周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

須佐神社文書 その5(完)

 一 須佐神社縁起 その5

 

*本文が長いので、いくつかのパーツに分けて紹介していきます。

 

 一ひごのくにせらごおりひち村、むとうざんきおんしやふじやこずてんのふちん

  ざしだいき

  座次第記

        さんじや

                          おうミやうちこさつす

  ひかしにじやどくきちんてんのふ、なかにこずてんのふ大宮内座、

  西しやふしよいてんのふ

        まつしや

  ほんみやよりひがしにいざなぎいさなみ、わがきんたち八王子、

  ほんミやにしにりやふぐうじやふにてのきさきはりさいによ、御しんかうの時、

  をふ

  大ごせんとゆふ、

    さんはんのおどり、しるすおよばず、

  どうてんに、いつくしまさん所、みたらしみつはめの明神、りふおうやしろ、

  おふやまづみのめうぢん、さんのふ七社の別宮、

    さいれいしんかふのしだい、おんさきはらいわ、ひゑの治郎左衛門、

  いちのみこし、ゆきざね、ゆきもり、むねかね、おんとも、こんのいち、ねき、

  はなみこいつきん、ありやふみこにきん、くろふ十町いつきん、この際、をふつゞ

  みかき二人わ、よりとうのけんご、ゆきざねのけんごなり、いかみのいろぶし、

  やす國の色ぶしはなみこ九らとまちいつきん、

          さき

    さんのふの御先はらいねき

                              みこざ

  二のみこし、な羅びなし、きわゝ、物申かすがい、物申の座わ、神子座になおり

                                 

  申し、きわに、たわのなんしたなもり、きわに、いかみの神子さたひ路、みここぎ

                         がわ

  ふたちのさんまいそふのいち、こんのいち、壹ねん替り、

    のりじり、おんさきはらい、たかやま、

  さんのみこし、そふのいち、こくそふさしずしだい、かふぎやくかんぬし

  まとわり、をんともにて候、きわに、くぞうふ六人やぶさめにとしゝゝ壹人つゝ

                     かへ     しゆじふ

  かわるゝゝゝ出て申候、さんだいのみこし歸り、ちやふの衆中のりむね、

                

  みなんばら、しながい、こいずみ、すいちの、かきのたいまつ、まるぎりまつ、

           いて

  みうちかくれず、出可申候、つゞミかきわ、しものミやじ、をふつずみなり、

                    ごぢんでん

 一もりすへミやふのうちより、いちもつの御神田、

              くニやす だいひやく いだ

 一りやふおふめんの御神田、國安のうち代百もん出し可申候、

 一みゆ之しだい、ふたかまゆのときわ、ものもふし、こくそふつかふまへなり、よそ

  よりいらんわづらい不可有者也、

   (1469)    つちのとの  ふもとじや⬜︎しゆ

   ぶんめいくわんねん五月十五日      つなとき

          うし

   おわり

 

 「書き下し文」

 一つ、備後国世羅郡小童村、武塔山祇園精舎牛頭天王鎮座次第記

       三社

  東に蛇毒鬼神天王、中に牛頭天王大宮内座、西にしやふしよい天王、

       末社

  本宮より東に伊弉諾・伊弉冊、我が公達八王子、

  本宮西に龍宮城にての后頗梨采女、御神幸の時、大御前といふ、

    三番の踊り、記すに及ばず、

  同殿に、厳島三所、御手洗弥都波能売の明神、龍王社、大山祇の明神、山王七社の

  別宮、

    祭礼神幸の次第、御先払ひは、ひゑの次郎左衛門、

  一の神輿、ゆきざね、ゆきもり、むねかね、御供、こんのいち、禰宜、はなみこい

  つきん、ありやふみこにきん、くろうふ十町いつきん、この際、大鼓舁き二人は、

  よりとうの健児、ゆきざねの健児なり、いかみのいろぶし、やす國の色ぶしはなみ

  こ九うらとまちいつきん、

    山王の御先払ひ

  二の神輿、並び無し、際は、物申春日井、物申の座は、神子座に直り申し、際に、

  たわのなんし棚守、際に、いかみの神子さだひろ、神子こぎふたちの三昧僧のい

  ち、こんのいち、壹ねん替わり、

    乗り尻、御先払ひ、高山

  三の神輿、そふのいち、国造指図次第、こうぎゃく神主まとわり、御供にて候ふ、

  際に、供僧六人流鏑馬に年々一人ずつかわるがわる出でて申し候ふ、三台の神輿帰

  り、ちょうの衆中のりむね、南原、塩貝、小泉、すいちの、かきのたいまつ、まる

  ぎりまつ、みうち隠れずに、出で申すべく候ふ、鼓舁きは、下の宮仕、上の宮仕、

  大鼓なり、

 一つ、もりすへみやふのうちより、いちもつの御神田、

 一つ、りょうおうめんの御神田、国安のうち代百文出だし申すべく候ふ、

 一つ、御湯の次第、ふたかまゆの時は、物申し、国造仕う奉るなり、他所より違乱・

  煩有るべからざる者なり、

   文明元年己丑五月十五日   麓城主綱時

   おわり

 

 「解釈」

 一つ、備後国世羅郡小童村、武塔山祇園精舎牛頭天王鎮座次第記

       三社

  本殿の東に蛇毒鬼神天王、本殿中央に牛頭天王が鎮座している。本殿西には邪不しよい天王。

       末社

  本殿より東の末社には、伊弉諾尊伊弉冊尊、その御子である八王子が鎮座している。

  本殿より西には、龍宮城で后となった頗梨采女が鎮座している。御神幸のときには大御前と言う。

    三番の踊りは、記す必要はない。

  西殿には、厳島三所(三女神)、御手洗弥都波能売明神、龍王社、大山祇明神、山王上七社の別宮が鎮座している。

    祭礼神幸の次第、御先払いは、ひえの次郎左衛門。

  一の神輿は、行実、ゆきもり、むねかね、お供として、ごんのいち、禰宜。はなみこ一きん、ありやふみこ二きん、くろふ十町一きん。このそばにいる大鼓舁き二人は、頼藤の若者、行実の若者である。いかみの色ぶし、安国の色ぶし、はなみこ、くろうまち一きん。

    山王の御先払いは禰宜

  二の神輿には、お供がいない。このそばにいる祝詞を奏上する人は春日井の住人である。祝詞を奏上する座は神子の座に直し申し上げ、そのそばに、たわのなんし棚守がいる。そのそばにいる、いかみの神子さだひろ、神子こぎふたちの三昧僧の一人、こんのいちが、一年交代で務める。

    行列後尾の供奉者、御先払いは、高山の住人。

  三の神輿は、そうのいち、国造が指図するとすぐに、かふぎゃく神主がお供として神輿に付き従うのです。そのそばにいる供僧六人は、流鏑馬に年ごとに一人ずつ代わる代わる出場し申し上げます。三台の神輿が戻り、長氏の輩下の則宗、南原、塩貝、小泉、すいちの、かきのたいまつ、丸切松の住人らは内に隠れずに、出で申し上げるべきです。鼓舁きは下の宮仕と上の宮仕である。大鼓である。

 一つ、森末名のうちから、いちもつの御神田。

 一つ、りやふおふ免の御神田。国安のうちから代百文を出さなければならない。

 一つ、御湯献上の手順。二釜湯のとき、祝詞奏上は国造が申し上げるのである。他所からの違乱や妨害があってはならないものである。

   おわり

 

 「注釈」

「九らとまち」

 ─原本を見ていないのでよくわかりませんが、これは直前の「くろうふ

十町」のことで、「くらふまち」と翻刻するべきかもしれません。

 

「山王七社」

 ─比叡山の鎮守、日吉大社の上七社(大宮・二宮・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮)を勧請したものか。江戸時代、神宮寺の別当は今高野山安楽院(世羅郡世羅町甲山)の僧が兼帯していたので、真言宗であったと考えられますが、もとは天台宗であったのではないでしょうか。そもそも本社である祇園社(八坂神社)は天台別院でもあったので、中世では天台宗だったと考えられます。

 

*「神輿」の説明箇所は、ほとんど意味がわかりませんでした。強引に解釈したものもありますが、わからない箇所は本文の表記のままにしてあります。また、『甲奴町誌』(1994)の解説も参照しています。