五 福王寺僧官人数記寫
福王寺之僧官位事
權少僧都 五人
權律師 十人
阿闍梨 十人
右廿五人、永代爲二寺官一昇進之事、不レ可レ有二子細一候、此外不レ可レ有二競望之
儀一候也、
(1460)
長禄四年八月廿七日 安祥寺權大僧都隆快
判
福王寺
別當御房
「書き下し文」
福王寺の僧官位の事
権少僧都 五人
権律師 十人
阿闍梨 十人
右廿五人、永代寺官として昇進の事、子細有るべからず候ふ、此の外競望の儀有るべ
からず候ふなり、
「解釈」
福王寺の僧官位のこと
権少僧都 五人
権律師 十人
阿闍梨 十人
右の二十五人は、永久に寺官として昇進することに異論があるはずもない。この他は競望してはならないのです。
「注釈」
「権少僧都」─僧正について僧侶を統括する僧官。大僧都・権大僧都・僧都・少僧都・
権少僧都の五等にわかれている(『新訂 官職要解』)。
「権律師」─僧綱第三位の僧官。律師には、大律師・(中)律師・権律師がある(『新
訂 官職要解』)。
「阿闍梨」─一般に弟子を教え、その師範となる高徳の僧の尊称(『日本国語大辞
典』)。僧綱(僧官の場合、僧正・僧都・律師)の次の職分を有職(うし
き)と呼ぶが、そのうちの一つ。
「安祥寺」─1号文書の注釈参照。
「隆快」─出自の詳細は不明。幼少より高野山に居住して、同山宝性院に相承された安
祥寺流(真言宗小野流の一つ)を、宝性院成雄から伝授された僧侶。長禄四
年(一四六〇)までには、高野山を離れ、拠点を西安祥寺(上安祥寺・大勝
金剛院・山科区上野)に戻した。隆快が拠点を西安祥寺に移して以後、嫡系
安祥寺流の活動が活発化する。以前の伝法・教学等の門弟養成を中心とした
活動から、失地回復の訴訟等、法流復興のための積極的な活動が現れ始め
る。隆快はその活動を支えるための収入を得るために、積極的な法流伝播活
動を開始する。隆快の関する一連の福王寺文書(1・5・6号文書)は、こ
の結果と考えられています(鏑木紀彦「中世後期の安祥寺流について─隆
快・光意の事跡を中心に─」『ヒストリア』257、2016・8)。
「福王寺別当御房」─未詳。寛雅か。
*安祥寺の隆快が、福王寺の僧官の人数を規定した文書。福王寺では阿闍梨から権律
師、そして権少僧都へと出世していくのだと思います。福王寺の寺僧たちは、この三
つ以外の僧官を望むことはできなかったのだと思います。