周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

孔子が夢に現れた ─孔子三尊像─

  文安四年(一四四七)二月二十五日条 (『建内記』7─269)

 

 廿五日、丁巳、雨降、

  (中略)

                            南面

 今日權弁親長相語云、帥大納言去比有夢事、池邊有屋、々内掛孔子御影、御左方又

      西也、

 有一像、御右方有顔淵像、奉見付之間、成其恐之処、可参御前之由孔子有仰、参御

            (マ丶)

 前之処、可舒手之由有仰、述右掌中之処、孔子令書二字給、(割書)「木篇之⬜︎⬜︎

                (マ丶)

 也、不分明云々、」次御左方之像可述左手之由承之、仍展掌之処、是又字二書之、

 其後可披背之由有命、字二又被書背了、其後孔子仰曰、左掌中之字者、来世不可有

 悪趣事也、右掌中之字者、汝爲正路今生之報謝也、背上之字者、御説不覺悟之由、

 先日都督演説云々、希代不思議之瑞夢也、自愛尤所察也、

 

 「書き下し文」

 廿五日、丁巳、雨降る、

  (中略)

 今日権弁親長相語らひて云く、帥大納言去んぬる比夢の事有り、池の邊りに屋有り、

 屋内(南面)に孔子の御影を掛く、御左方に又一像有り、御右方(西なり)顔淵の像

 有り、見付け奉るの間、其の恐れを成すの処、御前に参るべきの由孔子仰せ有り、御

 前に参るの処、手を舒ばすべきの由仰せ有り、右の掌中を述ばすの処、孔子二字を書

 かせ給ふ、(割書)「木偏の□□なり、分明ならずと云々、」次いで御左方の像左手を

 述ばすべきの由之を承る、仍って掌を展ぐるの処、是又字二つ之を書く、其の後背を

 披くべきの由命有り、字二つ又背に書かれ了んぬ、其の後孔子仰せて曰く、左の掌中

 の字は来世悪趣有るべからざる事なり、右の掌中の字は、汝正路のため今生の報謝な

 り、背の上の字は御説覚悟せざるの由、先日都督演説すと云々、希代不思議の瑞夢な

 り、自ら愛づること尤も察する所なり、

 

 「解釈」

 今日権右中弁甘露寺親長が語り合って言うには、帥大納言正親町三條実雅が以前に夢を見たそうだ。池のあたりに建物があった。屋内の南面に孔子肖像画が掛けてある。その左側にはさらに一幅の肖像画がある。孔子像の右側(西側)には顔淵の肖像画があった。それらの肖像画を見つけ申し上げたことで、恐れ多いと思っていたところ、御前に参上せよと孔子が仰った。御前に参上したところ、手を伸ばせと仰った。右の手のひらを伸ばしたところ、孔子が二文字をお書きになった。(割書)「木偏の⬜︎⬜︎という字である。はっきりとはわからなかったそうだ。」次いで左側の像が左手を伸ばせと仰せになり、それを承った。そこで左手の手のひらを広げたところ、これまた二文字を書いた。その後背中を見せよとお命じになった。二文字をまた背中に書き終わった。その後孔子が仰るには、左の掌中の字は、来世で悪人がおもむく世界に落ちるはずもないことを示している。右の掌中の字は、お前が正しい行いをしているため、この世で果報があることを示している。背中の文字については、孔子のご説明を覚えていない、と先日三條実雅が説明したそうだ。世にも稀で思いも寄らないめでたい夢である。実雅自らが感嘆するのも当然のことだ、と察するところである。

 

 「注釈」

「権弁親長」─権右中弁甘露寺親長。

「帥大納言」─正親町三條実雅。

「悪趣」─仏語。この世で悪いことした者が、死後におもむく世界。また、その世界で

     の生存の状態。地獄、餓鬼、畜生の三を三悪趣といい、阿修羅を加えて四悪

     趣といい、別に人、天を加えて五悪趣という(『日本国語大辞典』)。

「自愛尤所察也」─どのように書き下し、解釈すればよいのか、よくわかりませんでし

         た。

 

 *これまでも夢の記事を掲載してきましたが、今回は孔子です。孔子をお祭りした行事に釈奠というものがあり、中世でも継続して行われていたようです。孔子儒者という側面だけでなく、神様のような存在になっていたのでしょう。

 夢の中の建物には、孔子(中央)と弟子の顔回(右側)、そして誰だかはっきりしない人物(左側)の肖像画が掛けられていました。これは、仏教の三尊形式と似たような感じです。釈迦三尊・阿弥陀三尊・薬師三尊・観音三尊などなど。孔子を中尊として、脇侍の顔回とはっきりしない人物が、三尊セットで祀られていると見てよいと思います。儒仏習合思想とでも言えばよいでしょうか。日本では、いつからこのような形式が普及していたのでしょうか。

 さて、このように考えると、左側のよくわからない人物が誰だか、とても気になります。なぜ、名前を書いてないのでしょうか。忘れたのか、有名人ではないからか。そうした事情もはっきりしません。ただ、左側の人物は孔子に次いで、三條実雅に「左手を伸ばせ」と命じ、文字も書いています。背中に文字を書いた人物がはっきりしないのですが、どうも顔回ではないようです。仮に、顔回の名が記されてないだけで、顔回が背中に文字を書いていたとしても、二番目に文字を書いたのは、左側の人物です。ということは、一番優秀な弟子である顔回よりも、偉い?重要?と考えられていた人物ということになりそうです。

 吾妻重二「朱熹の釈奠儀礼改革について─東アジアの視点へ」(『東アジア文化交渉研究』4、2011・3、http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/4246/1/01-azuma.pdf)によると、淳熙七年(1180)に朱熹が行なった釈菜(釈奠儀礼を簡略したもの)では、孔子顔回、そして孟子を祀っていたそうです。とすると、左側のはっきりしない人物は、孟子だったのではないでしょうか。紹熙五年(1194)になると、曾子と子思が加えられますが、当初は三人をお祀りしていたそうです。朱子学は、鎌倉中期には禅僧らによって日本に伝えられていますが、この孔子顔回孟子の三尊形式も中国から伝わったのではないでしょうか。日本で独自に考えられた安置形式というよりは、本場中国の形式をそのまま導入したものと考えられそうです。

 それにしても、いったいどんな文字を書いたのでしょうか。さっぱりわかりません。これが夢の記憶の限界なのでしょう。手のひらや背中に文字を書くなどは、優れた名言を残している孔子らしいと言えば孔子らしいですが、何だか言霊信仰の匂いもプンプンしてきます。解釈が間違っていなければですが…、右手の文字は地獄に落ちないため、左手の文字は現世で幸せに巡り合うためのマジナイの印のように思えます。三條実雅には、背中に書いた文字の意味もしっかり覚えていてほしかったです。手のひらに書くこと、背中に書くことに、何か特別な意味があるのか、これも気になります。