三 小幡興行請文
(興雲)
圓満寺事、如二前々一洞雲寺對二當住宗繁長老一可二打渡一之旨被二仰出一候、可レ
奉レ任二御下知一候、近年押置候、子細委細申候、非二別儀一候、以二御意得一御披露
所レ仰候、恐々謹言、
小幡民部少輔
九月廿日 興行(花押)
弘中々務丞殿
(武総)
神代但馬守殿
○裏ニ神代武総ノ花押アリ
「書き下し文」
圓満寺の事、前々のごとく洞雲寺當住宗繁長老に對して打ち渡すべきの旨仰せ出され
候ふ、御下知に任せ奉るべく候ふ、近年押し置き候ふ、別儀に非ず候ふ、御意得を以
て御披露を仰ぐ所に候ふ、恐々謹言、
「解釈」
圓満寺のこと。以前からのとおりに、洞雲寺の現在の住持興雲宗繁長老に与えよ、と大内義興様はご命令になりました。だから、そのご命令に従い申し上げるはずでした。しかし、近年私は圓満寺を無理に占有しました。細い事情は詳しく申し上げます。義興様の御下知に背くような格別の事情はありません。このことをお二人にはご承知していただき、義興様に事情を御披露なさることをお願いします。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃
寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。
「宗繁」─四世興雲宗繁(『解題』参照)。
「小幡民部少輔興行」─安芸の国人。大内方の武将。本拠地は、佐伯区五日市町大字石
内にある有井城(「有井城跡発掘調査報告」
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/11483)。
「弘中中務丞」─4号文書より、弘中興兼か。大内氏の奉行人。
「神代但馬守」─4号文書より、神代武総。大内氏の奉行人。
* 文書の内容からすると、小幡興行が大内氏奉行人へ押領の弁明をした書状、つまり
洞雲寺の訴えに対する陳状ということになりそうです。『広島県史』がこの文書名を
「請文」にした理由は、4号文書に「還補之請状封裏進之候」という文言があるから
だと考えられます。実際に3号文書には、奉行人神代武総の裏判があるので、これを
根拠にしたのでしょう。
ですが、「還補之請状」には、以下の3つの解釈が考えられます。今回の場合、
まず「還補」は、「相論になっている圓満寺を、洞雲寺に返還した」という解釈で動
かないと思います。
さて、①「請状」とは、「文書を受け取った際に出す返事」(『古文書古記録語
辞典』)のことで、②類義語の「請文」であるなら、「一般に、上位者に対してある
ことを確言・約束する文言をもった上申書」(『古文書古記録語辞典』)という意味
になります。①・②の意味に従うなら、「相論になっている圓満寺領を、洞雲寺に返
還するという裁許が小幡に下され、それに対して小幡が承諾した旨を記載して奉行人
に差し出した文書」が、「請状」になるのではないでしょうか。そして、それに奉行
人が裏判を据えて洞雲寺に差し上げた、と解釈できるかもしれません。
最後に、原本を確認しなければはっきりしたことは言えませんが、③「請状」では
なく、「訴状」の書き間違え、あるいは読み間違えの可能性もあります。「還補之訴
状は裏を封じ」と読めば、「洞雲寺と小幡の相論は洞雲寺の勝訴になったので、洞雲
寺の訴状に奉行人が裏判を加え返却した」と読めそうです。大内氏の裁判制度がどの
ようなものかわからないのでなんとも言えませんが、幕府の裁判制度を踏まえると、
③の可能性が高いように思います。押領した側である小幡興行が自ら訴えることはな
いので、3号文書は「訴状」でもありません。
①・②・③のいずれにせよ、3号文書は4号文書に表れる「請状」のことではない
と考えられます。「還補之請状(訴状)」と呼ばれる文書は、別にあったのではない
でしょうか。
*この文書は4号文書と関連も深いので、一応永正十七年(一五二〇年)に年次を比定
しておきます。