就二海上搦之儀一、警固船去月十七日夜至廿日市并能美江田嶋押懸、敵船壹艘引取之
(武長)
次第、弘中越後守注進之趣、慥被二知召一訖、弥忠節可レ爲二肝要一之由所レ被二仰
出一也、仍執達如レ件、
(1523) (杉興重)
大永三年十月四日 兵庫助(花押)
散 位(花押)
(仲次)
能美縫殿允殿
「書き下し文」
海上搦めの儀に就き、警固船去月十七日夜廿日市并に能美・江田島に至り押し懸かり、敵船壹艘を引き取るの次第、弘中越後守注進の趣、慥かに知ろし召され訖んぬ、弥忠節肝要たるべきの由仰せ出さるる所なり、仍て執達件のごとし、
「解釈」
海上捕縛作戦の件について、能美方の警固船が先月の九月十七日の夜に廿日市や能美・江田島に向かって攻めかかり、敵船一艘を奪い取った事情を、弘中越後守武長が注進し、大内義興様はたしかにご存知になりました。ますます忠節を尽くすことが大切である、と義興様が仰せである。そこで、以上の内容を通達する。
「注釈」
「警固船」─中世の水軍、海賊や敵水軍から輸送船を守る軍船。
「弘中越後守」─大内氏家臣。永正五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守
護代(『戦国人名事典』)。
「能美縫殿允殿」─七代仲次(秀依)。