去三日、至二厳島一敵船相懸之處、警固船衆懸合即時追散、殊僕従二人被二矢疵一之
(越後) (興房) (遂披露) (之由)
次第、弘中[ ]守書状等陶尾張守[ ]慥被二知食一畢、尤神妙[ ]、
(執達)
所レ被二仰出一也、仍⬜︎⬜︎如レ件、
(大永三ヵ)(1523) (杉興重)
[ ]年十月十三日 兵庫助(花押)
散 位(花押)
「書き下し文」
去んぬる三日、厳島に至る敵船相懸かるの處、警固船懸け合ひ即時追ひ散らす、殊に僕従二人矢疵を被るの次第、弘中越後守の書状等を陶尾張守披露を遂げられ、慥かに知ろし食され畢んぬ、尤も神妙の由、仰せ出ださるる所なり、仍て執達件のごとし、
「解釈」
去る十月三日、厳島にやってきた敵船が攻め掛かったところ、能美方の警固船が敵船に激しく攻め掛かり、すぐに追い散らした。とくに能美方の配下二人が矢傷を被った事情については、それを知らせた弘中越後守武長の書状等を、陶尾張守興房が大内義興様に披露し、たしかにご存知になった。いかにも感心なことであるとの仰せである。そこで、以上の内容を通達する。
「注釈」
「弘中越後守」─大内氏家臣。永正五年(一五〇八)、大内義興に従って上洛。山城守
護代(『戦国人名事典』)。