二三 千親書状(切紙)
(廣家) (經忠)
吉川殿御家中今田中務殿御返候条、得二幸便一令レ啓候、其以来以二書状一不レ申
候、其元被レ成二御有付一候哉、態以二飛脚一御見廻可レ申之処、手前取紛無沙汰令二
迷惑一候、就而者黒甲斐 小攝 加主手前之儀、是又無二心元一候、便宜御座候者、
様子被二示下一候者、可レ爲二本望一候、釜山浦表珎敷事無レ之候、可二御心易一
候、恐々謹言、
(慶長元年ヵ)(1596) (ヵ)
十一月六日 千親(花押)
「書き下し文」
吉川殿の御家中今田中務殿の御返候ふ条、幸便を得て啓せしめ候ふ、其れ以来書状を以て申さず候ふ、其元御有付に成られ候ふか、態と飛脚を以て御見廻り申すべきの処、手前取り紛れ無沙汰し迷惑せしめ候ふ、就いては黒甲斐・小攝・加主手前の儀、是れ又心元無く候ふ、便宜御座候はば、様子を示し下され候はば、本望たるべく候ふ、釜山浦の表珍しき事之無く候ふ、御心易かるべく候ふ、恐々謹言、
「解釈」
吉川広家殿のご家中今田中務経忠殿がお返事をくださいましたので、ちょうどよいついでを得て手紙を書きました。それ以来、書状を送り申し上げておりません。そちらは落ち着きましたでしょうか。わざわざ飛脚を遣わして見廻りをなさるように申し上げるべきでしたが、こちらは他のことに気をとられ、申し上げることができず、迷惑をかけました。そういうわけで、黒田甲斐守長政・小西摂津守行長・加藤主計頭清正・こちらのことは、これまた気がかりなことです。お手紙を送るのに都合のよいことがあり、そちらの様子を教えてくださるなら、私は満足するはずです。釜山浦の様子で変わったことはありません。ご安心ください。以上、謹んで申し上げます。
「注釈」
「吉川殿」─吉川広家。1561〜1625(永禄4〜寛永2)織豊期・江戸初期の武
将。蔵人。初名経言。父は元春。1587(天正15)兄元長の死により
家をつぎ出雲富田に居城。14万石。関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の主
将となったが、広家は徳川家康に内通して毛利軍の参戦を阻止し、毛利氏
の保全に奔走。輝元は周防・長門2国を確保できた。1600(慶長5)
岩国3万石を毛利氏から与えられた(『角川新版日本史辞典』)。
「今田中務殿」─今田経忠。吉川氏の一門。
「有付」─落ち着くこと(『日本国語大辞典』)。
「黒甲斐」─黒田甲斐守長政。1568〜1623(永禄11〜元和9)織豊期・江戸
初期の武将。福岡藩主。筑前守。父は孝高。播磨の人。豊臣秀吉に仕えて
転戦し、1589(天正17)家督を相続して豊前中津城主となる。文
禄・慶長の役に従軍。関ヶ原の戦功により筑前一国52万3100石を与
えられ、福岡城を築いた(『角川新版日本史辞典』)。
「小攝」─小西摂津守行長。?〜1600(慶長5)織豊期の武将、キリシタン大名。
通称は弥九郎、摂津守、洗礼名アグスチノ。父は堺の豪商小西立佐。はじめ
宇喜多氏、のち豊臣秀吉に仕えて舟奉行となり、1588(天正16)肥後
宇土12万石を領した。文禄・慶長の役には先鋒として出陣し、明の沈惟敬
と講和交渉を行う。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、敗れて処刑された(『角
川新版日本史辞典』)。
「加主」─加藤主計頭清正。1562〜1611(永禄5〜慶長16)織豊期の武将。
通称虎之助。尾張の人で豊臣秀吉と同郷。幼少より秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦
いなどで多くの戦功があった。1585(天正13)主計頭。1588肥後
半国を与えられて熊本城主となる。文禄・慶長の役に奮戦したが、石田三成
らと対立。関ヶ原の戦いでは東軍の中心で、戦後に肥後一国54万石を与え
られた。1603(慶長8)肥後守。1611二条城での徳川家康と豊臣秀
頼の会見を実現させた。名護屋城の設計など、築城・治水・干拓の名手でも
あった(『角川新版日本史辞典』)。
「千親」─未詳。
*差出人の「千親」の立場がはっきりしないので、解釈もよくわかりません。『広島県
史』はこの文書を慶長元年に比定しているので、朝鮮出兵のころの史料なのだと思い
ます。