周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小田文書29

   二九 法橋圓俊奉書

 久嶋郷住人西阿与同郷百姓重清入道西願相論國重名田八段事、西阿所進如

 應三年五月八日御文者、平次郎入道願蓮西阿ノ親父 宛賜下地之条分明也、

 西願所進如正應三年七月廿二日御書下者、宛賜作毛計之由所見也、其上

 去年如西願進上訴状者、弥勒十郎入道令掌彼名田之由訴申之間、既姧訴

 之至令露顕歟、所詮如西阿所進御下文以下給主等宛文者、西阿之所

 無相違歟者、於彼八段者、令西阿進退領作、御年貢以下御公事等、任

 先例懈怠勤仕之由、可下知之旨候也、仍執達如件、

     (1312)

     正和元年四月十二日        法橋圓俊

 政所隠岐三郎入道

 

 「書き下し文」

 久嶋郷住人西阿と同郷百姓重清入道西願と相論する國重名田八段の事、西阿進らする所の正応三年五月八日の御文のごとくんば、平次郎入道願蓮「西阿ノ親父」に下地を充て賜はるの条分明なり、西願進らする所の正応三年七月廿二日の御書下のごとくんば、作毛ばかり充て賜はるの由見ゆる所なり、其の上去年西願進上の訴状のごとくんば、弥勒十郎入道彼の名田を領掌せしむるの由訴え申すの間、既に奸訴の至り露顕せしむるか。所詮西阿進らする所の御下文以下給主等充文のごとくんば、西阿の申す所相違なきか、てへれば彼の八段に於いては、西阿をして進退領作せしめ、御年貢以下御公事等、先例に任せ懈怠無く勤仕せしむべきの由、下知を加えらるべきの旨に候なり、仍て執達件のごとし、

 

 「解釈」

 久嶋郷住人西阿と同郷百姓重清入道西願とが争っている國重名田八段のこと。西阿が進上した正応三年(一二九〇)五月八日の下知状によれば、西阿の父平次郎入道願蓮に名田八段を給与したことは明らかである。西願が進上した同年七月二十二日の充文によれば、作毛だけを給与されたと見えるのである。そのうえ、去年の西願が進上した訴状によれば、弥勒十郎入道がこの名田を支配していると訴え申し上げているので、もはや極めて邪な訴えであることは露顕しているのではないか。所詮、西阿が進上した御下文以下給主らの充文によれば、西阿の主張は間違いないのである。というわけで、この八段については、西阿に支配・耕作させ、御年貢以下御公事等も、先例に任せて怠ることなく納めるさせるべきである、とご命令を下されたのであります。そこで、この内容を下達します。

 

 「注釈」

「西阿」─未詳。35号・44号文書にも登場します。

「重清入道西願」─未詳。

「平次郎入道願蓮」─未詳。西阿の父親。

弥勒十郎入道」─人名か。未詳。

「正應三年五月八日御文」─三五号文書から、「御文」は「下知状」か「奉書」と考え

             られます。

「下地」─土地の支配・処分権。

「正應三年七月二十二日御書下」─「書下」という直状形式の文書は、所領充行などに

                使用されるものなので、おそらく「充文」のことだ

                と考えられます。

「作毛」─作毛のみを取得する権限。

「法橋円俊」─未詳。この訴訟を裁いたのは、厳島社だと考えられます。おそらく、神

       主が裁許をして、その意を奉じて、政所や訴訟当事者に下達した文書で

       はないでしょうか。

「政所隠岐三郎入道」─政所は現地支配担当者。隠岐氏は楢原氏とも称しているそうで

           す(池享「中世後期における「百姓的」剰余取得権の成立と展

           開 」『大名領国制の研究』校倉書房、一九九五、

           https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)。

           35号文書では、西阿は「三郎入道西阿」と記載されているの

           で、充所の「隠岐三郎入道」も西阿のことではないでしょう

           か。これは現地支配者である政所としての西阿に下した文書で

           はなく、勝訴者としての西阿に下した文書と読むべきだと考え

           ます。