周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

小田文書36・37

   三六 厳島社惣公事免状案

    ○本文書ハ一〇号文書ト同文ノ案文タルニヨツテ本文ヲ省略ス

 

 

   三七 久島郷地頭代名田充文

 (端裏書)

 「ちとう御代くわんうしろ山のりやうさハの御房けち」

  宛下 名田事

                            (友)

 右件の名田ハ、長原内もりとし名助大夫かあと、但彼名田ハ、土毛田しやう次大夫

 (由緒)                  (不孝)   

 ゆい所の地とて、嘆申あひた、助大夫か子藤内ふけうの仁といへとも、後日のために

 (相尋)                   (去)

 あひたつぬる處ニ、ともかくも心からまてもなくさるへきよし申すあひた、

  (大窪・長原)            (支證)

 大くほなかわらのはうくわんにも、後日のしせうのためにあひたつねて、しやう次大

 夫他のさまたけなく知行あるへき者なり、もし此名田ニおいて、重わつらひ申さむ物

       (罪科)  (仁)

 においてハ、さいくわのしんとあるへく候、仍宛下所之状如件、

     (1352)

     正平七年ミつのへたつ  三月八日          地頭代(花押)

                      いきしやくしんとの

 

 「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました。)

 (端裏書)「地頭御代官うしろ山のりやうさハの御房下知」

  充て下す 名田の事、

 右件の名田は、長原の内もりとし名助大夫か跡、但し彼の名田は、友田しやう次大夫

 由緒の地とて、嘆き申す間、助大夫か子藤内不孝の仁と雖も、後日の爲に相尋ぬる處

 に、ともかくも心からまてもなく去るへき由申す間、大窪・長原の判官にも、後日の

 支證の爲に相尋ねて、しやう次大夫他の妨げ無く知行あるへき者なり、もし此名田に

 於いて、重ねて煩ひ申さむ物に於いては、罪科の仁とあるへく候ふ、仍って充て下す

 所の状件のごとし、

 

 「解釈」

 (端裏書)「地頭の御代官うしろ山のりょうさい?の御房の下知状」

  給与する名田のこと。

 右の名田は、長原の内のもりとし名、助大夫の遺領である。ただしこの名田は、友田しょう次大夫が知行の正当性をもつ田地だといって嘆き申した。だから、助大夫の子藤内は親不孝な人間であるけれども、将来のために調査したところ、藤内はいずれにせよ、この田地をしょう次大夫に渡すつもりだと申した。大窪・長原の役人にも将来の証拠のために尋ねて、しょう次大夫は他人の妨害なく知行するべきだ、と確定した。もしこの名田において、さらに厄介なことを申すものがいるなら、処罰するべきです。よって、充文の内容は以上のとおりです。

 

 「注釈」

「長原・大窪」─永原村(佐伯町永原)の地名。

「もりとし名」─未詳。

「助大夫」─未詳。

「友田しやう次大夫由緒」─未詳。助大夫との間にどのような関係があり、あるいはそ

             の田地に対してどのような権限を持っていたのかは分かり

             ません。

「藤内不孝」─助大夫の子息。具体的な理由は分かりませんが、助大夫から義絶されて

       いたと考えられます。相続人がいないため、しやう次大夫に給与された

       のではないでしょうか。のちのち藤内が自分の土地だ主張し、訴訟を起

       こす可能性もあるので、現時点で地頭代は藤内を尋問しておいたのでし

       ょう。

「判官」─村の役人、あるいは乙名(代表者)でしょう。

「正平」─この年号は南朝年号です。差出の地頭代は南朝方に与していたのでしょう。

「地頭代」─未詳。

「いきしやくしんとの」─未詳。