四一 重俊下地充文
(約束) (進退)
おやにて候藤ゑもん尉、御やくそくまゝ、下河上大郎三郎か分ハ、重正名之内心對
(屋敷分)
あるへく候、我々かやしきふんとして、きん大夫かいちの⬜︎代所ニ右馬允方へやない
(知行) (候)
かせより下ハ、わたし進候、此状まかせて、永代重正名之内ヲちきやうあるへく⬜︎、
仍爲後日やくそくの状如レ件、
(1368)
應安元年申戊十一月三日 重俊(花押)
なら原平ゑもん尉
「書き下し文」(可能な限り漢字仮名交じりにしました)
親にて候ふ藤ゑもん尉、御約束まま、下河上大郎三郎が分は、重正名の内進退あるべく候ふ、我々が屋敷分として、きん大夫垣内の⬜︎代所に右馬允方へ柳が瀬せより下は、渡し進らせ候ふ、此の状に任せて、永代重正名の内を知行あるべく候ふ、仍て後日の爲約束の状件のごとし、
「解釈」
親であります藤右衛門尉があなた(なら原平ゑもん尉)とお約束したとおりに、下河上の太郎二郎分の田地は、重正名内の土地として知行するべきです。(もともと、こん大夫の垣内を右馬允に渡すつもりだったが、)我々の屋敷分として、こん大夫の垣内の替地に、下河上太郎二郎分の内、柳が瀬より下の場所を、右馬允方へ渡し申し上げます。この状のとおりに、永久に重正名内を知行すべきです。よって、将来のため約束の内容は以上のとおりです。
「注釈」
「藤ゑもん尉」─藤右衛門尉?。未詳。重俊の父。
「下河上」─久嶋郷の地名か。
「大郎三郎」─太郎三郎?。未詳。
「きん大夫」─43・45号文書に現れる「こん大夫」(権大夫?)のことか。未詳。
なお、「かいち」は43号文書から「かいと(垣内)」のことだと考え
ました。
「右馬允」─未詳。12号・43号に現れる「小右馬尉」と同一人物かもしれません。
「重俊」─未詳。
「なら原平ゑもん尉」─奈良原平右衛門尉?。未詳。ひょっとすると、43号文書の平
右馬尉のことかもしれません。
*下河上の太郎三郎の土地は、もともと重正名に所属していなかったのでしょう。背景
はよくわかりませんが、その土地の代わりに、こん大夫垣内の土地を右馬允に譲り渡
し、重正名の管轄内に置いたと解釈してみました。この文書については、池享「中世
後期における「百姓的」剰余取得権の成立と展開 」(『大名領国制の研究』校倉書
房、一九九五)、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)を参照。