二八 陶晴賢安堵状
安芸國佐西郡佐方村洞雲寺領元圓満寺薬師寺領事、任二去永正十八年三月十一日
凌雲寺殿、天文十年四月廿六日 龍福寺殿御裁許之旨一、諸役等令二免除一畢、并
(友田)
興藤寄進地坪付在別紙之者、守二先例一云二寺家一云二寺領一、執務領掌不レ可レ有二
相違一之状如レ件、
(1552)
天文廿一年六月十八日 尾張前司(花押)
大應存隆和尚
「書き下し文」
安芸國佐西郡佐方村洞雲寺領元圓満寺薬師寺領の事、去んぬる永正十八年三月十一
日 凌雲寺殿、天文十年四月廿六日 龍福寺殿御裁許の旨に任せ、諸役等免除せしめ
畢んぬ、并に興藤寄進地(割書)「坪付別紙之在り」は、先例を守り寺家と云ひ寺領
と云ひ、執務領掌相違有るべからざるの状件のごとし、
「解釈」
安芸國佐西郡佐方村の洞雲寺領、もと圓満寺領と薬師寺領のこと。去る永正十八年三月十一日の凌雲寺殿と、天文十年四月廿六日龍福寺殿の御裁許の内容のとおりに、諸役等は免除させました。また、友田興藤の寄進地(坪付は別紙に書いてある)についても、先例を守り、寺院も寺領も取り仕切り支配することに相違あるはずもないことは、以上のとおりです。
「注釈」
「佐方村」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)。
「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃
寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。
「永正十八年三月十一日」─5号文書、大内義興安堵状。
「天文拾年四月廿六日」─未詳。おそらく19号文書の後か同日に、大内義隆の安堵状
が発給されたものと考えられます。19号文書の注釈参照。
「坪付」─田地の所在地と面積を条里制の坪にしたがって帳簿上に記載するもの(『古
文書古記録語辞典』)。
「大應存隆和尚」─洞雲寺住持七世、大応存隆。
* 26・27・28号文書はすべて同日付で、基本的には所領を安堵した文書という
ことになるのですが、いくつか疑問がわいてきます。26・27号文書は、衣鉢侍者
大休登懌(六世住持)充で、28号文書は住持と考えられる大應存隆充です。なぜ、
二人に充てて文書が発給されているのかがよくわかりません。可能性として、二人が
別の場所にいたということが考えられます。6号文書でも推測してみたのですが、衣
鉢侍者は訴訟担当者・交渉役、いわゆる沙汰雑掌のような役割を果たしていて、この
時には大内氏の本拠地である山口にいたのではないでしょうか。だから、衣鉢侍者と
住持の両方に、安堵状が発給されているのかもしれません。
次の疑問は、衣鉢侍者大休登懌充安堵状(26号文書)と、大應存隆和尚充安堵状
(28号文書)で、文言が異なるところです。大きな違いは、28号文書には友田興
藤の寄進地が書いてあるのに、26号文書はないところです。また、差出人の表記に
ついてですが、26号文書では「尾張守」、28号文書では「尾張前司」となってい
ます。なぜ同日付でありながら、表記が異なるのかがよくわかりません。陶晴賢の発
給文書を調べれば、何かわかるかもしれません。