周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

福王寺文書22 その7(完)

   二二 安藝国金龜山福王寺縁起寫 その7

 

*本文に記載されている送り仮名・返り点は、もともと記載されているものをそのまま

 記しています。ただし、一部の旧字・異体字正字で記載しています。また、本文が

 長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

     續記

 夫聖–賢道契焉、「辶+本」–作義遠矣、旣歴于世而傳

 于今而酌事、當–山至大–古者雖風–塵仿彿、但因

                     (マ丶)

 前–賢之遺–脩弛–張之事–歴、聊效者記尒、

 熊谷伊–豆守平信直公信スルコト 當–像矣、天–正二甲戌年夏

 六–月廿四日登–山尊–像之時、靈–龜浮池–面、長五–尺有–余

 其甲金–色喉赤無恐、少クアツテ焉沈、公、聞説弘–法大–師

 開–基之後未見者、是希–代之奇–事也、予鄙–拙薄–信ニシテ

 見コト之者可也ト矣若乎感乎、僉曰、公至–誠也ト焉、此後

 益信–敬、自尒登–山之人臨、雖風度水動皆欲シテント

           (十一)

 龜而企–𨀉矣、天正癸未年御室法–親–王遊之時、登當山

 聞山–像之縁–起、見神–石之形–色、喟–歎シテフニ寺–僧

 名之字及門–弟焉、苟一–寺之榮–望也、卒シテ

 寄可–畏之人

     (1590)

     天正十八年五月日       法印學雄

  右縁起相傳有數本者詞筆鄙拙、今住持學譽有才調窈憾焉、

  然恥自衒而要予筆、予不能固辭卒染毫、

                 埜峯寶光雲石堂

  釋自休登當山之佳什書于此備不失焉、

  題福王寺

 攀嶮登臨之字路 始知身在梵天宮 數聲清聲人間外 一箇閑僧法界中

 湛水接藍浸碧澗 青山擎筆聳虚空 偉哉不動明王境 萬像同揚古佛風

                     尺自休

   余書此一巻、鄙懐一絶贅後俲顰者、可絶倒焉、

   嘗聞靈驗亦風流 爽氣絶塵人豁眸 想像古今書一巻

   「ム+ム+几」毫慵坐若之遊

   おわり 

 

 「書き下し文」

 夫れ聖賢の道に契ひ、「辶+本」作の義遠し、既に世を歴て実を伝へ今に欽みて事を

 酌ぐ、当山太古のごとくに至るは風塵彷彿と雖も、但だ前賢の遺修に因りて以て弛張

 の事歴を知る、聊か顰みに倣ふ者後に記して云ふ、

 熊谷伊豆の守平信直公当像を信奉すること尚し、天正二甲戌の年夏六月廿四日登山し

 尊像を拜するの時、霊亀池面に浮かぶ、長け五尺有余、其の甲金色、喉赤く恐るる所

 無し、少くあつて沈む、公の曰く、聞き説く昔弘法大師開基の後未だ其の見る者を聞

 かず、是れ希代の奇事なり、予鄙拙薄信にして既に之を見ることは謂ふべき幸ひなり

 と、若し時か感ずるか、僉曰く、公の至誠なりと、此の後益々信敬す、而るにより登

 山の人池に臨み、風度を水動と雖も皆亀を見んと欲して企𨀉す、天正癸未年御室法親

 王此の州に遊ぶの時、当山に登り、山像の縁起を聞き、神石の形色を見る、喟歎して

 且つ寺僧の名を賜ふに学の字及び門弟に公の字を以てす、苟に一寺の栄望なり、卒に

 記して可畏の人に寄す、

     天正十八年五月日       法印学雄

  右の縁起相伝数本有るは詞筆鄙拙なり、今の住持学誉才調に窈憾有り、

  然して自衒を恥じて予の筆を要む、予固辞するに能はず卒に毫を染む、

                 埜峯寶光雲石堂

  釈自休当山に登るの佳什此に書き備へて失はず、

  題福王寺

 嶮に攀じり登り臨むの字路 始めて知る身の梵天宮に在るを

 数聲清聲人間の外 一箇の閑僧法界の中

 湛水藍に接し碧澗を浸す 青山筆を擎ぐるがごとく虚空に聳ゆ

 偉なるかな不動明王の境 万像同じく古仏の風を揚ぐ

                     釈自休

   余此の一巻を書く、鄙懐一贅を絶えす後顰みに倣ふ者、絶倒すべし、

   嘗て聞く霊験亦た風流 爽気塵を絶えし人眸を豁く 古今の書一巻を想像す 

   (ム+ム+几)毫慵く坐して之くのごとく遊ぶ

   おわり

 

 「解釈」

 そもそも聖人や賢人の道に叶い、「辶+本」作の義はまだ遠い。すでに歳月を経て真実を伝え、今謹んで事実を語り継ぐ。当山の大昔の姿は、風に吹かれて舞い上がる砂や埃によってぼんやりとさせるけれども、ただ前代の賢人たちの遺した慣わしによって、おおよその歴史を知ることができる。いくらか人の真似をするもの(私・学雄)が後代のために記して、このように言う。

 熊谷伊豆守平信直公が不動明王像を信じ尊んで久しい。天正二年甲戌(一五七四)六月二十四日に登山し尊像を拝んだとき、霊妙なる亀が池の水面に浮かんだ。長さは五尺余り、その甲羅は金色で喉は赤く、恐れるところはない。しばらくして沈んだ。熊谷信直公が言うには、「聞いたところによると、昔、弘法大師の福王寺開創以後、いまだ神亀を見たものを聞いたことはない。神亀の出現は世にも希な不思議なことである。私は品性が劣り信仰心も薄くて、すでにこの亀を見たことは、言葉にできないほどの幸運である」と。もしかすると時運に恵まれたのだろうか。みなが言うには、「信直公がこのうえなく誠実であるからだ」と。この後ますます信じ敬った。それ以来、登山した人々は池に向かって、風が吹き水が動こうとも、みな亀を見たいと企んでじっとしていた。天正癸未年(一五八三)御室任助法親王安芸国に遊行なさったとき、当山に登り、山の不動明王像の由来を聞き、霊妙なる石の形や色をご覧になった。感嘆して、そのうえ寺僧の名前として、学の字と門弟に公の字をお与えになった。本当に福王寺全体の栄誉である。こうして記し、畏れ多い後代の人に託す。

     天正十八年五月日       法印学雄

  右の縁起で相伝されたものは数本あるが、その表現や内容は稚拙である。今の住寺学誉の文才には少し物足りないところがある。

  だから自らひけらかして縁起を作成することを恥じて、私に書くように求めた。私は固辞することはできず、とうとう筆を染めた。

                 埜峯寶光雲石堂

  釈自休が当山に登ったときの優れた七言律詩をここに書き留めて失わないようにした。

  題は福王寺。

 険しい山によじ登り対面した美しい道。そこで初めて梵天の住む宮殿にいることを知った。数々の美しい声は人間の住む世界の外から聞こえ、一人の僧が静かに法界のなかにいる。湛えられた水は藍色に近く、緑の谷間を満たしている。木々で青々した山は筆を高く持ち上げたかのようで虚空に聳え立っている。偉大であることよ、不動明王の霊域は。さまざまな仏像は、どれも古仏の趣を示している。

                     釈自休

   私はこの縁起一巻を書いた。私の感懐がすべての無駄なものを消した後、人に倣って縁起を書いたことは、驚きのあまり倒れそうになってしまうほどだ。

   かつて当寺の霊験や風雅な趣を聞いた。爽やかな雰囲気は塵を絶やし、人は瞳を開く。昔から今までの縁起一巻に思いを巡らす。鋭く筆を進めるのに気が進まず、座ったままこのように書いた。

   おわり

 

 「注釈」

「效顰」─「顰みに倣ふ」のことか。人に倣って物事をする。

「𨀉」─「佇」のことか。

「御室法親王」─任助法親王厳島御室(大聖院)、伏見殿貞敦親王第四子

        (仁和寺ホームページhttp://www.ninnaji.or.jp/chronicles.html)。

「ム+ム+几」=「ム+ム+凡」。読み「タイ・ダイ」、意味「するどい」。