三四 近久貞守連署名主職充文案
○本文書ハ四号文書ノ案文タルニヨツテ本文ヲ省略ス
三五 俊政奉書案
(嶋)
久⬜︎郷住人三郎入道西阿与二同郷百姓惣大夫宗重一相論、國重名内田地五段大百姓
(訴)
職事、如二⬜︎陳状一者、雖二子細多一、所詮如二西阿所レ進、正應三年五月八日正和
(彼ヵ)
元年四月十二日下知状一者、⬜︎名田西阿可二領知一旨分明也、如二定重申一者、依レ
致二忠節一、去元応之比宛二給彼名田一之由雖レ立、指無二⬜︎⬜︎一上者、定重訴訟非二
沙汰之限一、仍西阿令三領二知社役以下公事一、任二先例一可二催務一之由所レ候也、
⬜︎⬜︎達如レ件、
(元)
⬜︎應二年十月十七日 俊政奉
隠岐七郎左近允所
同弥次郎所
「書き下し文」
久嶋郷住人三郎入道西阿と同郷百姓惣大夫宗重と相論する國重名内田地五段大百姓職の事、訴陳状のごとくんば、子細多しと雖も、所詮西阿進らする所の、正応三年五月八日・正和元年四月十二日下知状ごとくんば、彼の名田を西阿領知すべき旨分明なり、定重申すごとくんば、忠節致すに依り、去んぬる元応の比彼の名田を充て給ふの由立つと雖も、指したる支証(カ)無き上は、定重訴訟沙汰の限りに非ず、仍て西阿社役以下公事を領知せしめ、先例に任せて催し務むべきの由候ずる所なり、仍て執(カ)達件のごとし、
(1320)
元応二年十月十七日 俊政奉る
隠岐七郎左近允所
同弥次郎所
「解釈」
久嶋郷の住人三郎入道西阿と同郷の百姓惣大夫宗重とが相論している、國重名内の田地五段大の百姓職のこと。訴陳状によれば、双方ともに異議は多いが、結局のところ西阿が進上した正応三年(一二九〇)五月八日付と正和元年(一三一二)四月十二日付の下知状(奉書)によれば、この名田を西阿が知行するべきことは明らかである。定重が申すことによれば、忠節を尽くしたことにより、去る元応年間(一三一九〜一三二一)にこの名田を給与されたという事情を申し立てたが、さしたる証拠もないうえは定重の訴えは取り上げない。そこで、名田に賦課された社役以下公事を西阿に管領させ、先例のとおりにそれらを負担者から催促し支払うべきである。よって、以上のことを下達する。
「注釈」
「三郎入道西阿」─29号・44号文書に現れる。29号文書の充所「政所隠岐三郎入
道」と同一人物であると考えられます。
「宗重・定重」─未詳。事書部分によると、「西阿」と「宗重」が相論の当事者になり
ます。ですが、文書の途中からは「定重」が当事者として現れます。
原本を見ていないので、何とも言えませんが、「宗重」と「定重」の
どちらかが誤植なのではないでしょうか。
「正応三年五月八日」─29号文書中にも証拠文書として現れています。
「正和元年四月十二日下知状」─29号文書「法橋圓俊奉書」のこと。
「去元応之比」─この文書の年号の一文字目は欠損によって読めないようですが、『広
島県史』では「元応」に比定しています。ですが、文中には「去元応
之比」という表現があります。元応二年に作成された文書の文中に、
「去る元応年間のころ」という表現が記載されることはないはずで
す。元応二年よりも後の年号で「応」の付く年号は、近いところで
「暦応」と「観応」の二つです。よって、「暦応二年(一三三
九)」、あるいは「観応二年(一三五一)」のものではないでしょう
か。ここでは最も近い「暦応二年」に比定しておきます。なお、元応
のころに給与されたという主張の根拠になる文書は、4号文書だと考
えられます。
「俊政」─未詳。この訴訟を裁いたのは、厳島社だと考えられます。おそらく、神主が
裁許をして、その意を奉じて、政所や訴訟当事者に下達した文書ではないで
しょうか。29号文書は同様の形式の文書ですが、その奉者は「法橋円俊」
で、「俊」が通字になっています。俊政と円俊には、何らかの関係(親子・
一族・師弟)があるのかもしれません。
「隠岐七郎左近允・弥次郎」─政所か。訴訟当事者の西阿と同族だと考えられます。
*なお、池論文でこの文書は検討されています(池享「中世後期における「百姓的」剰
余取得権の成立と展開 」『大名領国制の研究』校倉書房、一九九五)、