周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書19

    一九 小早川仲義寄進状

 

 奉寄進

 安芸国布田庄梨子羽郷

  楽音寺瓦葺免事

  合参段〈梨子羽郷南方太郎丸名内」坪者針田参段〉

 右依先祖宿願、始奉寄進処也、」但本堂瓦葺成就以後者、可末代」

 修理料所者也、仍天長地久・国土」泰平、殊者信心施主息災延命」・子孫繁盛・

 心中所願、皆令満足故、」所寄進件、

  (1399)

  応永六年〈己卯〉卯月十四日 平仲義(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る 安芸国布田庄梨子羽郷楽音寺瓦葺免の事

  合わせて三段〈梨子羽郷南方太郎丸名の内、坪は針田三段〉

 右先祖の宿願有るにより、始めて寄進し奉る処なり、但し本堂の瓦葺き成就以後は、末代の修理料所と為すべき者なり、仍て天地長久・国土泰平、殊には信心施主の息災延命・子孫繁盛・心中所願、皆満足せしむる故、寄進し奉る所件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる安芸国沼田庄梨子羽号楽音寺瓦葺き免田のこと。

  都合三段。〈梨子羽郷南方太郎丸名のうちで、坪は針田の三段〉

 右の田地は、先祖の宿願があったことによって、はじめて寄進し申し上げたところである。ただし、本堂の瓦葺きが完成したのちは、後世の修理料所とするべきものである。そこで、天地長久・国土泰平、とりわけ信心している施主の息災延命・子孫繁盛・心中所願のすべてを満足させるために、寄進し申し上げるところである。

楽音寺文書18

    一八 小早川仲義相計状

 

    うしろまへたかくほうか」つくりにて候へく候、

 梨子羽郷〈南方〉太郎名」之内、りやう所分の田一反、」山田ほうしニはからい

                                (蟇沼)

 候、下」地者大かいらに御たつね」候てめされ候へく候、但」ほうしひきぬ

 (楽音寺)

 かくをんし」両寺うけとり候ハんまて」にて候へく候、仍」相計状如件、

 (1398)

 応永五年〈つちのへ」とら〉二月 日

              仲義(花押)

  いぬまるとのへ

 

 「書き下し文」

 梨子羽郷南方太郎名の内、両所分の田一反、山田法師に計らひ候ふ、下地は大かいらにお尋ね候ひて召され候ふべく候ふ、但し法師蟇沼・楽音寺両寺受け取り候はんまてにて候ふべく候ふ、仍て相計状件のごとし、

    後ろ前高くほうかつくりにて候ふべく候ふ、

 

 「解釈」

 梨子羽郷南方の太郎名のうち、蟇沼寺・楽音寺の両所分の田一反は、山田法師に相談しました。下地は大かいらにお尋ねになりまして、取得なさってください。ただし山田法師が蟇沼寺と楽音寺の両寺から受け取ろうとするまでです。

 

*追而書は訳せませんでした。また、本文の解釈もよくわかりませんでした。

楽音寺文書17

    一七 小早川仲義臨時天役免状

 

 (蟇沼)(楽音)        (棟)

 ひきぬかくおん寺、両寺之段」銭宗別之事、永代をかき」りてさしおき申候、但

                            (臨時天役)

 公方」むきの事ハ、任先例御」沙汰候、仍両寺りんしてんやくの」

 めん状如件、

 (1395)

 応永貮年〈乙亥〉十一月 日   仲義(花押)

  ひきぬ殿

 

 「書き下し文」

 蟇沼・楽音寺、両寺の段銭・棟別の事、永代を限りて差し置き申し候ふ、但し公方向きの事は、先例に任せ御沙汰有るべく候ふ、仍て両寺臨時天役の免状件のごとし、

 

 「解釈」

 蟇沼寺・楽音寺の両寺の段銭・棟別銭のこと。永久に除外し申します(賦課し申しません)。ただし、幕府向けの段銭・棟別銭については、先例のとおりに、徴収なさるはずです。よって、両寺の臨時天役の免除状は、以上のとおりです。

 

 「注釈」

東禅寺」(『広島県の地名』平凡社より)

 本郷から南下して忠海(現竹原市)に至る街道(三次往還)の西、蟇沼の観音寺谷にあり、はじめ蟇沼寺と称した。暦応三年(1340)正月八日の預所朝臣寄進状(東禅寺文書)に、「蟇沼寺今者号東禅寺」とある。蟇沼山補陀落院と号し、真言宗御室派。もと楽音寺法持院末。本尊十一面観音は行基作の立木仏で、中古、落雷による火災のとき鋸で足下を切って持ち出したと伝えられており、秘仏とされている。

 当寺は沼田庄領家側と関係が深く、預所橘氏や弁海名の名主源氏が宗教的拠点とした。鎌倉時代、地頭として小早川氏が来住すると、当寺は領家側と地頭側の勢力の接点となっていたと思われる。東禅寺文書のうち最も古い永仁五年(1297)十月二十二日の地頭尼某下知状によると、当寺の院主職の相論に際し、梨子羽郷地頭尼が裁判権を行使し、裁定を下している。一方、弁海名名主源信成らは元徳二年(1330)に木造四天王立像(県指定重要文化財)を寄進しており(多聞天像胎内墨書銘)、前記橘朝臣寄進状によると、寺院炎上後、修復が進まないので、修理料所として、南方内寂仏・来善・乃力(のうりき)の三名を寄進している。室町時代には諸堂再建と寺院経営に、竹原小早川家代々の当主が力を入れている(東禅寺文書)。

 正和三年(1314)五月十八日の一宮修正会勤行所作人注文(蟇沼寺文書)によると、鎌倉時代より楽音寺が中心になって執行した一宮(現三原市の一宮豊田神社)の修正会には蟇沼寺が牛王導師を務めている。なお応永二十六年(1419)八月日付の東禅寺寺領注文(東禅寺文書)によると、得分は年間、米十石九斗一升六合、吉書林代二貫九文、売田代四貫六百文であった。近世以降は真言密教の祈祷寺となり、明治時代には一時無住のときもあった。東禅寺・楽音寺・弁海名にかかわる中世文書(東禅寺文書)十八通を伝える。また蟇沼寺文書として東大史料編纂所に所蔵される史料もある。

 

「天役(点役)」

 ─天役とも書く。臨時に賦課された雑役。①調停が賦課した臨時課税、造内裏役や大嘗会役などの一国平均役。②領主から賦課される兵糧米など。

  →「一国平均役」─古代・中世に、荘園公領を問わず、公田段別に一律に賦課された国役。大嘗会役・造内裏役・伊勢神宮役夫工米などで、国衙・守護を通じて徴収された(『古文書古記録語辞典』)。

 

「ひきぬ殿」─蟇沼寺の院主のことか。

楽音寺文書16

    一六 沙弥某下知状

 

 楽音寺燈油田壱町伍段、」任正検使免状并坪付之旨、」為僧戒乗沙汰、向後

 無」相違領知、可御祈」祷之丁寧之状如件、

     (1281)

     弘安四年正月廿一日

    沙弥(花押)

 

 「書き下し文」

 楽音寺燈油田壱町伍段、正検使の免状并びに坪付の旨に任せ、僧戒乗の沙汰として、向後相違無く領知せしめ、御祈祷の丁寧に致さるべきの状件のごとし、

 

 「解釈」

 楽音寺燈油田一町五反は、正検使の年貢の免除状と坪付注文の記載のとおりに、楽音寺院主戒乗の命令として、今後ともそれらの記載を違えることなく領有し、念入りにご祈祷を致しなさらなければならない。

 

*14・15号文書の関連文書。正検注で新たに指定された勘出田一町五段を、領家は楽音寺に対し、燈油料に使う免田として寄進した(14号文書)。免田の認定にあたって、正検使は免状と、坪付注文(15号文書)を作成した。そして、梨子羽郷の安宗名・久弘名に権益をもつ人物(沙弥某)が、楽音寺に対して燈油田の領有を認める下知状(16号文書)を発給して、手続きが完了したと考えられます。

楽音寺文書15

    一五 梨子羽郷楽音寺新燈油田坪付

 

         (花押)

 梨子羽郷 楽音寺新燈油田坪付事

  安宗名

   二里十坪三反六十歩       同十四坪一反三百歩

   六里廿九坪一反六十歩      十二里十四坪二反六十歩

                         (半)

   十二里十八坪一反六十歩     十八里十五坪斗

  久弘名

   十八里十八坪四反小       十一里廿五六間新大

      已上壱町伍段

        (1281)

        弘安四年正月十七日

 

*書き下し文・解釈は省略。14号文書の「坪付別紙」がこれに当たる。