(端裏書)
「義隆様御代
奉書案文」
當寺事、去永正十八年三月十一日以二凌雲寺殿裁許之旨一、御申之通遂二披露一候、
(弘中・神代)
仍御寺領坪付(割書)「興兼武総裏封在レ之」并被三相二加興藤新寄進之地等一被レ
成二下知一候、然間新寄進坪付封レ裏進覧候、以二此旨一御寺務不レ可レ有二相違一之
由候、尤珍重候、恐惶謹言、
吉見孫右衛門尉殿
卯月廿四日 興滋在判
青景右京進殿
隆著在判
洞雲寺 衣鉢閣下
「書き下し文」
當寺の事、去んぬる永正十八年(一五二一)三月十一日凌雲寺殿裁許の旨を以て、御申しの通り披露を遂げ候ふ、仍て御寺領坪付(割書)「興兼・武総裏封之在り」并に興藤新寄進の地等を相加へ下知を成され候ふ、然る間新寄進の坪付裏を封じ進覧し候ふ、此の旨を以て御寺務相違有るべからざるの由に候ふ、尤も珍重に候ふ、恐惶謹言、
「解釈」
当寺のこと。去る永正十八年(一五二一)三月十一日に大内義興様が御裁許になった内容を、洞雲寺様の訴えなさるとおりに、大内義隆様に披露しました。すると、御寺領の坪付注文「弘中興兼と神代武総の裏判がある」と友田興藤が新たに寄進した土地などを加えて、安堵なされました。だから、新寄進の坪付注文に裏判を加え、あなた様のお目にかけます。このように裁定が下ったからには、寺の支配については今までとの間に違いはあるはずもありません(これまで通り寺の仕事を務めるべきです)。当然これはめでたいことです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「凌雲寺御裁許」─5号文書、大内義興安堵状のこと。
「坪付」─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの(『古
文書古記録語辞典』)。
「興兼・武総」─弘中興兼・神代武総。大内氏奉行人。
「裏封」─①文書の裏面に書かれた花押を総称する。裏書と同じ糸を持って文書の表の
文面を承認・保証するために加えられたのを特に「裏封(うらふう)」とも
呼ぶ。鎌倉幕府の訴訟法において訴訟係属中に和解した場合和与状を取り交
わしたが、この裏には大抵はその時の奉行人に「裏封」すなわち証明の文句
並びに花押を受けて証文としての効力を高めようとしている。雑書決断所・
文殿などで奉行人らが訴訟審理の結果を上申する評定文の裏面に頭人が花押
を加えているが、これは表記の審理結果の承認を意味する。受け文を差し出
すに際し、相手に敬意を表すため差出人の花押を署名部分の裏面に加えた例
が数多くみられる。これを裏判または裏花押と呼ぶ。一通の文書が数紙にわ
たる時、また証文などを二通以上継ぐ場合に、連続を証するため継目裏ごと
に花押を加えた。これを継目裏判・継目裏花押と呼ぶ。この一種に属する
が、訴訟に際して訴論人から出された訴陳状ならびに証拠書類を審理終了後
一巻に継ぎ合わせ、その継目ごとに訴人・論人の花押とともに審理担当の奉
行人も花押(封判)を加えることに定められていた。これを「継目裏封」と
呼ぶ。なおこの際の訴人・論人の封判の位置は正員上、代官下、ともに代官
ならば交互に上下に判を加えるのが定めであった(『国史大辞典』)。
「興藤」─友田興藤。もと厳島神主。
「衣鉢侍者禅師」─洞雲寺住持、五世天菴宗春のことか。
*端裏書に「義隆様御代奉書案文」とあります。端裏書がいつ注記されたものかわかり
ませんが、この連署書状は、「奉書」と認識されていたようです。また、この文書の
年次については、次のように推測しておきます。26号文書には、「任去永正十八年
三月十一日天文拾年四月廿六日 凌雲寺殿(大内義興) 龍福寺殿(大内義隆)御裁
許旨」という記載があります。龍福寺殿(大内義隆)御裁許の存在を示す文書は残さ
れていませんが、この19号文書はそれに先立って発給された文書だったのではない
かと推測されます。おそらく先に奉行人連署書状が発給され、二日後の四月二十六日
に、大内義隆安堵状が正式に発給されたのではないでしょうか。よって、19号文書
は天文十年(一五四一)に比定しておきます。