周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ヤブ医者

  延徳二年(一四九〇)十一月二十六日条

                         (『晴富宿禰記』153頁)

 廿六日甲辰 晴

   (中略)

  足利義視

  准后将軍厳親腫物御所労尻、已御難儀之間被召諸医師、松井兵部卿自昨日進御良

     (貞盛法印)

  薬、此間竹田進御薬無御験之間、兵部卿薬御服用也、又江州卑賎之藪医師上洛、御

  腫物可療治云々、御療治昨日マテ七十二日也、神社仏寺御祈、抛他事云々、

 

 「書き下し文」

 廿六日甲辰 晴る、

   (中略)

  准后将軍厳親腫物御所労尻、已に御難儀の間諸医師を召さる、松井兵部卿昨日より

  御良薬を進らす、此の間竹田御薬を進らせ御験無きの間、兵部卿の薬御服用なり、

  又江州卑賎の藪医師上洛し、御腫物を療治すべしと云々、御療治昨日まて七十二日

  なり、神社・仏寺御祈り、他事を抛つと云々。

 

 「解釈」

 二十六日甲辰、晴れ。

  (中略)

 足利義視はお尻に腫物ができてご病気になった。困り果てなさったので、さまざまな医師をお呼びになった。松井兵部卿は昨日から良いお薬を差し上げた。ご病気のあいだ、竹田貞盛法印がお薬を差し上げたが効果がなかったので、松井兵部卿の薬を御服用になったのである。また、近江の卑しい田舎者の医師が上洛し、義視様の腫物を治療しようとしているそうだ。ご治療の期間は、昨日までで七十二日であった。他のことは顧みず、神社や寺院では病気平癒の祈祷に専念しているそうだ。

 

 「注釈」

「准后将軍」─足利義視

「松井兵部卿」─未詳。

「竹田」─竹田貞盛(定盛)法印。室町時代の医師。

 

*「藪医者」という言葉は、すでに室町時代にはあったのですね。驚きました。ただ、『日本国語大辞典』によると、「田舎医者」という訳が適切で、「治療の下手な医者」という現代にも通じる意味は派生的なもののようです。

 

 他にも「藪医者」の記事を見つけたので、合わせて掲載しておきます。

 

  応永二十九年(一四二二)六月十五日条 (『康富記』1─177頁)

 十五日辛子 晴、自今日於禁裏有御修法、是御惱御祈禱也、於清涼殿有此事云々、薬

 師法也、

  (中略)

 後聞、侍醫幸基朝(元名頼豊)臣参内御脈取云々、本道之輩参入之事、今度御惱中是始

 也、希代事也、只藪醫師ハカリ被聞食入之條如何、

 

 「書き下し文」

 十五日辛子 晴れ、今日より禁裏に於いて御修法有り、是れ御惱御祈禱なり、清涼殿

 に於いて此の事有りと云々、薬師法なり、

  (中略)

 後に聞く、侍醫幸基朝臣(元の名頼豊)参内し御脈を取ると云々、本道の輩参入の

 事、今度御惱中是れ始めなり、只藪醫師ばかり聞こし食し入れらるるの條如何、

 

 「解釈」

 十五日辛子 晴れ。今日から宮中で御修法があった。これは称光天皇の病気平癒のご祈祷であった。清涼殿でご祈祷があったそうだ。薬師法である。

  (中略)

 後で聞いた。帝の侍医の幸基朝臣が参内して脈をとったそうだ。正統な医師が参内して診察に当たったことは、今回のご病気では初めてである。ただ藪医者だけのお薬をお召し上がりになるのは、どうだろうか。

 

*この記事を見ると、「侍医」・「本道之輩」と、「藪醫師」が対比表現として記載されていることがわかります。「侍医」は「典薬寮」に所属している官医です(『新訂 官職要解』)。したがって、「本道之輩」も、官職についている「正統な医者」とでも訳すでしょう。そうであるなら、「藪医師」は、「異端」「非正規」の医師ということになりそうです。

 煩わしいのでこれ以上の史料は載せませんが、今回称光天皇の治療当たった医師は、北朝天皇や将軍に仕えてきた坂士仏(コトバンクhttps://kotobank.jp/word/坂士仏-1077418)という医師の弟子寿阿でした(八木聖弥「『看聞日記』における病と死(1)」『Studia humana et naturalia』京都府立医科大学医学部医学科 (教養教育) 編、37、2003・12)。したがって、「藪医者」という言葉は、単なる田舎者の医師という意味だけでなく、官職についていない、「非正規の医師」という意味でも使われていたと考えられます。