嘉吉三年(1443)六月二日・十六日条 (『建内記』6─64・83)
二日、丙戌、天晴、
(中略)
常継尻穴出、成苦痛云々、
「書き下し文」
常継尻穴を出し、苦痛を成すと云々、
「解釈」
常継は尻の穴を出し、痛み苦しんでいるそうだ。
「注釈」
「常継」─万里小路家の家司。斎藤國継。
*いったいどんな苦しみ方をしているのでしょうか。言葉だけではリアルな状況は伝わってきません。この時代の医者は、尻の穴を出して苦しむ患者に、どんな診察と処方をしていたのでしょうか。この2週間後、常継は亡くなります。
十六日、庚子、天晴、
(中略)
斎藤美作入道常継(割書)「元号太郎左衛門尉國継(元茂継)事也、故六郎左衛門入
道常治(初者常持、後改爲常治、俗名持国)長子也、五十九歳、」日来病悩、腹病内
損等云々、今夜戌刻円寂、臨終正念端坐合掌、称名念仏無滞、遂往生之素懐者也、去
月廿四日故浄花院定玄上人渡彼宅給之由、予夢見了、往生来迎之相無疑者哉、歎中之
悦者哉、
「書き下し文」
斎藤美作入道常継「元太郎左衛門尉国継(元茂継)と号す事なり、故六郎左衛門入道
常治(初めは常持、後に改めて常治と為す、俗名持国)の長子なり、五十九歳、」日
来病悩、腹病内損等と云々、今夜戌の刻に円寂す、臨終正念し端坐合掌す、称名念仏
滞り無く、往生の素懐を遂ぐる者なり、去月二十四日故浄花院定玄上人彼の宅に渡り
給ふの由、予夢に見了んぬ、往生来迎の相疑い無き者か、歎中の悦なる者か。
「解釈」
斎藤美作入道常継「もとは太郎左衛門国継(その前は茂継)と名乗っていた。亡くなった六郎左衛門入道常治(はじめは常持、のちに改名して常治と名乗る、俗名は持国)の長男である。五十九歳。」普段から病に悩まされ、内臓の病気だったそうだ。今夜の戌の刻に亡くなった。臨終に際しては一心に仏を念じ、姿勢を正して座り合掌していた。滞ることなく阿弥陀如来の名を唱え、極楽往生の願いを遂げたものである。亡くなった浄花院の定玄上人が、常継の邸宅にいらっしゃるのを、先月の五月二十四日に私は夢で見た。極楽往生と阿弥陀来迎の相は疑いないものだろう。嘆きのなかの喜びであろう。
「注釈」
「浄花院」
─清浄華院。現在は上京区北之辺町。この時期は上京区元浄花院町にあったと考えられる。浄土宗四ヵ本山の一つ(『京都市の地名』)。
*どうやら内臓の病気だったようですね。尻の穴を出して苦しむという状況からすると、直腸や肛門に関する病気(ガン)だったのかもしれません。苦しみ抜いた常継も、立派な最期を迎え、極楽へと旅立ったようです。