周梨槃特のブログ

いつまで経っても修行中

この〜木、何の木? 餅のなる木〜♪ ─室町時代の餅花史料─

  文安五年(一四四八)五月二日条 (『康富記』2─289頁)

 

 二日丁亥 晴、

  (中略)

 一昨日室町殿祗候了、其時分、自大方殿、椿枝ニ餅之生タル被送進之間、人々稱奇異

 見了、同於御前拜見之由令語給、此椿樹ハ嵯峨雲居庵之庭之椿也、赤キ餅ノちいさき

 が出生也云々、(割書)「一寸よほう程也云々、やわらかなる餅の如云々、」勝定院

 贈太相国御代、此樹ニ餅なりける也、帰宅之後、於家中語之處、山下将監入道云、先

 年美濃国ニ椿ニ餅なりたり、其ハ色白之由見及云々、言語道断奇特事共也、

 

 「書き下し文」

 二日丁亥、晴る、

  (中略)

 一昨日室町殿に祗候し了んぬ、其の時分、大方殿より、椿の枝に餅の生えたるを送り

 進らせらるるの間、人々奇異と称して見了んぬ、同じく御前に於いて拜見の由語らし

 め給ふ、此の椿の樹は嵯峨雲居庵の庭の椿なり、赤き餅のちいさきが出で生ゆるなり

 と云々、(割書)「一寸よほう程なりと云々、やわらかなる餅のごとしと云々、」勝

 定院贈太相国の御代、此の樹に餅なりけるなり、帰宅の後、家中に於いて語るの処、

 山下将監入道云く、先年美濃国に椿に餅なりたり、其れは色白の由見及ぶと云々、言

 語道断奇特の事どもなり、

 

 「解釈」

 一昨日、室町殿足利義政のもとに祗候した。その時大方殿日野重子から、椿の枝に餅の生えたものを進上されたので、人々は奇妙だと言って見ていた。「同じように私(室町殿)の御前で拝見せよ」とお話になった。この椿の木は、嵯峨の雲居庵の庭の椿である。赤い餅で小さいものが生え出したそうだ。(割書)「一寸(約三センチ)四方ほどの大きさであるそうだ。やわらなか餅のようであるという。」五代将軍足利義持の御代、この木に餅がなったのである。帰宅後に家中で話したところ、山下将監入道が言うには、「先年美濃国で椿に餅がなっていた。色の白いものを見ることができた」という。言葉で表現できないほど不思議なことである。

 

 「注釈」

「室町殿」─八代将軍足利義政

「大方殿」─日野重子

「嵯峨雲居庵」─天龍寺境内塔頭か(『京都市の地名』)。

「勝定院贈太相国」─五代将軍足利義持

 

室町時代の椿には、餅のようなものが実っていたようです。その色は赤や白。京都や岐阜で、この現象は起きていたそうです。いったい何が生えてきた、あるいはくっ付いていたのでしょうか。何かの虫の卵でしょうか。いずれにせよ、不思議な現象です。これまでの記事を読んでくると、不思議現象には必ず吉凶の評価が付きまとっていたのですが、今回は何も書いていません。ただ単に、不思議だと思っていたのでしょう。

 

 

*2018.10.22加筆

「餅花」

 ─正月、小正月、節分などに各家で行う予祝行事の一つ。藁や柳・竹・桑などの木の枝に餅をちぎってつけ、花の咲いたようにしたもの。神棚や室内に飾る。養蚕の盛んな地方では繭玉といって、繭の形のだんごをつけたり、他の飾りもつける。ふつう十一日か二十日正月におろし、煎って食べる。二月十五日の涅槃会、六月一日の氷の朔日、初雷の時に食べるところもある。《季・新年─冬》*宗長手記─下「冬の梅は一輪二輪かすかに咲きて匂ふこそあはれ深からめ、余りに正月の童の餅花つけたるやうに咲きたるを、ふさはしからず見ての事なり」(『日本国語大辞典』)。

 

 「餅花」という風習があるのをすっかり忘れていました。上記『日本国語大辞典』の引用史料『宗長手記』は、大永2〜7年(1522〜27)ごろに書かれた連歌師宗長の旅日記です。これが餅花の最古の史料かどうかわかりませんが、今回の史料はそれよりも70年ほど前になります。記主中原康富らが餅花を不思議がっているところ、また「餅花」という用語で説明されていないところをみると、これはもともと民間の風習で、公家や武家の風習ではなかったと考えられます。どこがその発祥地はわかりませんが、近畿・中部地方では広く行われていたようです。「天狗のイタズラ その1」でも書きましたが、中世では地域や身分の差によって、いくぶん文化や風習が異なるようです。現代とは違って、物流や人の動きはそれほど活発ではないでしょうし、インターネットもありませんから、当然といえば当然なのでしょうが…。こういうのを流行りの言葉でいえば、日本国内の「異文化交流」という言うのでしょう。