解題
山野井氏は中世には能美氏を称し、おそらく能美島生え抜きの庄官武士の系譜を引くものとみられるが、伊予方面との交渉が深く、長年にわたって河野氏一族と再三の婚姻関係を重ねた結果であろうか、現存の系図では河野氏の支族とされており、河野秀清の子清景が能美島へ来島し、能美(山野井)氏初代となったと記されている。二代景親 三代景真 四代真氏 五代氏重 六代重秀 七代仲次(秀依) 八代景頼(世次) 九代景秀 十代景重 十一代重久 十二代重吉とつづくが、本文書に所収されている時期は、応仁元年(一四六七)から慶長五年(一六〇〇)までであり、六代重秀から十代景重までにあたる。
二十八通の文書は巻子に仕立てられているが、その配列は雑然としており、部分的には二段に貼りつけられたり、折り紙の半分を切り落とし切紙様にしているので、編年順に配列しなおして本編へ収めた。能美島の豪族として広島湾を中心に会場に活躍する様子が知られる。一号から一六号までは大内氏・陶氏、一七号から二二号までは来島氏、二三号から二八号までは毛利氏との関係を示すものである。
一 大内政弘書状(切紙)
(惟参周省)
今度早々着岸神妙無極候、殊依二堪忍難一レ叶、既雖二出レ津候一以二保壽寺一任二申
下旨一逗留候、旁以感悦之至候、京都之儀肝要之時節候、今一左右之間在レ津可二悦
(道圓)
入一候、一段必自レ是可二申談一候、委細内藤駿河入道可レ申候也、謹言、
(応仁元年)(1467) (政弘)
⬜︎月一日 (花押)
能美若狭守代
「書き下し文」
今度早々の着岸神妙無極に候ふ、殊に堪忍叶ひ難きに依り、既に津を出で候ふと雖も、保壽寺を以て申し下す旨に任せ逗留し候ふ、旁々以て感悦の至りに候ふ、京都の儀肝要の時節に候ふ、今一左右の間津に在り悦び入るべく候ふ、一段必ず是れより申し談ずべく候ふ、委細内藤駿河入道申すべく候ふなり、謹言、
「解釈」
この度早々に到着したことは、この上なく感心なことです。とくにこらえきれず、先に津を出立しましたが、私(大内政弘)が保壽寺の惟参周省に申し下した内容のとおりに、あなたは津に逗留しています。いずれにせよこの上なく嬉しく思っております。京都のことは最も大切な時期です。今この一通のお便りを送りましたからには、そのまま津に留まってくれれば満足です。この件については、必ずこちらからご相談するはずです。詳細は内藤駿河入道が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「着岸」
─未詳。応永元年(1467)五月十日に大内政弘は山口を出発し、七月二十日に兵庫に上陸、八月三日まで兵庫に滞在し、同二十三日に入京しています(『広島県史』中世)。おそらく、大内政弘のあとを追って、能美氏が着陣したものと考えられます。
「津」─兵庫津か。
「保壽寺」
─以参周省。牧松和尚。大内教弘の子。保寿寺は山口にある大内氏と深いかかわりのある寺院で、大内氏の対外交渉を担う禅僧の拠点(貝英幸「中世後期における地域権力の対外交渉と寺院」『佛教大学総合研究紀要』別冊、一九九八・三、http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/1998/SK19981R131.pdf)。
「京都之儀」─応仁の乱のこと。
「内藤駿河入道」─未詳。