(安芸安南郡)
去廿七日、爲二夜搦一令二乗船一、仁保嶋敵船壹艘引取之由、弘中越後守注進之趣
遂二披露一候、尤神妙之由候、[ ]旨候、恐々謹言、
(大永二年) (弘中)
三月廿九日 正長(花押)
(杉)
興重(花押)
「書き下し文」
去んぬる廿七日、夜搦のため乗船せしめ、仁保嶋の敵船一艘を引き取るの由、弘中越
後守注進の趣披露を遂げ候ふ、[ ]旨に候、尤も神妙の由に候ふ、恐々謹言、
「解釈」
去る二十七日、夜に敵方を捕縛するために船に乗り、仁保島の敵船を一艘奪い取った、と弘中越後守が注進してきた内容を、大内義興様に申し上げました。「いかにも感心なことです。この称賛の内容は、くれぐれも能美氏(仲次ヵ)に申し伝えられるべきだ」、という仰せです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「夜搦」─読み方も意味も未詳。「よがらめ」とでも読むのでしょうか。夜に敵方を捕
縛にいく、ということか。大永三年(1523)友田興藤が挙兵したことに
対して、三月十八日に大内方の多賀谷・能美が仁保島に、同二十七日に府中
へ押し寄せています(『広島県史』中世)。敵方は友田興藤と結んだ武田氏
のことでしょうか。
「仁保嶋」─広島湾奥東部、府中村(現安芸郡府中町)の西南に浮かぶ仁保島を中心と
して、猿猴川を隔てて東の向灘浦と、南方海上の金輪島・宇品島・似島・
峠島・珈玖摩島(弁天島)・小珈玖摩島(小弁天島)を村域とするが、各
島とも平地は乏しい。このうち仁保島と向灘は近世に、宇品島は明治二二
年(一八八九)の宇品築港でそれぞれ陸続きとなった。室町時代には出張
城(跡地は現府中町)に拠った武田氏家臣白井氏の一族が仁保島に進出し
黄金山(仁保島山)頂に築いた仁保城を拠点にして周辺海域を治下に置い
た。その後、、天正十九年(一五九一)までに三浦元忠が仁保島の領主と
なっていて、検知の結果、当島は一三三石八斗六升とされた(『広島県の
地名』)。
「弘中越後守」─弘中武長か。6号文書の説明注に武長とあります。大内氏家臣。永正
五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守護代(『戦国人名
事典』)。