二一 別當僧正某安堵状寫
別當僧正書判
新熊野社領安藝国三入庄領家職事、任二相傳一令二知行一候、有レ限社役以下任二先
例一無二懈怠一、可レ被レ致二其心得一之由別當僧正御房所レ仰也、仍執達如レ件、
(1368)
應安元年八月十三日 權大僧都書判
權大僧都御房
「書き下し文」
新熊野社領安芸国三入庄領家職の事、相伝に任せ知行せしめ候ふ、限り有る社役以下先例に任せ、懈怠無く其の心得を致さるべきの由別当僧正御房仰する所なり、仍て執達件のごとし、
「解釈」
新熊野社領安芸国三入庄領家職のこと。相伝の内容のとおりに、権大僧都に知行させます。重要な社役などは、先例のとおりに怠ることなく心がけなさるべきである、と別当僧正御房が仰せである。よって以上のことを下達する。
「注釈」
「新熊野社」
─現在の東山区今熊野椥ノ森町。東大路通の西側に位置する。鳥居は東面して東大路通に向かうが、拝殿・社殿はともに南面する。祭神は伊弉冊命。現在の祭日は五月五日。熊野信仰の高まりのなかで、後白河院が紀州熊野権現本宮の祭神を勧請し、院御所である法住寺殿の鎮守としたのに始まる(『京都市の地名』)。
「三入庄」
─現在の広島市安佐北区可部町大林・上町屋・下町屋・桐原(とげ)・上原付近を領域とする。養和元年(一一八一)十二月八日の後白河院庁下文案では新熊野社領三入庄となっており(「新熊野神社文書」)、以後は同社領荘園として存続する(『講座日本荘園史9 中国地方の荘園』)。
「別当僧正」─未詳。
「権大僧都」─未詳。