嘉吉三年(一四四三)六月二十三日条 (『建内記』6─96)
廿三日、丁未、天晴、
(中略)
(則繁)
高麗國朝貢使来朝、先日参 室町殿奉拜云々、傳聞赤松左馬助(割書)「故満祐法師
弟也、謀反人也、」去々年没落播州、不知行方之処、菊地被相憑、越于高麗國打取一
ケ國及難儀之由、今度高麗人歎申云々、仍可被退治之由、有沙汰云々、
「書き下し文」
二十三日、丁未、天晴る、
(中略)
高麗国朝貢使来朝す、先日室町殿に参り拜し奉ると云々、伝え聞くに赤松左馬助(割書)「故満祐法師の弟なり、謀反人なり、」去々年播州に没落す、行方を知らざるの処、菊地を相憑まれ、高麗国に越し一ケ国を打ち取り難儀に及ぶの由、今度高麗人歎き申すと云々、仍て退治せられるべきの由、沙汰有りと云々、
「解釈」
高麗国の朝貢使が来朝した。先日室町殿足利義勝のもとに参上し、拝謁し申し上げたそうだ。伝え聞いたことには、赤松左馬助則繁「亡くなった赤松満祐の弟である。謀反人である。」は一昨年播磨国に没落した。行方知れずになっていたが、肥後の菊地氏を頼り、高麗国に越境し、そのうち一カ国を討ち取り、迷惑をかけている、とこの度来朝した高麗人が嘆き申し上げているそうだ。そこで、赤松則繁を退治なさるべきであると、室町殿はご要請になったそうだ。
「注釈」
*嘉吉の乱の首謀者の一人であった赤松則繁には、朝鮮に逃亡していたという噂があったようです。しかも、一カ国を制圧するほどの悪さをしていたそうです。どこまで本当かわかりませんが、則繁の粗暴な性格を考えると、ありえそうな話です。