二二 来島牛松(通総)書状(切紙)
(伊豫喜多郡) (村上) (不ヵ)
今度下須戒之儀、伐執之刻ニ辛労之段、吉繼申聞之様候、御心懸之趣被⬜︎⬜︎⬜︎可レ
有二忘却一候、猶河内守可レ申候
元亀二(1571)
七月晦日 牛松(花押)
(景重)
能美右近助殿 まいる
「書き下し文」
今度下須戒の儀、伐ち執るの刻に辛労の段、吉繼申し聞かするの様に候ふ、御心懸の
趣[ ]忘却有るべからず候ふ、猶ほ河内守申すべく候ふ、恐々謹言、
「解釈」
今度の下須戒の戦の件では、敵方の矢野氏を討ち取るときに苦労したことを、村上吉継が我々に知らせました。お心構えをなさることを忘れてはなりません。なお、詳細は河内守村上吉継が申し上げるはずです。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「下須戒」─喜多郡長浜町下須戒。肱川河口から二キロ上流にさかのぼった左岸地域と
支流大和川流域にまたがった村。肱川河岸の大陰城には、天文─天正年間
(一五三二〜九二)にかけて初め下須戒氏のち矢野氏が居城して、進行し
てきた河野・毛利・長宗我部の軍勢と戦い、永禄一一年(一五六八)と元
亀三年(一五七二)の二度にわたって陥落した。最後の城主矢野正孝(正
高)は、天正一五年下野し、孫の代から当村の庄屋となり、以後世襲した
(『愛媛県の地名』)。
「吉繼」─村上吉継。河内守。来島村上氏の有力家臣。川岡勉「永禄期の南伊予の戦乱
をめぐる一考察」(『愛媛大学教育学部紀要 人文・社会科学』第36巻
第2号、2004・2、
http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/2.pdf)。
「牛松」─来島通総。来島通康の子。通総の代になると、河野氏を裏切って織田方に味
方するようになります(「湯築城だより」5号、http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/kankobutsu_hoka/yudukijo_dayori/yudukijo_dayori5.pdf)。
「能美右近助殿」─十代景重。