、次の音信をお待ちしております。以上、謹んで申し上げます。

 

*書き下し文・解釈ともに、さっぱりわかりませんでした。

 

 「注釈」

「御久米」─御供米の誤字・当て字か。

中村儀三郎氏所蔵文書1

解題

 中村家は、代々、醤油醸造や塩浜の経営をしていた。明治初めに下市村(竹原市竹原町)戸長などをつとめている。

 

 

    一 毛利輝元書状(切紙)   ○以下二通、東大影写本ニヨル

 

           (小早川)

 急度申入候、明後日廿六隆景乗舟候条、無御油御渡海肝要候、仍動方角之

     (恵瓊) (羽柴秀吉            (摩)

 儀、以安国寺羽筑申候間、至上伊予新居宇广郡諸勢差渡候、隆景

 陣所へ早々一人被差出、可仰談事肝心候、恐々謹言、

      天正十三年)          右馬頭

       五月廿四日           輝元(花押)

         (隆通)

       山内新左衛門殿 御宿所

 

 「書き下し文」

 急度申し入れ候ふ、明後日二十六隆景乗舟し候ふ条、御油断無く御渡海肝要に候ふ、仍て動もすれば方角の儀、安国寺を以て羽筑より申され候ふ間、上伊予の新居・宇摩郡に至り諸勢を差し渡し候へ、隆景の陣所へ早々に一人差し出され、仰せ談ぜらるべき事肝心に候ふ、恐々謹言、

 

 「注釈」

 急いで申し入れます。明後日二十六日に小早川隆景が乗舟しますことについて、あなた様(山内隆通)もご油断なくご渡海になることが大切です。そこで、何かにつけて、侵攻の方角の件については、安国寺恵瓊を使者にして羽柴筑前守秀吉から申されますので、伊予国東部の新居郡・宇摩郡に上陸し、軍勢を派遣してください。隆景の陣所へ早々に一人を差し出し、ご相談になるべきことが大切です。以上、謹んで申し上げます。

 

 「注釈」

「山内隆通」─1530〜1586(享禄三〜天正十四)(聟法師・少輔四郎・法名

       雲玄鶴居士)備後の国人領主山内首藤氏の庶家多賀山(たかのやま)通

       続の嫡男。本家山内氏を継ぐ。はじめ尼子氏の麾下にあったが、天正

       十二年(1553)、宍戸隆家の仲介で毛利元就支配下に入った。天

       正十四年(1586)十月十五日死去(『戦国人名辞典』新人物往来

       社)。

「至上伊予〜差渡候」─書き下し文・解釈ともによくわかりません。

小高恭編『中世京都 闇と陰の世相史年表』(岩田書院、2010年)

 現在私は、「楽しい古記録」や「中世の妖怪変化・怪奇現象特集」というカテゴリーで、日本中世の不思議な出来事や奇妙な慣習を紹介しています。こうした記事をまとめた研究書はないものかと探していたところ、ずいぶん前に出版されていたことを、最近知りました。

 それは、小高恭編『中世京都 闇と陰の世相史年表』(岩田書院、2010年)です。室町・戦国時代のたくさんの古記録のなかから、政治社会的な事件や自然災害、怪奇現象などを博捜されていて、私の紹介した記事の多くも、この著書に掲載されています。興味のある方は、ぜひそちらをご覧になってください。とてもおもしろいですよ。

 なお、今後掲載していく記事には、この研究書で紹介されているものも含まれていますが、そのことをいちいちことわりませんので、ご承知ください。

闇夜にかかる虹 (Moonbow)

  文安元年(1444)閏六月十四日条

       (『康富記』2─66頁)

 

【頭書】虹夜立事、康保有例、其外希有云々、

 十四日壬戌、晴、後聞、今夜戌剋、乾方虹立云々、衆人見之云々、予不見之、虹者向

  日立者也、日在東則虹立西、又日在西則虹立東方也、夜陰虹見事希有也、後日有其

  沙汰之処、清史令語給云、康保年中有此沙汰、年月不詳云々、後日令説給云、康保

  四年九月九日、夜虹立之由有所見之間、注進賀茂在貞朝臣許云々、兼日尋之故

  云々、在盛朝臣語云、漢朝ニも其例希歟云々、

 

 「書き下し文」

【頭書】虹夜に立つ事、康保に例有り、其の外希有と云々、

 十四日壬戌、晴る、後に聞く、今夜戌の剋、乾の方に虹立つと云々、衆人之を見ると云々、予之を見ず、虹は日に向かひ立つ者なり、日東に在らば則ち虹西に立ち、又日西に在らば則ち虹東方に立つなり、夜陰に虹を見る事希有なり、後日其の沙汰有るの処、清史語らしめ給ひて云く、康保年中に此の沙汰有り、年月不詳と云々、後日語らしめ給ひて云く、康保四年九月九日、夜に虹立つの由所見有るの間、賀茂在貞朝臣のもとに注進すと云々、兼日之を尋ぬる故と云々、在盛朝臣語りて云く、漢朝にも其の例希かと云々、

 

 「解釈」

【頭書】夜に虹が立つこと。康保年間に先例がある。それ以外に例はなく、非常に珍しいという。

 十四日壬戌。晴れ。後で聞いた。今夜午後八時ごろ、北西の方角に虹が立ったという。大勢の人がこれを見たそうだ。私はこれを見ていない。虹は太陽に向かって立つものである。太陽が東にあれば虹は西に立ち、また太陽が西にあれば虹は東の方角に立つのである。夜の暗闇で虹を見ることは非常に珍しい。後日、これについての評議があったところ、大外記清原業忠がお話になって言うには、「康保年中にこれについての評議があった。年月は不詳である」という。後日、清原業忠がお話になって言うには、「康保四年(967)九月九日、夜に虹が立ったという証拠があるので、陰陽師賀茂在貞のもとに注進した」という。あらかじめこの件を尋ねるためだという。賀茂在盛朝臣が語って言うには、「中国でもその例は珍しいだろう」という。

 

 Leap month June 14th. Sunny. Later, I heard the following. At about 8 pm this evening, a rainbow appeared in the northwest. I heard that many people saw it. I was not able to see it. A rainbow appears facing the sun. When the sun is in the east, the rainbow appears in the west, and when the sun is in the west, the rainbow appears in the east. It is very rare for us to see the rainbow at night. Later, when a meeting was held about it, Kiyohara Naritada said, "The meeting about this was held in Kouho era. I do not know the date." Later, he said, "Kouho 4 years (967) September 9th, as there is evidence that a rainbow appeared at night, I reported to Kamo Akisada (the Yin-yang master)". He reported to Akisada to ask this matter in advance. Kamo Akimori said, "Moonbow would be rare in China too".

 (I used Google Translate.)

 

 

 「注釈」

ポロロッカに続いて、「ムーンボウ」(月虹)という言葉を使ってみたかったので、こんな記事を書きました。月虹の詳細は、三菱電機のコラムをご覧ください。(http://www.mitsubishielectric.co.jp/me/dspace/column/c1311_2.html

 そもそも私、夜に虹がかかるなんて、40数年生きてきて初めて知りました。知らないことって、本当に多いんだなぁ、って思います。

 さてこのムーンボウ、頻繁に出現するものではないようで、日本では2010年代に3度(沖縄・岡山・群馬)ほど観測されているそうです。したがって、室町時代でもこうした大気光学現象は珍しかったようです。中世の月虹は、どんなふうに見えたのでしょうか。ひょっとすると、ロマンティックに感じる中世びとがいたのかもしれませんが、所詮はこれも怪奇現象の一つ。吉凶占いのネタにされて終わるのが関の山だったのでしょう…。

 

 なお、賀茂在貞・在盛については、末柄豊「勘解由小路家の所領について」(科学研究費補助金研究成果報告書〔研究代表者:厚谷和雄〕『具注暦を中心とする暦史料の集成とその史料学的研究』2008・3、http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/suegara/gyoseki.htm)、細田慈人「陰陽家の参陣構成について─軒廊御卜にみる─」(『奈良大学大学院研究年報』18、2013・5、http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10533924-20130300-1045)を参照。

唐崎文書1(完)

解題

 唐崎家は代々竹原礒宮の神主を勤めた。当家にはほかに隆景連歌を蔵している。

 

 

    一 吉川広家書状

 

 為其結願成就申入候、御祈念所仰候、猶舜教可申候、恐々謹言、

       十二月三日           広家(花押)

 

 「書き下し文」

 其の結願成就のため申し入れ候ふ、御祈念仰ぐ所に候ふ、猶ほ舜教申すべく候ふ、恐々謹言、

 

 「解釈」

 法会が終了・成就したため申し入れます。そちらのご祈祷を敬っております。さらに、舜教が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。

 

*書き下し文・解釈ともに、よくわかりませんでした。