周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

不吉な兆候テンコ盛り!

  文安四年(一四四七)三月六日条 (『建内記』8─13)

 

          (補書)

 六日、丁酉、雨降、「夜霽戌刻星二捕合、一者落下、一者入天不見云々、勘文可尋、

  (中略)

  家久説、後日勘付之                   (中臣)

 傳聞、去月興福寺南円堂有光物入堂中(挿入)「後日、尋氏人家久之処、光物事不

 聞及云々、虚説歟、但正月之比南円堂前木連樹ニ、誰人之所爲哉付火、然而打消

        同説

 了」、翌日堂中有死雉云々(挿入)「此事、正月比金堂ノ石壇ニ雄當リテ死タリ、

 陰陽師ニ令占之処、兵乱火事之由申之ト云々」、東大寺大佛汗垂(挿入)「是ハ不

 断御膝上ニハ水カアルナリ、夏ナトハ水ヲ酌棄ルナリ、不断ノ事也云々」、是又去

 月事也、多武峯并淡海公御廟鳴動(挿入)「此事ハ南円堂ノ御前ニ淡海公ノ御墓ト

 申テ、聊高キ所ノ候、其事歟、此在所不審、若是如伏拝之儀歟、可尋之」、凢和州

              (清盛)

 所々鳴動是多云々、治承年中平相國薨之時、有閏二月、其年和州所々鳴動、當年有

 閏二月、又鳴動云々、如此事、一切不及注進、実否不審也、

 近日蒙古襲来之由、有野説、気比社前犬現了、往代襲来之時、如此、大神宮神馬放

 去、数日被疵帰参云々、実否未詳、

 

 「書き下し文」

 六日、丁酉、雨降る、「夜霽れ、戌の刻星二つ捕り合はさる、一つは落下、一つは天

 に入り見えずと云々、勘文尋ぬべし」

  (中略)

 (家久説く、後日之を勘じ付す、)伝え聞く、去月興福寺南円堂に光る物有りて堂中

 に入る(挿入)「後日、氏人家久に尋ぬるの処、光る物の事聞き及ばずと云々、虚説

 か、但し正月の比南円堂前の木蓮の樹ニ、誰人の所爲か火を付く、然れども打ち消し

 了んぬ」、同説く翌日堂中に死にたる雉有りと云々(挿入)「此の事、正月比金堂の

 石壇に雄當りて死にたり、陰陽師に占わしむるの処、兵乱火事の由之を申すと

 云々」、東大寺大仏汗垂る(挿入)「是は不断御膝の上には水かあるなり、夏なとは

 水を酌み棄つるなり、不断の事なりと云々」、是又去月の事なり、多武峯并に淡海公

 の御廟鳴動す(挿入)「此の事は南円堂の御前に淡海公の御墓と申して、聊か高き所

 の候ふ、其の事かと云々、此の在所不審、若し是伏拝の儀のごときか、之を尋ぬべ

 し」、凡そ和州所々の鳴動是多しと云々、治承年中平相国薨るの時、閏二月有り、其

 の年和州所々鳴動す、当年閏二月有り、又鳴動すと云々、此くのごとき事、一切注進

 に及ばず、実否不審なり、

 近日蒙古襲来の由、野説有り、気比社の前に犬現れ了んぬ、往代襲来の時、此くのご

 とし、大神宮の神馬放ち去る、数日傷を被り帰参すと云々、実否未詳、

 

 「解釈」

 六日、丁酉、雨が降った。夜は晴れた。戌の刻に二つの彗星が近づいた。一つは落下し、もう一つは天空に消え入って見えなくなったそうだ。勘文を調べるべきである。

  (中略)

 (中臣家久が説明するには、後日この件を調べるそうだ。)伝え聞いた。先月興福寺南円堂に光る物が現れて、堂内に入った。(挿入)「後日、氏人の家久に尋ねたところ、光る物のことは聞き及んでないそうだ。でたらめな噂か。ただし、正月ごろに南円堂の前の木蓮の木に、誰の仕業か火を付けた。しかし火を消し終わった」。

 同じく家久が説明するには、その翌日南円堂の中に死んだ雉がいたそうだ。(挿入)「このことだが、正月ごろに金堂の石壇に雄の雉が当たって死んだ。陰陽師に占わせたところ、兵乱・火事の予兆であると申し上げたそうだ」。

 東大寺の大仏の汗が垂れた。(挿入)「これについてだが、大仏のお膝の上にはずっと水があるのだ。夏などは水を汲んで捨てているのだ。いつものことであるそうだ」。

 これまた先月のことである。多武峯と淡海公藤原不比等)の御廟が大きな音を立てて揺れ動いた。(挿入)「このことであるが、南円堂の御前には淡海公のお墓と申して、少しばかり高いところがあります。そのことかと言う。この在所ははっきりしません。ひょっとすると、これは伏拝のことか。このことを尋ねなければならない」。

 そもそも、大和国の所々では鳴動が多いそうだ。治承年中に平清盛が亡くなったとき、閏二月があった。その年には大和国の所々で鳴動した。今年も閏二月がある。また鳴動するという。このようなことは、一切注進するまでもない。真実か虚偽かははっきりしない。

 近いうちに蒙古が襲来するとの俗説がある。気比社の前に犬が現れた。かつて蒙古が襲来したときもこのようであった。伊勢神宮の神馬が逃げ去った。数日後傷を被って帰ってきたそうだ。真実か虚偽かはまだはっきりわからない。

 

 「注釈」

「星二捕合」

 ─読み方はわかりませんが、二つの彗星が近づいて見えることだと思います。災いの予兆。「こわいこわい星の話」(東寺百合文書WEB、http://hyakugo.kyoto.jp/hyakuwa/33)、梅辻諄「『賀茂注進雑記』に書かれた天変と合の御祈」『みたらしのうたかた』1、2001年、http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/1/5.pdf)参照。

 

多武峰」─多武峯妙楽寺奈良県桜井市多武峰藤原鎌足を祀る旧別格官幣社

 

淡海公」─藤原不比等

 

「伏拝」─よくわかりません。奈良県山辺山添村伏拝のことか。

 

「治承年中」─養和元年・治承五年(1181)に平清盛病没。

 

「気比社」─福井県敦賀市曙町に鎮座する越前国一宮。

 

*いろいろと怪現象や天変地異が起こっているようです。どうでもいいことですが、興福寺南円堂の前には木蓮が植えられていたようです。何かこだわりや意味があるのでしょうか。それにしても、その木蓮に放火するなど、罰当たりな人間は昔にもいたのですね。

 さて、この記事でおもしろいのが、東大寺の大仏が汗をかくということです。仏像が汗をかくことに、何か災いの兆候を感じ取っていたようです。ただし、大仏の膝の上にはいつも水があり、夏は水を汲んで捨てているので、大仏が汗をかくのはいつものことだ、という記載もあります。膝の上に水をお供えしていたのか、自然と膝の上に水が溜まっていたのか、状況がよくわかりません。大仏殿は雨漏りでもしていたのでしょうか。

 次におもしろいのが、奈良県地震予報です。この年はそもそも地震が多かったようですが、今後の予報の根拠として、約260年も前、平清盛が亡くなった年の先例を引っ張り出してきます。清盛が亡くなった年にも閏二月があったから、まだ地震は続くと予想しているのです。こうした知識をしっかりと保存しているところは、本当にすごいと思います。ですが、記主の時房はこのような判断は注進するまでもなく、そもそも疑わしいものと考えています。だんだんと迷信らしき情報は信じなくなっているようです。

 さらにおもしろいのは、蒙古襲来の記憶が室町時代にも残っていたというところです。この記事は文安四年(1447)ですから、およそ170年前の記憶が生々しく思い出されているのです。現代でいえば、ペリー来航に怯えるようなものでしょうか。歴史(室町時代)のなかに、歴史(鎌倉時代)が生きているようです。どこまで現実味を帯びた恐怖であったかはわかりませんが…。

 ところで、この俗説の根拠は、越前一宮気比神宮の社前に犬が現れた、というそれだけのことでした。蒙古襲来時の記憶(兆候)は地方でも残されていたのでしょうが、それが京都の公家にまで伝わってきているところが興味深いです。それにしても、社前に犬が現れたことが、それほど珍しいことなのでしょうか。犬などどこにでもいそうなのですが、気比社のご祭神と犬の間には、何か因縁があるのかもしれません。