周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

怪異!? 蛙合戦(Mystery! ? Frog's battle)

  延徳四年(1492)四月四日条        (『晴富宿禰記』158頁)

 

 四日甲辰 晴

  (中略)

  今朝於二条室町薬師堂傍、蛙合戦[  ]堀溝七八ケ間之間、蛙充満飡合之後、

 [  ]退畠辺蛙子四千百有之云々、

 

 「書き下し文」

 四日甲辰 晴る、

  (中略)

  今朝二条室町薬師堂の傍らに於いて、蛙合戦[  ]堀溝七・八ケ間の間、蛙充満

  し飡合する(飡ひ合ふ)の後、[  ]畠辺りに退く、蛙の子四千百之有りと

  云々、

 

 「解釈」

 四日甲辰、晴れ。

  (中略)

  今朝二条室町の薬師堂で蛙合戦があった。堀や溝の間が約12〜14メートルあるところで、蛙が充満して互いに食い合っていた。その後、畠の辺りに引き下がってみると、蛙の子(おたまじゃくし)が四千百もいたそうだ。

 

 A battle of frogs occurred this morning at Yakushido Temple in Nijo Muromachi district. Frogs were eating each other where the moats and grooves were between about 12 and 14 meters. After that, when I looked around the field, there were 4000 tadpoles.

 (I used Google Translate.)

 

 「注釈」

「薬師堂」─永福寺蛸薬師堂)。

 

「蛙合戦」

 ─蛙軍(かえるいくさ)に同じ。蛙が群集して争って交尾すること(『日本国語大辞典』)。

 

*凄まじい数の蛙が、寄り集まって交尾をしていたようです。その様子は、互いを食べ合うと表現するほどです。この様子がそんなに珍しいのか?と思っていたのですが、『日本国語大辞典』に引用されている、『親長卿記』文明八年(1476)正月二十六日条の記事を見てみると、

 

 「廿六日、晴、参安禅寺殿・眞乗寺殿、

   今日聞、春日社有恠異云々、御供所井死人飛入云々、東大寺八幡社頭上瓦上食

   合、落懸橘木、打折枝云々、又有蛙合戦、在所忘却、條々希代事歟、藤・源之輩

   不思儀可出来前表歟、」

 (現代語訳)

 「今日聞いた。春日社で不思議なことがあったそうだ。御供所の井戸に死人が飛び込んだという。東大寺の手向山八幡宮の社頭の瓦の食い合わせの部分が橘の木に落ちかかり、枝を打ち折ったそうだ。また蛙合戦があった。場所は忘れた。これらのことは不思議なことだろう。藤原氏・源氏の一族に、思いもよらない出来事が起こる前兆だろう。」

 

 とあります。この史料を見ると、「蛙合戦」は春日社で起きた怪異の一つで、しかも不吉なことと考えられていたようです。ひょっとすると、記主の晴富も蛙合戦が珍しかったわけではなく、不吉の前兆と認識したからこそ、日記に書き留めたのかもしれません。

 

 It seems that a large number of frogs gathered and copulated. It was expressed that it seemed to be mutually eating.
 I think that this author wrote down in his diary because he recognized "frog's battle" was not a rare thing but a bad omen.

  (I used Google Translate.)

 

 

*2020.6.17追記

 新しい蛙合戦(蛙軍)の史料を見つけたので、追加しておきます。

 

 文明十四年(1482)五月二十日条  (『大乗院寺社雑事記』7─399頁)

 

    廿日

                  (軍ヵ)            (衆)

 一東門院僧正来、昨日於宝蔵院之西辺蛙運在之、南北ニ相分北方負了、集人見

  之、希有事也、

 

 「書き下し文」

 一つ、東門院僧正来たる、昨日宝蔵院の西辺に於いて蛙軍之在り、南北に相分か北方負け了んぬ、衆人之を見る、希有の事なり、

 

 「解釈」

 一つ、東門院僧正孝祐がやって来た。昨日、宝蔵院の西辺で蛙合戦があった。互いに南北に分かれ、北方が負けた。多くの人々がこれを見た。不思議なことである。

 

 「注釈」

「東門院」

 ─興福寺の院家の1つで、孝祐のことか。姉小路小島持言の息(大藪海「興福寺東門院の相承─文明四年北畠氏子弟入室の前提─」『史学』80─4、2011・12、40頁、http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00100104-20111200-0019)。

 

「宝蔵院」

 ─京街道と登大路との四辻の東南、奈良国立博物館の西北辺に位置する。興福寺の一院で、槍の宝蔵院と呼ばれたが、明治の廃仏毀釈で壊され、いまは井戸跡を残すだけである。覚然房胤栄が十文字槍を創案し、以後代々宝蔵院流槍術を伝えた。剣の柳生新陰流と並び称された。胤栄・胤舜らの墓は、いま白毫寺の墓地にある(『奈良県の地名』平凡社)。