周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

洞雲寺文書41

   四一 洞雲寺賢逹寺領付立案

 

  (端書)

  「此目録者、元清ヨリ吉田之輝元へ被上候、爲向後之重書へ相添置也、」

     洞雲寺領之事

 雲室壽慶之位牌免

  一佐方清末之内五貫百目

 興藤之位牌免

  一宮内東光寺分四貫三百目

 松岩之位牌免

  一坪井之内薬師寺分五貫七百目

 順覚之位牌免

  一三宅之内元圓満寺分十貫百目

                       (賢逹)

    以上廿五貫貳百目也、          (花押)

     (就次)

   福原大和守殿

   伊佐孫右衛門尉殿 まいる

 

 「書き下し文」

   (端書)

   「此の目録は、元清より吉田の輝元へ上げられ候ふ、向後のための重書へ相添え

    置くなり、」

      洞雲寺領之事

 雲室壽慶の位牌免

  一つ、佐方清末の内五貫百目

 興藤の位牌免

  一つ、宮内東光寺分四貫三百目

 松岩の位牌免

  一つ、坪井の内薬師寺分五貫七百目

 順覚の位牌免

  一つ、三宅の内元圓満寺分十貫百目

                       (賢逹)

    以上廿五貫二百目なり、         (花押)

   福原大和守殿

   伊佐孫右衛門尉殿 まいる

 

 「解釈」

  (端書)「この目録は、穂田元清から吉田の毛利輝元へご進上になりました。今後

       のための手継文書に加え置くのである。」

  (以下略)

 

 「注釈」

「雲室壽慶」─未詳。

「位牌免」─供養のための免田か。

「佐方清末」─廿日市市佐方字清末にあった名か。

「興藤」─友田興藤。もと厳島神主。

「宮内」─現在の廿日市町宮内・串戸。野貝原山・折敷畑山・烏帽子山の山間から流れ

     出る御手洗川の流域に開けた村。南東は地御前村、北西は玖島村。三方を山

     や丘陵に囲まれ、東方のみ瀬戸内海に面して小平野が開ける。中世には厳島

     神社領宮内庄に属した。村内の藤掛尾は永正五年(一五〇八)に桜尾城に拠

     った友田興藤と厳島神主職の継承をめぐって争った小方加賀守の居城があっ

     た地。明石・折敷畑は天文二三年(一五五四)に毛利元就陶晴賢の軍と戦

     った古戦場である。村名は永禄一一年(一五六八)七月二六日の毛利元就

     輝元連署判物(「閥閲録」所収桂久右衛門家文書)に見え、当村四一町八反

     の地が毛利氏の重臣桂元澄の五男広繁に給地として与えられている。

「東光寺」─宮内村(廿日市町宮内)に小字として東光寺という名称が残っている

      (『広島県の地名』)。

「松岩」─未詳。

「坪井」─広島市五日市町坪井・観音台

薬師寺」─円満寺と同様に、佐方にあった中世の廃寺か。

「順覚」─未詳。

「三宅」─現在の五日市町三宅・観音台

「圓満寺」─廿日市町佐方(サガタ)・五日市町佐方(サカタ)地域にあった中世の廃

      寺。現在も小字名として残る(『広島県の地名』)。

「賢逹」─洞雲寺住持、十世梅菴賢達。

「福原大和守殿就次」─未詳。穂田元清の被官か。

「伊佐孫右衛門尉殿」─未詳。穂田元清の被官か。