周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

山野井文書7

   七 大内氏奉行人連署奉書(切紙)

 

 去三日、至厳島敵船相懸之處、警固船衆懸合即時追散、殊僕従二人被矢疵

       (越後)     (興房) (遂披露)           (之由)

 次第、弘中[  ]守書状等陶尾張守[  ]慥被知食畢、尤神妙[  ]、

          (執達)

 所仰出也、仍⬜︎⬜︎如件、

    (大永三ヵ)(1523)      (杉興重)

    [   ]年十月十三日     兵庫助(花押)

                    散 位(花押)

 

 「書き下し文」

 去んぬる三日、厳島に至る敵船相懸かるの處、警固船懸け合ひ即時追ひ散らす、殊に

 僕従二人矢疵を被るの次第、弘中越後守の書状等を陶尾張守披露を遂げられ、慥かに

 知ろし食され畢んぬ、尤も神妙の由、仰せ出ださるる所なり、仍って執達件のごと

 し、

 

 「解釈」

 去る十月三日、厳島にやってきた敵船が攻め掛かったところ、能美方の警固船が敵船に激しく攻め掛かり、すぐに追い散らした。とくに能美方の配下二人が矢傷を被った事情については、それを知らせた弘中越後守武長の書状等を、陶尾張守興房が大内義興様に披露し、たしかにご存知になった。いかにも感心なことであるとの仰せである。そこで、以上の内容を通達する。

 

 「注釈」

「弘中越後守」─大内氏家臣。永正五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守

        護代(『戦国人名事典』)。