周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

楽音寺文書28

    二八 比丘尼浄蓮寄進状

 

 寄進 楽音寺御塔修理田事

  合壹町者 既大工貞永入道跡

                (小早川茂平)

 右彼塔婆者、為 関東将軍家及」親父沙弥本仏聖霊比丘尼浄蓮」乃至

 法界出離生死頓証菩提、」所造立也、然為当院主浄地房」舜海沙汰

 於未来滅亡少破之」時、漸以加修理、為其功、永代」以

 所寄進之状如件、

    (1292)

    正応五年〈壬辰〉七月七日 比丘尼浄蓮

                   (花押)

 

 「書き下し文」

 寄進す 楽音寺御塔修理田の事

  合わせて一町てへり 既大工貞永入道跡

 右彼の塔婆は、関東将軍家及び親父沙弥本仏聖霊比丘尼浄蓮乃至法界出離生死・頓証菩提の為、造立し奉る所なり、然るに当院浄地房舜海の沙汰として、未来に至り滅亡・少破の時に於いて、漸く以て修理を加へよ、其の功に及ばしめんが為、永代以て寄進し奉る所の状件のごとし、

 

 「解釈」

 楽音寺御塔の修理田を寄進すること。

  都合一町。故大工貞永入道の跡地。

 右、この三重塔は、関東将軍家や親父沙弥本仏小早川茂平の聖霊から、わたし比丘尼浄蓮まで、法界における生死の迷いを離れ、速やかに悟りの境地に達するために、造立し申し上げたところである。したがって、現院主の浄地房舜海の取り計いとして、将来三重塔が倒れたり、少し壊れたりしたときに、この修理田の得分をもってだんだんと修理をせよ。その修理の役に立てるため、永久に寄進し申し上げる。寄進状は以上のとおりである。

楽音寺文書27

    二七 比丘尼浄蓮寄進田畠坪付

 

     (塔用)

 楽音寺たうゑうをまいらする

          田畠事

  合田一丁内

   福弘五反内 〈さゝハら三反」屋敷  二反〉

   うち田 二反

   一善  二反

   紙すきか垣内 一反

   福連畠

   番匠四郎跡畠横枕

 右坪付如件、

   (1291)

   正応四年〈辛卯〉二月十九日

            毗丘尼浄蓮(花押)

 

*書き下し文・解釈は省略。楽音寺三重塔建立費か修造費を賄うために、尼浄蓮が田畠を寄進したときの注文と考えられます。26号文書の関連文書か。

楽音寺文書26

    二六 比丘尼浄蓮寄進状

 

 寄進 楽音寺三重宝塔建立助成田事

      

  合壹町者〈羽坂村八段内三所合、」大門興二反内田皆在四至堺

      

 右件田者、尼浄蓮之先祖相伝私領也、」而為 関東将軍家次浄蓮并向後」当郷

 相伝輩現当二世悉地成就、割」別本門田内壹町、所進於楽音」寺

 也、然者於浄地房舜海沙汰、令宝」塔建立、可御祈祷精誠、於

 当郷」地頭職相伝者、全以不其妨、仍」為向後亀鏡、寄進之状

 如件、

   (1290)

   正応参年〈庚寅〉四月十五日

             比丘尼浄蓮(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進す 楽音寺三重宝塔建立助成田の事

  合わせて一町てへり〈羽坂村八段の内三所合わす、大門興二反内田、皆四至堺在り〉

 右件の田は、尼浄蓮の先祖相伝の私領なり、而るに関東将軍家次いで浄蓮并びに向後当郷相伝の輩現当二世の悉地成就の為、本門田の内一町を割き別け、楽音寺に寄進せしむる所なり、然れば浄地房舜海の沙汰に於いて、宝塔を建立せしめ、御祈祷精誠を抽づべし、当郷地頭職相伝の仁に於いては、全く以て其の妨げを致すべからず、仍て向後の亀鏡の為、寄進の状件のごとし、

 

 「解釈」

 楽音寺三重の宝塔建立の助成田を寄進すること。

  都合一町。〈羽坂村八段。三ヶ所を合わせた分。大門興二反内田。すべて東西南北の堺がある。〉

 右、この田地は、尼浄蓮の先祖相伝の私領である。しかし、関東将軍家、次いで浄蓮、ならびに今後の梨子羽郷を相伝する者の、現世と来世の悟りの成就のため、本門田のうち一町を割き分け、楽音寺に寄進するところである。そこで、浄地房舜海の取り計いによって、宝塔を建立させ、真心を込めて祈祷するべきである。当郷の地頭職を相伝する者は、けっして寄進田の領有を妨害してはならない。そこで、今後の証拠のため、寄進状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「羽坂村・大門興」─未詳。

楽音寺文書25

    二五 小早川陽満弘景同盛景連署寄進状

 

  (端裏書)

  「漆原御寄進状」

 奉寄進

  楽音寺領田之事

 右意趣者、奉為天地長久御願円満、」殊者信心施主子孫繁盛増長・」福寿

 祈祷料而、梨子羽郷〈南方〉漆原」石代八段永代当寺令寄附所也、」但此内

     (釈)                (小早川仲義)

 壹段者、尺迦堂可修理免」者也、凡彼領田者天門雖寄進、」寄進状依

 未無書進所也、於子々」孫々此旨、敢勿異失、仍寄進」状如件、

  (1440)

   永享十二年〈庚申〉四月八日 沙弥陽満(花押)

                  平盛景(花押)

     ○以上、一四号カラ二五号マデノ一二通ヲ一巻ニ収ム(第二巻)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る 楽音寺の領田の事

 右の意趣は、天地長久・御願円満、殊には信心施主・子孫の繁盛、増長福寿の祈祷料のおんため、梨子羽郷〈南方〉漆原石代八段を永代当寺に寄附せしむる所なり、但し此の内一段は、釈迦堂の修理免と為すべき者なり、凡そ彼の領田は天門寄進すと雖も、寄進状未だ書き進らすること無きによる所なり、子々孫々に於いて此の旨を守り、敢へて異失すること勿かれ、仍て寄進状件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる楽音寺領の田のこと。

 右の寄進の目的は、天地長久・御願円満、とくに信心施主やその子孫の繁盛や福寿増長の祈祷料のために、梨子羽郷南方漆原石代八段を、永久に当寺に寄進させるところである。ただしこの内の一段は、釈迦堂の修理料免田とするべきものである。そもそもこの領田は天門小早川仲義が寄進したのだが、寄進状をまだ書いて差し上げていなかったので、この度作成したのである。子々孫々においても寄進状の内容を守り、けっして破ってはならない。よって、寄進状は以上のとおりである。

 

 「注釈」

「漆原」─未詳。

 

「石代」

 ─斗代一石のこと、一段の田地の年貢が一石であること。→「斗代」─田畠一段についての年貢収納高。一段について米三斗を納めるときは、三斗代という(『古文書古記録語辞典』)。

楽音寺文書24

    二四 小早川陽満弘景同盛景連署寄進状

 

  (端裏書)

  「十王免寄進状」

 奉寄進

  楽音寺内十王堂免田事

                   (横)

 右為浄琳禅尼後菩提、梨子羽郷」南方模枕石代壹段、永代彼堂」令寄附

 也、毎月十日廿七日勤」仏供灯油、以余分上葺破壊時」可修理者也、

 於子々孫々此掟、」敢勿異失、仍寄進状如件、

  永享十二年〈庚申〉四月七日 沙弥陽満(花押)

                 平盛景(花押)

 

 「書き下し文」

 寄進し奉る 楽音寺内十王堂免田の事

 右浄琳禅尼の後の菩提の為、梨子羽郷南方横枕石代一段を、永代彼の堂に寄附せしむる所なり、毎月十日・二十七日に仏供灯油を勤め、余分を以て上葺破壊の時修理を加ふべき者なり、子々孫々に於いて此の掟を守り、敢えて違失すること勿かれ、仍て寄進状件のごとし、

 

 「解釈」

 寄進し申し上げる楽音寺内十王堂免田のこと。

 右、浄琳禅尼の後世の菩提のため、梨子羽郷南方横枕石代一段を、永久に寄進するところである。(この収納分をもって)毎月十日・二十七日に仏に供える灯油を用意し、残りをもって屋根が破損したときに修理を加えるべきものである。子々孫々においてこの掟を守り、けっして破ってはならない。よって、寄進状は以上のとおりである。