周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

小田文書49

   四九 久島郷百姓年貢請負禮錢覚

 

        (三)

 いぬの⬜︎三月⬜︎⬜︎日きうしやうかたのさんし[  ]うり申、一くわん二百文こきや

 う殿ニ御礼ニ申候、

 馬の太郎殿ニ一くわん二百文御礼ニ申候、

 四郎さ衛門殿ニ一くわん二百文御礼ニ申候、

 百文 八郎さ衛門殿 ならはら

 百文 まこ衛門殿 ためひろ

 百文 二郎五郎殿 ならはら

 百文 三郎太郎殿 よしすへ

 百文 三郎衛門殿 きやううりき

 百文 さ衛門二郎殿 よしすへ

 百文 さこの二郎殿 大まち

 五十文 七郎さ衛門殿 大まち

 五十文 二郎さ衛門殿 大まち

 五十文 三郎衛門殿 ならはら

 (裏書)

 「百文まこさ衛門殿 大すは

  五十文 三郎二郎殿

                       (請取)     (子孫)

  此三人之以後、きやうしやうかた[  ]さうけとり申候、こしそんニいたるま

           (主)       (仰)

  て、これよりほかニぬしあるましき、とおせニよんつて合四くわん六百⬜︎⬜︎御礼を

  申候、」

 

 「書き下し文」

 省略。

 

 「解釈」

 解釈できませんでした。

 

 「注釈」

「きうしやうかた」─「きやうしやうかた」と同じか。「九州方」とも読めそうです。

          もし「九州」でよいとするなら、小田文書のなかに一通(15号

          文書)だけ関連する文書があります。よくわかりません。

「さんし」─「散使・散仕」のことか。荘園や戦国期の村落の置かれた村役人で、番

      頭・名主の下にあって、通達や会計事務に従事した(『古文書古記録語辞

      典』)。

「此三人」─おそらく、「こきやう殿」「馬の太郎殿」「四郎さ衛門殿」のことでしょ

      う。この注文を見ると、この三人だけが記載の仕方が異なります。池論文

      では、「一貫二百文」をそれぞれこの三人が支払ったものと考えているよ

      うで、その金額大きさを根拠に、一般百姓とは異なる有力百姓で、刀禰の

      ような存在であったと考えているようです(池享「中世後期における「百

      姓的」剰余取得権の成立と展開 」『大名領国制の研究』校倉書房、一九

      九五)、https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/18661)参照。