周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

ムショに神輿がやってきた ─「罪穢」は存在するか?─

  応永八年(1401)五月九日条          (『康富記』1─1頁)

 

 九日丁酉 雨降、今日紫野今宮祭也、近衛西洞院獄門内構旅所、侍所所司代、又所司

 代長松奉行也、此所新儀也、先々神行之時、獄門外ニテ糟神供進之也、⬜︎獄門邊御旅

 所之由、申之歟之間如此、獄内構之條、更無先規、隨而大判事章忠并明宣相尋之處、

 獄門内旅所事亦存之由、両人共返答之、尤も彼獄内者、囚人樓舎之間、穢所争可構之

 哉、不審々々、今年洛中地口ニテ神輿造替也、凡此神疫神也、仍一條院御宇長保年

 中、於洛外紫野祭之也、勅宣歟之間、年中行事付之也、(割注)「○以上自一日迄

 此、原本缺之、」

 

 「書き下し文」

 九日丁酉、雨降る、今日紫野今宮祭なり、近衛西洞院の獄門内に旅所を構ふ、侍所所司代、又所司代長松奉行なり、此の所新儀なり、先々の神行の時、獄門外にて糟神供之を進らするなり、獄門辺りに御旅所を構ふる(カ)の由、之を申すかの間此くのごとし、獄内に構ふるの條、更に先規無し、隨って大判事章忠并びに明宣相尋ぬるの處、獄門内の旅所の事亦存ずるの由、両人共に之を返答す、尤も彼の獄内は、囚人樓舎の間、穢所に争でか之を構ふべけんや。不審々々、今年洛中の地口にて神輿を造替するなり、凡そ此の神疫神なり、仍て一條院の御宇長保年中、洛外紫野に於いて之を祭るなり、勅宣かの間、年中行事に之を付すなり、

 

 「解釈」

 九日丁酉 雨降る。今日、紫野の今宮祭であった。近衛西洞院の東獄(左獄)の門内に御旅所を設置した。侍所所司代と又所司代の長松が奉行である。この場所は新しく決まったものである。以前の神幸のときは、獄門の外で酒粕のお供えを差し上げたのである。獄門の付近に御旅所を設置することを申請していたのだろうか。このように、獄内に御旅所を設置した件は、まったく先例にない。したがって、刑部省大判事中原章忠と明宣に尋ねたところ、獄門内に御旅所を設置することは存じていると、二人とも返答した。ただし、左獄内は囚人を収容した建物なので、罪で穢れた場所にどうして御旅所を設置することができようか。不審なことである。今年、洛中の地口銭によって、神輿を造り替えたのである。そもそもこの神は疫神である。だから、一条天皇の御代長保年中(999〜1004)に、洛外の紫野でこの神を祭ったのである。勅宣によって執行された祭だろうから、年中行事にこの祭を付け加えているのである。

 

 「注釈」

「紫野今宮祭」

 ─京都市北区今宮町。船岡山の北、大徳寺の西北に鎮座。祭神大己貴命・事代主命。『日本紀略』正暦五年(994)六月二七日条によると、船岡山一帯は疫病流行の折、それを送る御霊会が行われる地の一つであった。『日本紀略』長保三年(1001)五月九日条によると、船岡山北嶺の紫野に新しく神殿を造営し今宮社と名付けた。これが今宮社・紫野社と呼ばれる今宮神社の創建である。以後、五月九日が今宮社御霊会、紫野御霊会という名称で官祭として定着する。中世後期の今宮社やその祭礼については不詳であるが、近世初期には、紫野・上賀茂・西賀茂一帯の総鎮守的尊格を持つ社として記される(『京都市の地名』)。今宮神社HP(http://www.imamiyajinja.org/jpn/imamiya_JPN/toppu.html)。

 

「近衛西洞院獄」

 ─左京にあるため東獄とも左獄とも称された獄舎(『京都市の地名』)。

 

「侍所所司代

 ─侍所所司(頭人)は赤松義則で、所司代は浦上美濃入道(助景カ)(今谷明『守護領国支配機構の研究』法政大学出版局、一九八六。桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。

 

「又所司代長松奉行也」

 ─又所司代(小所司代)は所司代の代官で、長松は浦上美濃入道の被官と考えられます(今谷明『守護両国支配機構の研究』法政大学出版局、一九八六)。ここでは所司代・又所司代が奉行と記載されています。はっきりしませんが、祭全体の奉行というよりは、左獄に御旅所を設置した責任者というぐらいの意味ではないでしょうか。獄舎の管理は侍所の職務でもあるので、このように記載されたものと考えておきます。

 

「申之歟之間如此」

 ─この箇所もよくわかりません。「申之歟之間、如此〜」のように読点を打ち変え、「之を申すかの間、此のごとく〜」のように書き下したほうがよいのではないかと思います。

 

「大判事章忠」

 ─中原章忠か。刑部省は争訟を裁判し、罪人を処刑する役所で、囚獄司(左右の獄舎を管理する役所)を支配する。大判事は刑部省の職員で、訴訟を裁判し、罪人の刑名を定めることを職務としている。検非違使の権力が強くなったことで、刑部省職掌もそちらに移って、のちには有名無実化する(『新訂 官職要解』)。室町時代では、獄舎の管理を侍所が担っていたそうですが、もとは刑部省の管轄であったため、大判事である中原章忠らにも尋ねたのだと考えられます。

 

「明宣」

 ─未詳。坂上氏か(桃崎有一郎『康富記人名索引』日本史史料研究会、二〇〇八)。

 

「地口」

 ─よくわかりません。『日本国語大辞典』によると、「道路面に沿った地域の長さ、また、家屋の間口をいう」という意味と、「地口銭の略」という意味があります。「地口銭」は、「中世、京都・奈良市内の家屋に対して臨時に課せられた税」という意味です。したがって、①「洛中の道路に面した場所で」、②「洛中に賦課された地口銭によって」、という二通りの解釈が考えられそうです。ここでは、②のほうで訳しておきます。

 

 

*今宮神社のお神輿が、刑務所にやってきました。囚人の慰安でしょうか? そんな福祉的発想なら、おもしろいのですが…。

 さて、この一件には、少し問題がありました。記事によると、もともとは刑務所の門外に御旅所を設置して、お神輿にお供えを差し上げていたようですが、今回は新儀として、刑務所の門内に御旅所を設置してしまったのです。この処置に対して記主中原康富は、不信感をあらわにしています。その理由は、刑務所が穢れた場所だったから。不浄や穢を嫌う神様を、穢れた刑務所の門内にお連れすることは、信じられない行為だったようです。

 ここで、いくつか疑問がわいてきます。その1つ目は、なぜ刑務所が穢れた場所(穢所)と認識されたのか、ということ。もっと言えば、刑務所で発生している穢とは、どんな種類の穢なのか、という点です。罪を犯した人間は穢れている。つまり、「罪穢」(犯罪穢)が発生している、と考えられそうですが、実はそう簡単には定義づけられないようです。

 罪と穢の問題は、中世史を理解するうえで、大きな論点になっているそうです。その代表的な研究に、勝俣鎭夫「家を焼く」(『中世の罪と罰東京大学出版会、1983)があります。この研究によると、犯罪によって穢が発生する、そして罪人の住宅を破却・焼却することで、その穢を領域内から除去するのだそうです。この見解に対する批判は多く、渡邉俊「穢・祓の解釈と中世法慣習研究史」、井上聡「家を焼くこと」(『歴史評論』779、2015・3)で、研究史の整理がなされていますが、渡邉論文によると、そもそも「罪穢」(犯罪穢)という言葉自体の存在が、古代・中世史料に基づいて実証できていないのだそうです。難しくてよくわからないのですが、おそらく、史料用語としての「罪穢」は存在せず、分析概念としての「罪穢」が一人歩きして研究が進められた、という状況なのだと思います。「穢」の代表的な種別は「死穢」「血穢」「産穢」で、「罪穢」という種別・用語はないのでしょう。

 そうすると、この史料に現れた刑務所は何によって穢れ、「穢所」と認識されたのでしょうか。囚人たちがどんな罪を犯して投獄されたのかはわかりませんが、なかには傷害・殺人事件を引き起こし、死穢や血穢を負っていたものもいるかもしれません。したがって、罪そのものを穢と認識しているのか、犯罪行為の結果による死穢・血穢と認識しているのか、速断はできません(坂井孝一「『清祓』少考」『創価大学人文論集』4、1992・3、 

http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/2739/1/KJ00004860350.pdf)。ですが、「囚人樓舎之間、穢所争可構之哉」(囚人を収監している建物であるので、このような穢れた場所に御旅所を設置することはできまい)と記載していることから、死穢・血穢をことさら問題にしているようにも思えません。この解釈が妥当であればの話ですが、罪人の収容所だから穢れている、と素直に解釈してもよいように思います。

 そもそも「罪穢」という言葉は、江戸時代の本居宣長の解釈以降に生まれた用語だそうです(前掲渡邉論文、水本正人「書評 大本敬久『触穢の成立 日本古代における「穢」概念の変遷』」『部落解放研究』199、2013・11、

http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0199-12_mizumoto.pdf)。そうすると、中世後期は「罪」と「穢」が結び付きはじめ、「穢」の一種として概念化されつつある過渡期だったのかもしれません。記主中原康富は刑務所内に御旅所を設置したことに不信感を抱いていますが、所司代と又所司代は先例を破って行動に移し、大判事中原章忠と明宣はそれを知っているとだけ返答しています。おそらく容認しているのでしょう。「罪」は「罪」だという感覚と、「罪」は「穢」でもあるという感覚が並存していたのかもしれません。少なくとも、「罪穢」という意識はあるにせよ、一般化していないことだけは明らかです。

 

 では、なぜ「罪」は「穢」になりきれなかったのでしょうか。今回の史料に現れた「穢」は、分析概念としての「罪穢」でよいのだと思いますが、記主中原康富自身も「罪穢」とは記していません。おそらく、刑務所を漠然と穢れていると考えているだけで、「罪穢」という明確な用語は、当時存在していなかったのでしょう。

 こうした状況は、法律の整備過程に似ているような気がします。たとえば、ストーカー規制法。法律制定以前、多くの人々にとってストーカー行為は、何となく悪いことのような気がしていたはずです。しかし、ストーカー行為を定義し、規制した法律がなかったため、違法行為であると見なすことはできませんでした。いわゆるグレーゾーンだったはずです。

 「罪穢」もこれと同じではないでしょうか。中世における穢への対処法は、「物忌令」という法令に記載されています(井原今朝男「中世葬送を担った僧俗と物忌」、「伊勢神宮と仏教の相関」『史実中世仏教』第二巻、興山舎、2013)。すべての「物忌令」をきちんと読んだわけではないのですが、井原論文で引用されている箇所を見ても、「罪穢」という史料用語は出てきません。やはり、「罪」は「穢」になりきれていないのでしょう。それだけでなく、対処法が確立されてないから、「罪穢」は「物忌令」に記載されていないのかもしれません。

 罪人や刑務所は何となく穢れているように感じるが、それを規定した「物忌令」はないし、対処法も確定されていない。対処法がないから、新たな「穢」として認定できないし、普及もしない。「罪穢」は、法的な「穢」であると言明できないグレーゾーンにあったと言えそうです。ここでは、このような穢を「罪穢意識」と呼んでおきます。

 

 では、なぜ「罪穢」は法整備されなかったのでしょうか。実は、「罪」を「穢」とすると、厄介な問題が起こりそうなのです。すべての研究を読んでいないので何とも言えないのですが、まず以下のことがはっきりしません。それは、「罪穢」が罪人から生じているのか(人の罪穢)、罪人の住宅や犯行現場で生じているのか(場の罪穢)、その両方か、という点です。

 まず、「場の罪穢」について考えてみます。もし死穢や血穢が発生したならば、その穢物(死体や血痕など)や穢が付着した場所を洗浄・撤去し、注連縄を張る「清」によって、原状回復をすればよいことになります(渡邉俊「鎌倉期春日社における清祓祭物の徴収とその配分」『中世社会の刑罰と法観念』吉川弘文館、2011、211頁)。ところが「罪穢」の場合、たとえば盗犯であれば、何が「穢物」にあたり、どうすれば原状回復になるのかがよくわかりません。つまり、対処法がはっきりしないのです。

 次に、「人の罪穢」について考えてみます。刑務所の「穢」は、明らかに囚人(罪人)が持ち込んだものです。したがって、中原康富は、罪人自身から「穢」が発生している、と考えていたようです。前述のように、罪人の「穢」は犯罪行為の結果生じた「死穢」「血穢」である可能性もありますが、「死穢」「血穢」ならば、「物忌」(精進潔斎)によって消滅させる(消えるのを待つ)ことができるはずです(前掲井原論文)。しかし、刑務所に「穢」を感じているということは、罪人の「穢」は消滅していないことになります。やはり、罪人の「穢」は、「死穢」「血穢」とは異なる「罪穢」であった、と考えたほうがよいと思います。

 刑務所は罪人が収監される場所ですから、新たな罪人が発生すれば、新たな「罪穢」が刑務所内に持ち込まれ続けるはずです。刑務所は穢れっぱなしです。そんな刑務所の「罪穢」を、役人たちはそもそも消滅させようと思っていたのでしょうか。前掲井原論文によれば、「穢所といっても垣があって門を別にすれば穢とはならない」という規定が、中世にはあったそうです。つまり、刑務所は穢れっぱなしでも、罪人と接触しない人々にとっては、まったく問題がなかったのかもしれません。

 こんなことを考えたのは、もう一つ穢れっぱなしの場所があることに気づいたからです。それは、「死穢」にまみれた葬送地です。葬送地は穢れているはずなのですが、中世人はいったいどのように考えていたのでしょうか。恒常的に「穢」が持ち込まれ続ける、刑務所や葬送地のような場所では、その「穢」を消そうという発想そのものがなかったのではないでしょうか。むしろ、そこに封じ込めておくぐらいの感覚だったのかもしれません。ひとまず、「罪穢」は刑務所内に放置しておく。罪人に関与しない人々にとっては、これでよかったのかもしれません。今回の史料を見ても、先例どおり刑務所の門外に御旅所を設置することは問題になっていません。門内だからこそ、康富は不信感を抱いているのです。「罪穢」は対処法が立てにくい。これが、「罪穢」が法的概念として整備されず、「罪穢意識」にとどまった理由ではないでしょうか。

 それにしても、所司代浦上と又所司代長松は、何を思って御旅所を獄舎門内に設置したのでしょうか。とくに、何も考えてなかったのでしょうか。大したことではないと思っていたのでしょうか。それとも、何か特別な意図でもあったのでしょうか。ひょっとすると、神幸によって刑務所の穢を消滅させようとする目的があったのかもしれません。今宮の神は、もともと災いや悪病をもたらす疫神です。この神をお迎えしお祭りすることで、刑務所に溜まった「罪穢」も消してしまおうと考えたのではないでしょうか。

 とりとめもないことを書き連ねましたが、たかだか一日分の記事を、想像をめぐらしながらじっくり読んでみるのも、なかなかおもしろいものです。(2019.2.2改稿)

 

*この史料については、「囚獄司跡」(『京都市の地名』)、内田みや子「京都今宮祭における鉾町の形成過程」『関西大学博物館紀要』一九、二〇一三・三、http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/8246/1/KU-0200-20130331-07.pdf)で触れられています。

 

 

*『康富記』(『国史大辞典』より)

 室町時代中期の外記局の官人で学者の中原康富の日記。その立場からみたこの時期の公家社会の実態、室町幕府をはじめとする武家の動静についてくわしく記述されている。朝儀・叙位・除目については関係文書を貼り継いだ箇所もある。隼人司・主水司・大炊寮の各所領のほか家領の経営にもくわしいほか、中原一族をはじめ他の地下官人たちの生活ぶりや所領問題にも多くの記載がある。学問をもって諸家に出入りし、そのほか和歌・連歌や猿楽など文芸・芸能の記事も豊富で、十五世紀前半の政治・経済・社会・文化を通じて重要史料である。

 

 

*2020.3.7追記

 上記の考察で触れていなかったことに、なぜ「罪」と「穢」が結びつくのか、という問題があります。これについては、次の指摘が参考になります(藤原良章「中世前期の病者と救済」『中世的思惟とその社会』吉川弘文館、1997、初出1985)。

 

 日本中世社会において、病者等と並んで非人視されていた人々として、囚人・放免等といった人々が存在していた。この、一見たいして関係のなさそうな二つの集団の本質的共通点といえば、両者共に所謂罪人として認識されていたことに他ならない。病や「不具」は、現在・過去に犯した「罪」の報いであったし、囚人・放免についてはいうまでもあるまい。それは中国や、既に見たヨーロッパの病者等にも共通することである。(中略)

 このように、病等を罪の報いとする認識が一般的に存在したのであるが、それはまた、病が「非日常的な不浄なものであると」認識されていたとも言うことができる。そして、犯罪の発生が、同じく穢=不浄の発生と認識され、たとえば日本中世社会においても、犯罪によって生じた荘園内の災気を除去するために犯人が領内から追放されたことを見るならば、病者等と犯罪者は、ほとんど同じレヴェルで、穢れた「罪人」として把握されたことであろう。(123・124頁)       

 

 即ち、彼ら(獄舎の囚人等や)もまた、まさしく肉刑によって人にして人に非ざる非人とされ、やはり社会から追放された人々だったのであり、同じく非人視された病者等と囚人等とは、ともに「罪」の報いとして可視的に「五体非常」・異類異形とされた「罪人」として把握された人々だったと規定されよう。(125頁)

 

 即ち、前に見た、囚人等の非人と、病者等の非人を時期的に比べると、まず初めに非人として登場したのは、前者、すなわち囚人・放免の類だったのであり、この世での非人視が、使庁・獄舎の周辺で発生したことが確認される。(中略)

 とすれば、こうした囚人等に対する非人観が拡大されるにつれて、十二世紀ごろ、「罪」の報いなどによって病となり、「不具」となった人々をも「非人」視するようになった、と想定することも容易である。(131頁)

 

 以上の指摘を踏まえると、「罪」と「穢」がどのように結びついてきたのかが見えてきます。つまり、

 

 ①囚人や放免といった罪人たちは、肉刑(火印を面上に捺す・指切り・足切り・本鳥切り・片鬢剃りなど)によって異類異形の姿となり、非人視された。

 

 ②もともと非人と呼ばれていたのは罪人であったが、異類異形の姿や罪の報いという共通点によって、病人や不具者も非人視されるようになった。

 

 ③病人等の非人は不浄で穢れている。そのアナロジーとして、罪人等の非人も不浄で穢れている、と見なされるようになったのではないか。

 

 このような類推思考が中世びとの間で生み出されたことによって、「罪穢意識」が発生したと考えられます。