周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

不当な出世で大喧嘩! 出世間なのに…

  文安四年(一四四七)七月十四日条 (『建内記』9─18)

 

 十四日、甲辰、天霽、

  (中略)

 後聞、                     (雪心等柏)

 今日相國寺有物忩事、沙弥・喝食等頻悪行有閇籠之企、住持加制止、以行者・力者

 等警固之、沙弥不承引及刃傷墜命云々、禅家繁昌之餘、動如此事連續及自滅、可

       

 憐々々、此事、喝食一両人就強縁望得度、直沙門不経沙弥許容了、仍上首沙弥愁

 超越望比丘、不承引、仍催沙喝等閇籠輪蔵有喧嘩、是訴住持・都聞等云々、住持退

 院之時、沙喝以飛礫打破輿後、長老打損腰云々、

 

 「書き下し文」

 後に聞く、今日相国寺に物忩の事有り、沙弥・喝食等頻りに悪行し閉籠の企て有り、住持制止を加へ、行者・力者等を以て之を警固す、沙弥承引せず刃傷に及び命を墜とすと云々、禅家繁昌の余り、動もすれば此くのごとき事連続し自滅に及ぶ、憐れむべし憐れむべし、此の事或いは喝食一両人強縁に就き得度を望む、直に沙門(割書)「沙弥を経ず」許容し了んぬ、仍て上首の沙弥超越を愁ひ比丘を望むも、承引せず、仍て沙喝等を催し輪蔵に閉籠し喧嘩有り、是れ住持・都聞等を訴ふと云々、住持退院の時、沙喝飛礫を以て輿を打ち破る後、長老腰を打ち損なふと云々、

 

 「解釈」

 後で聞いた。今日相国寺で物騒なことがあった。沙弥と喝食たちがたびたび悪事を行い、閉籠を企てた。住持の雪心等柏は閉籠を止めようとして、行者と力者たちを使って警固した。沙弥は制止を聞かず刃傷沙汰に及び命を落としたそうだ。禅寺は賑い栄えるあまり、場合によってはこのような事件が続き、自滅する状態にまでなる。気の毒なことである。なかでもこの件は、喝食の一人か二人が強力な縁故者について出家を望み、沙弥を経ずにすぐに比丘になることを、相国寺が認めてしまったことによる。そこで、首座の沙弥が超越されたことを嘆き訴え、正式な僧侶になることを望んだが、住持は承諾しなかった。そこで、他の沙弥や喝食たちを呼び集め、転輪蔵に閉籠して喧嘩した。首座の沙弥は住持と都聞を訴えたそうだ。住持がその職を退いたとき、沙弥や喝食たちは小石を投げて、住持の乗っている腰を壊した後、住持は腰を怪我したそうだ。

 

 「注釈」

「住持」

 ─相国寺住持四九世、雪心等柏。一四四六年九月二二日〜一四五九年一月二二日(相国寺寺住持位次、http://www.shokoku-ji.jp/s_rekidai.html)。

 

「沙弥」

 ─①剃髪して十戒を受けた未熟な僧。②剃髪しているが妻子があり在家の生活をしているもの(『古文書古記録語辞典』)。

 

「喝食」

 ─禅宗で、大衆に食事を知らせ、食事について湯、飯などの名を唱えること。また、その役をつとめる僧(『日本国語大辞典』)。

 

「行者」

 ─あんじゃ。禅宗で、未だ得度せず、寺にあって諸役に給仕する者(『古文書古記録語辞典』)。

 

「力者」

 ─①公家・寺社・武家に仕えた力役奉仕者。剃髪しているが僧侶ではない。駕輿・馬の口取り、警固・使者などをつとめる。荘園領主の使者として荘園現地へ下向し、年貢・公事の催促を行うこともあった。②青色の衣を着る者を青法師、白色の衣を着る者を白法師と称した(『古文書古記録語辞典』)。

 

「都聞」─禅宗寺院の経済面を担当した東班衆の最高位の役職。

 

*寺院の世界でも、「超越」が大きな問題になっていたようです。公家の世界では、家格・正嫡庶流の違い・臨時の功績・強力な後ろ楯などによって、上位者を超越して昇進することがあったそうです。超越されて不満をもった公家は、不出仕・籠居といった抵抗の姿勢を見せる場合もあれば、出家してしまう場合もありました。道理のない超越であれば、こうした抵抗はやむなし、と社会的に容認されていたようです(百瀬今朝雄「超越について」『弘安書札礼の研究』東京大学出版会、2000年)。

 今回の沙弥の閉籠事件も、公家と同様に、超越に対する抵抗の手段だったのでしょう。ただし、暴行殺人事件にまで展開しているので、公家に比べると随分乱暴な事態になっています。当時の寺院関係者はかなり気が荒いようです。

 詳しくはわかりませんが、禅宗寺院(相国寺)では、喝食から沙弥、そして比丘へというように、だんだんと出世?していくようです。喝食から比丘へという一足飛びの出世は、道理に反した人事だったのでしょう。出世間であるはずの寺院社会にも、俗世間にあるような強力な縁故が、しっかりと反映されているようです。

 公家の世界では、抵抗が実を結んで、超越の人事が取り消されたり、被超越者が超越者をさらに超越して出世していったりすることもあったそうです(前掲百瀬論文)。今回の沙弥の比丘昇進の嘆願は認められませんでした。おそらく定員も固定されているでしょうから、比丘への昇進は見送られたのでしょうが、それにもまして喝食の後ろ楯が強力だったのでしょう。公私混淆は、公家や武家の世界だけではないようです。