一八 久島郷内重正道房名田譲状
(譲渡)
永代ゆつりわたす重正名之事
合 公方二反 あかり一反 しやくゑん分一反
(退轉) (實)
右ゆつりハ、左京公方越あい候てたいてん仕候間、◻︎九郎二郎ニゆつりわたす所しち
(頭)
なり、同余所ともにわたし申、しやくゑん分両度の地當殿御判二まい◻︎もわたす處な
(社役) (晦) (奔走)
り、仍御公事等しややく大宮◻︎とうつもこりハ、先々の余所ニまかせほんそうすへき
(くたりヵ)
物なり、しやくゑん分ハ、家よりまゑ◻︎◻︎◻︎あるへく候、九郎二郎公方越候て他所ニ
候間、如レ此ゆつりを仕わたし申、いこの時ハ此まゑ御上様へ申上候て、地下へ
(安堵)
あんとすへき物なり、仍後日爲たこくニ候間、ゆつり状如レ件、
(1463) (慶ヵ)
寛正四年未癸十一月十七日 久嶋内重正道房(略押)
「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました。)
永代譲り渡す重正名の事、
合公方二反・あかり一反・しやくゑん分一反
右譲りは、左京公方越しあい候ひて退転仕り候ふ間、◻︎九郎二郎ニ譲り渡す所実なり、同余所ともに渡し申し、しやくゑん分両度の地頭殿御判二枚をも渡す處なり、仍て御公事・社役・大宮□とう晦は、先々の余所ニ任せ奔走すべき物なり、しやくゑん分は、家より前下りあるへく候ふ、九郎二郎公方越し候ひて他所ニ候ふ間、此くのごとく譲りを仕り渡し申す、以後の時ハ此の前御上様へ申上げ候ひて、地下へ安堵すへき物なり、仍て後日の為他国に候ふ間、譲状件のごとし、
「解釈」
永久に譲り渡す重正名のこと、
合わせて公方二反・あかり一反・しゃくえん分一反、
右の譲与分は、大内教弘がやってきて、領有が中断し申し上げているあいだに、九郎二郎に譲与することは事実である。同じく他所の所領もともに譲り渡し、しゃくえんの遺領分に関する二度の地頭殿御判の充文も渡すところである。そこで、御公事・社役・大宮?は、この譲状以外の別の所領で弁済するべきものである。しゃくえん分は、家の前の下った場所にあるはずです。九郎二郎は大内教弘がこちらへやってきたため他所におりますので、このように譲状を認めて渡し申し上げます。以後は地頭に申し上げて、我々に安堵してもらうべきである。よって、後日のため、他国におりますあいだに認めた譲状は、以上のとおりです。
「注釈」
「左京公方」─大内教弘か。安芸の分郡守護武田と対立し、安芸に軍勢を派遣していた
ころ。
「九郎二郎」─未詳。
「しやくゑん分両度の地頭殿御判二枚」─十七・十八号文書。
「御上様」─未詳。久嶋郷の地頭か。
「道慶」─未詳。九郎二郎とは親子関係か。
*大内氏の合戦で、九郎二郎が他所へ出兵しているあいだに、道慶が認めた譲状だと考
えられます。
*十七号文書とほぼ同じ形式の文書ですが、十八号文書はそれから八年後に作成された
ものになります。事実書にある「しゃくえんの譲状」は、十七号文書の「馬次郎」充
と十八号文書の「三郎左衛門」充に、同時に作成されたのか、先に「馬次郎」充に作
成していたのに、何らかの理由で「三郎左衛門」充に書き直したのか、よくわかりま
せん。何か相論が起きて、充文が発給されたのでしょうか。