周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

須佐神社文書 参考史料1の2

 小童祗園社由来拾遺伝 その2

 

*改行箇所は 」 を使って示しておきます。また、一部異体字常用漢字に改めたと

 ころがあります。書き下し文についても、私の解釈に基づいて、原文表記を変更した

 箇所があります。

 

 時に前なる」松の樹小鳩壱つがひ来り、是より」南海に龍宮あり、彼の処に頗梨采

 女」といふ姫宮あり、行て幸し給へと」囀りて飛去リぬ、其鳩の行へに随ひ」て龍宮

 に入八王子を生み玉ふ、各」八万四千六百五十四神の御眷属」出来給へり、夫より人

 王四十弐代」文武天皇の大宝四年、江州栗本郡」へそ村につき玉ふて、一夜の間に」

 千本の杉苗を植給ふ、時に御湯」献上の宣下あり、其時我ハ是東王父天王の王子牛頭

 天王也、父に不幸を蒙り天笠震旦を廻り」此穐津洲に渡り、東西守護の神」たらんと

 の御託宣にて、其所には」大(宝+壬)天王と奉仰とかや、同慶雲元年甲辰四、ちゝ

 蛇毒気神天王を」召して、古旦を亡すべしとて数万」の御眷属を倶立出させ玉ひて」

 また蘇民将来が方へ来り給へハ」変してゆゝしき長者たり、なに」事にやをわすと驚

 き申けれバ、」此山のあなたなる古旦将来は、」昔むかし旅の労を息んため宿を」求

 しにをしみてゆるさず、甚不仁也」此故に眷属とも打入て今より」七日七夜に亡べし

 との玉ふ、蘇民」将来大に驚き、予に娘壱人あり、」巨旦が太郎ハ我がむこ也、いか

 にも」して此ふたりを助けたまへと」なみだながらに願ひけれバ、根を切」葉をから

 すべしと思へとも、汝に」宿の恩あり、さあらバ助くべしとて」茅の輪を帯しめ」南

 無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶」南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶と秘文」を授てとらしめ、

 後世疫気天下に」流行せば又茅輪を帯て蘇民将来」子孫といふべし、其災必 まぬか

 れん」吾は是速須佐ノ雄の神也との玉ふ」其巨旦が苗代変して藪となる、」今早苗天

 王とて戸手村の天王」是なりとぞ、夫より当村へ来らせ給」とき当国芦田郡荒谷と云

 所にて」御食めさせ玉ひて立せ給ふ時」めうがの芽の残りを捨させ玉ひし跡」変して

 原となる。其所を今は」めうがの丸といふ、夫より漸すゝませ」給ふて甲怒郡本矢野

                               みそぎ

 村に着せ」たもう、其所の路上に少し水の出る」所あり、其水にて潔身し給、其後」

 行来の旅人其わけを知らすのむ者ハ」何の障もなし、又神慮恐れず」みだりに穢すも

 のは病を得ること」有り、依而此水を今ハ若水とも又祗園」水ともいふ、末世の今に

 至迄六月」御祭御輿すましにハ必此水を用、」夫より当村へ入らせ給ふ故五月晦日」

 村堺に忌の木を立る祭有、其時分矢」野堺に立ざるハ此遺風なり、夫より」当村へ御

 越在らせられ、初而御腰を」かけさせられしか所おごせといふ」舎し給ふ所をとうの

 宮いひて」宮跡あり、今養生大明神の祠」のこれり、夫より西南に当り半里許」

 にして連枝の桜あり、此桜ハ忝も天王」御手つから植させ玉ふとなん、然とも」伝へ

 あやまつて曽我の十郎の植流」所とも伝ふる人まゝあり、我聞所と」異なりいづれに

 も旧きことにて」真偽わからす、我所伝を以正として」ここに記す、されハ右歌に祇

 園の」御うたとて、我宿にちもとの桜」花さかは、うへ置人の身も栄えなん」との御

 神詠思ひ合されたり、今」壱株残れり、星霜しばく転じて」幾とせを経とも更に分明

 ならず」土俗の唱に古く過にし事をとうと」いふにや、とうの宮いふ歟、また」武

 塔天神の上略にや、

   つづく

 

 「書き下し文」

 時に前なる松の樹に小鳩一番来たり、是れより南海に龍宮あり、彼の処に頗梨采女

 いう姫宮あり、行きて幸し給へと囀りて飛び去りぬ、其の鳩の行方に随ひて龍宮に入

 り八王子を生み給ふ、各々八万四千六百五十四神の御眷属出で来たり給へり、夫れよ

 り人王四十二代文武天皇の大宝四年(七〇四)、江州栗本郡綣村に着き給ふて、一夜

 の間に千本の杉苗を植え給ふ、時に御湯献上の宣下あり、其の時我は是東王父天王の

 王子牛頭天王なり、父に不幸を蒙り天竺震旦を廻り、此の秋津洲に渡り、東西守護の

 神たらんとの御託宣にて、其の所には大宝天王と仰せ奉るとかや、同慶雲元年(七〇

 四)甲辰四、ちち邪毒気神天王を召して、古旦を亡ぼすべしとて数万の御眷属を倶に

 立ち出ださせ給ひて、また蘇民将来が方へ来たり給へば、変じてゆゆしき長者たり、

 何事にやおはすと驚き申しければ、此の山のあなたなる古旦将来は、昔むかし旅の労

 を息めんため宿を求しに惜しみて許さず、甚だ不仁なり、此の故に眷属ども打ち入り

 て今より七日七夜に亡ぼすべしと宣ふ、蘇民将来大いに驚き、予に娘一人あり、巨旦

 が太郎は我が婿なり、いかにもして此の二人を助け給へと涙ながらに願ひければ、根

 を切り葉を枯らすべしと思へども、汝に宿の恩あり、さあらば助くべしとて茅の輪を

 帯びしめ、

 南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶

 南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶

 と秘文を授けて取らしめ、後世疫気天下に流行せば又茅の輪を帯びて蘇民将来子孫と

 云ふべし、其の災ひ必ず 免れん、吾は是れ速須佐ノ雄の神なりと宣ふ、其の巨旦が

 苗代変じて藪となる、今早苗天王とて戸手村の天王是れなりとぞ、夫れより当村へ来

 たらせ給ふとき当国芦田郡荒谷と云ふ所にて、御食召させ給ひて立たせ給ふ時、茗荷

 の芽の残りを捨てさせ給ひし跡、変じて原となる、其の所を今は茗荷の丸と云ふ、夫

 れより漸く進ませ給ふて甲奴郡本矢野村に着かせ給ふ、其の所の路上に少し水の出る

 所あり、其の水にて禊し給ふ、其の後行き来の旅人其の訳を知らず飲む者は何の障り

 も無し、又神慮を恐れずみだりに穢すものは病を得ること有り、依りて此の水を今は

 若水とも又祇園水とも云ふ、末世の今に至るまで六月御祭の神輿澄ましには必ず此の

 水を用ゐる、夫れより当村へ入らせ給ふ故に、五月晦日村境に忌みの木を立つる祭り

 有り、其の時分矢野境にに立てざるは此の遺風なり、夫れより当村へ御越し在らせら

 れ、初めて御腰をかけさせられしか所をおごせと云ふ、舎し給ふ所をとうの宮と云ひ

 て宮跡あり、今養生大明神の祠残れり、夫れより西南に当たり半里ばかりにして連枝

 の桜あり、此の桜は忝くも天王御手づから植ゑさせ給ふとなん、然れども伝へ誤って

 曽我の十郎の植うる所とも伝ふる人ままあり、我が聞く所と異なりいずれにも旧きこ

 とにて真偽わからず、我が所伝を以て正としてここに記す、されば右の歌に祇園の御

 歌とて、「我が宿に ちもとの桜 花咲かば 植ゑ置く人の 身も栄なん」との御神

 詠思ひ合わされたり、今一株残れり、星霜しばしば転じて幾年を経とも更に分明なら

 ず、土俗の唱に古く過ぎにし事をとうと云ふにや、とうの宮と云ふか、また武塔天神

 の上略にや、

   つづく

 

 「解釈」

 その時、門前にあった松の木に小さな鳩のつがいが飛んできた。「ここから南の海に龍宮がある。そこに頗梨采女という姫宮がいる。お出かけになってください」と囀って飛び去った。その鳩の飛び行く方向に付いていって龍宮に入り、八人の王子を儲けなさった。それぞれ八万四千六百五十四神の御眷属が現れなさった。そもそも人王四十二代文武天皇の大宝四年(七〇四)、近江国栗本郡綣村にお着きなって、一晩のうちに千本の杉苗をお植えになった。その時にお湯献上の宣旨が下された。その時、「私は東王父天王の王子牛頭天王である。父に義絶され天竺震旦を巡り、この日本にやってきて、東西守護の神になろう」とご託宣になって、そこでは大宝天王と呼び申し上げているとかいう。同慶雲元年甲辰(七〇四)四月、蛇毒鬼神をお呼びになって、「古旦を滅ぼせ」とご命令になり、数万の御眷属とともに出立させなさった。また、牛頭天王蘇民将来のもとへお出でになると、蘇民はたいそうお金持ちになっていた。「何事でいらっしゃいますか」と驚いて申し上げたところ、「この山の向こうにいる古旦将来は、以前旅の疲れを癒すために宿を探していたときに、惜しんで宿を貸さなかった。たいそう思いやりのないものである。だから眷属どもが討ち入って、今から七日七夜のうちに滅ぼすはずだ」と仰った。蘇民将来は大いに驚いて、「私には娘が一人いる。巨旦の長男は私の婿である。なんとかしてこの二人を助けてください」と涙ながらに願ったので、牛頭天王は「根を切り葉を枯らすように、ことごとく巨旦一族を滅ぼさなければならない」と思ったが、「お前には一宿の恩義がある。それなら助けよう」と仰って、茅の輪を身につけさせ、「南無耶獅子王摩訶破梨耶娑婆訶、南無耶蘇宜路掲破梨娑婆訶」という秘密の呪文を授けて取らせ、「将来、疫病が国中に流行したなら、また茅の輪を身につけ、蘇民将来の子孫と言え。その災いをきっと避けることができるだろう。私は速須佐男の神である」と仰った。その巨旦の苗代は変化して薮となった。今早苗天王といって、戸手村の天王がこれであると言う。そこから当村へお出でになるときに、備後国芦田郡荒谷というところでお食事を召し上がりご出立になったとき、茗荷の芽の残りをお捨てになったあとが変化して野原となった。その場所を今は茗荷丸という。そこからしばらくお進みなって甲奴郡本矢野村にお着きになった。その路上に少し水の出るところがあった。その水で禊をなさった。その後、往来の旅人でその事情を知らずに飲んだものは、何の差し障りもない。他方、神の御心を恐れず、みだりに水を汚すものは病気になることがある。そこで、この水を今は若水ともまたは祇園水ともいう。末法の世の今に至るまで、六月のお祭りで神輿を清めるには、必ずこの水を用いる。そこから当小童村へお入りなったから、五月晦日に村境に結界の木を立てる祭があるけれども、その時分に矢野村との境に結界の木を立てないのは、この理由による風習である。それから小童村へお越しになり、初めて腰をおかけになった場所を「おごせ」という。お泊りになったところを「とうのみや」と言って宮跡がある。いま養生大明神の祠が残っている。そこから西南半里ほどの場所に、枝の連なった二本の桜がある。この桜は畏れ多くも牛頭天王が御自らの手でお植えになったという。しかし、伝え間違って曽我の十郎祐成が植えたものとも伝える人がまれにいる。私の聞いたことと異なるが、どちらにしても古いことで真偽はわからない。私の伝え聞いたことを正しいものとしてここに記しておく。さて、次の祇園のお歌という、「我が社に多くの桜の花が咲くなら、植え置いた人の身も栄えるだろう」との牛頭天王の御詠歌が思い当たる。いま一株だけ残っている。歳月が転変して何年過ぎてもまったくはっきりしない。この土地の民衆の言葉に、古く過ぎ去ってしまったことを「とう」と言うのだろうか。だから、とうの宮と言うのか。また武塔天神の上の「武」を略したのだろうか。

   つづく

 

 「注釈」

「江州栗郡へそ村」─現滋賀県栗東市綣に鎮座する大宝神社。

「不幸」─「不孝」で義絶のことか。

「(宝+壬)」─「宝」の異体字か。

「ちゝ」─未詳。牛頭天王の「父」は「東王父」なので、「父」ではないと思います。

     牛頭天王の眷属、あるいは王子の意味でしょうか。

「荒谷」─現広島県府中市荒谷町。

「めうがの丸」─茗荷丸。現広島県府中市荒谷町。

「本矢野村」─現広島県府中市上下町矢野。

「曽我の十郎」─曽我十郎祐成。

 

以下は、「祇園水」の写真です。

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