周梨槃特のブログ

史料紹介という修行

弓矢の道と同性愛

  文安五年(一四四八)七月二十五日条 (『康富記』2─315)

 

 廿五日己酉 晴、於三福寺講述而篇了、

 傳承分、今朝飯尾四郎右衛門尉遁世云々、加賀入道次男也、此間與細河讃州被官人、

 有公事之子細、一昨日屬無為分也、尚有其憤之故歟如何、其謂聞及分ハ、今月廿一日

 黄昏ニ細川讃州の内者ニ七條と云物あり、七條がめし使こもの、十六七の物なり、優

 美の物なり、これが私宅へ歸る時、二條西洞院にて、辻切ニきられ候を、そのものゝ

                                

 母が、主の七條が許へ走入て、これはもともと飯尾加賀殿のめしつかわれたる物に

 候、今夜切殺され候、もとの主加賀殿よりさせられ候よし申て、のゝしりなきさけぶ

 と云々、仍七條怒て眞と思て、其夜加賀が許へ寄せんと申之間、屋形讃州先とゞめ

 て、使を加賀と肥前とが許へ遣して、此事誠候やらん、無勿體候、七條可發向之由申

 をばとめ候、無為之沙汰あるべきよし、讃州申さるゝ間、其夜肥前と四郎右衛門と両

 人、讃州へ参て、此事更不存知候、先御使畏入之由申處ニ、讃州不被出逢、大酒を飲

 て、無返事にて両人を返さるゝ云々、下手人を出され候へと、讃州より催促ありとい

 へ共、我が沙汰せぬ上は不可進候、支證あらば、給て治定時、下手人を可進歟之由、

 四郎右衛門返事云々、仍讃州より管領京兆へ此由訴申さるゝ間、管領より又加賀肥前

 が許へ御使ありて、下手人を出して無為にせられ候へ、存知せぬとてつかへてあれ

 ば、公事未落居也、たとひ存知せずとも、下手人を出して、無為ならばくるしからぬ

 よし、口入の分也、本人の方より取時も不出候、御口入ニ依て下手人を出し候へば、

 はや我が小物沙汰したるに治定候之間、仰なれ共下手人をば難進之由申切云々、其後

     室町殿

 管領より公方様へ申されて、下手人を出させられよと申さるゝ間、御所へ肥前と四郎

 左衛とをめしつけられて、下手人を出して無為にし候へ、はや我が過さぬ事は申上之

 間被聞食披了、下は管領より堅被憤申、上は不詳ニ只下手人を出候へと被仰候時、尚

 不可叶候、弓矢の義理其分にあらず候、一向存知せぬ事ニ如此責られ候とて、下手人

 を出し候へば、已前の題目落居歟、不然といへ共下手人を出たると候はゞ、向後天下

 引懸と成て、弓矢の道欠候之由堅申、退出了、其後自室町殿、此子細を管領へ被申

        

 間、管領讃州なをやみ得ずして、只下手人を出させられ候へと、重管領より申さるゝ

 間、重又御使をもて肥前加賀に仰付らるゝ間、肥前などが意見にて、此上は私所存之

 分ハ、具に上聞に達し畢、さりながら、管領其意を不得して強て申さるゝ上は、別儀

 をもて下手人を出し候へと、上意たる間、只理を枉て出し候へと教訓之間、廿三日夜

 に入て、無力加賀四郎〔右〕衛門方よりして、下手人を室町殿へ進了、室町殿より、

 伊勢備後伊勢六郎両使にて管領へ被遣、管領より下手人を讃州へ被遣之間、讃州下手

 人を見て、例に任て返されぬ、七條ハ下手人を不見之間、尚自身可見之由申て憤故

 に、讃州状を出して、七條に、下手人をば我見て返したるよし状を七條に遣了云々、

 希代事也、此分にて件公事は、廿六日夜無為に落居也、しかるに今朝四郎〔右〕衛門

 拂暁ニもとゞりを切て、行方知ず遁世云々、我か過さぬ事に、下手人を公方より御口

 入ありて召進之間、若其事を口惜く存故歟、又父加賀此事切勘するに依て彌物くさく

 存て遁世歟云々、只不肖に依て大名の無理を御口入之條、弓矢之道欠歟、若憤不休

 歟、何様不便々々、末世不相應之義士者乎、

 室町殿寶生殿猿楽舞也、山名殿被申沙汰也云々、

 

 「書き下し文」

 廿五日己酉 晴れ、三福寺に於いて述而篇を講じ了んぬ、

 伝え承る分、今朝飯尾四郎右衛門尉遁世と云々、加賀入道次男なり、此の間細川讃州

 被官人と公事の子細有り、一昨日無為に属する分なり、尚ほ其の憤り有るの故か如

 何、其の謂れを聞き及ぶ分は、今月二十一日黄昏に細川讃州の内者に七條と云ふ物あ

 り、七條がめし使ふこもの、十六、七の物なり、優美の物なり、これが私宅へ帰る

 時、二条西洞院にて辻切りにきられ候ふを、そのものの母が、主の七條の許へ走り入

 りて、これはもともと飯尾加賀殿のめしつかはれたる物に候ふ、今夜切り殺され候

 ふ、もとの主加賀殿よりさせられ候ふよし申して、ののしりなけきさけぶと云々、仍

 つて七條怒りて真と思ひて、其の夜加賀のもとへ寄せん申すの間、屋形讃州先づとど

 めて、使ひを加賀と肥前とが許へ遣はして、此の事誠に候やらん、勿体無く候ふ、七

 條発向すべきの由をばとめ候ふ、無為の沙汰あるべきよし、讃州申さるる間、其の夜

 肥前と四郎右衛門と両人、讃州へ参りて、此の事更に存知せず候ふ、先づ御使ひ畏れ

 入るの由申す処に、讃州出で逢はれず、大酒を飲みて、無返事にて両人を返さるると

 云々、下手人を出だされ候へと、讃州より催促ありといへ共、我が沙汰せぬ上は進ら

 すべからず候ふ、支証あらば、給はりて治定の時、下手人を進らすべきかの由、四郎

 右衛門返事すと云々、仍つて讃州より管領京兆へ此の由を訴え申さるる間、管領より

 又加賀・肥前が許へ御使ひありて、下手人を出して無為にせられ候へ、存知せぬとて

 つかへてあれば、公事未だ落居せざるなり、たとひ存知せずとも、下手人を出して、

 無為ならばくるしからぬよし、口入の分なり、本人の方より取る時も出ださず候ふ、

 御口入に依りて下手人を出だし候へば、はや我が小物沙汰したるに治定し候ふの間、

 仰せなれども下手人をば進らせ難きの由申し切ると云々、其の後管領より公方様(室

 町殿)へ申されて、下手人を出ださせられよと申さるる間、御所へ肥前と四郎左衛と

 めしつけられて、下手人を出して無為にし候へ、はや我が過ごさぬ事は申し上ぐるの

 間聞こし食し披かれ了んぬ、下は管領より堅く憤り申され、上は不詳に只下手人を出

 だし候へと仰せられ候ふ時、尚ほ叶ふべからず候ふ、弓矢の義理其の分にあらず候

 ふ、一向存知せぬ事に此くのごとく責められ候ふとて、下手人を出だし候へば、已前

 の題目落居か、然らずといへども下手人を出だしたると候はば、向後天下の引懸と成

 りて、弓矢の道欠け候ふの由堅く申し、退出し了んぬ、其の後室町殿より、この子細

 を管領へ申さるる間、管領讃州なほやみ得ずして、只下手人を出ださせられ候へと、

 重ねて管領より申さるる間、重ねて又御使ひをもて肥前加賀に仰せ付けらるる間、肥

 前などが意見にて、此の上は私の所存の分は、具に上聞に達し畢んぬ、さりながら管

 領其の意を得ずして強ひて申さるる上は、別儀をもて下手人を出だし候へと、上意た

 る間、只理を枉げて出だし候へと教訓の間、二十三日夜に入りて、力無く加賀四郎右

 衛門方よりして、下手人を室町殿へ進らせ了んぬ、室町殿より、伊勢備後伊勢六郎を

 両使にて管領へ遣はせらる、管領より下手人を讃州へ遣はせらるるの間、讃州下手人

 を見て例に任せて返されぬ、七條は下手人を見ざるの間、尚ほ自身見るべきの由申し

 て憤る故に、讃州状を出して、七條に、下手人をば我見て返したるよし状を七條に遣

 はし了んぬと云々、希代の事なり、此の分にて件の公事は、二十六日夜無為に落居

 り、しかるに今朝四郎右衛門払暁にもとどりを切りて、行方知れず遁世すと云々、我

 が過ごさぬ事に、下手人を公方より御口入ありて召し進らするの間、若し其の事を口

 惜しく存ずる故か、又父加賀此の事切勘するに依りて弥物くさく存じて遁世かと

 云々、只不肖に依りて大名の無理を御口入の條、弓矢の道を欠くか、若し憤り休まら

 ざるか、何様不便不便、末世相応ぜざるの義士なる者か、

 室町殿宝生殿猿楽舞なり、山名殿申し沙汰せらるるなりと云々、

 

 「解釈」

 廿五日己酉 晴れ、三福寺で『論語』の述而篇を講義した。

 伝え聞いた分だと、今朝飯尾四郎右衛門尉が失踪したという。飯尾加賀入道為行の次男である。この間、細川持常の被官人との間で揉め事があった。一昨日平穏に解決したのである。依然としてその件に対する怒りが残っていたからか、どうだろうか。その理由を聞き及んだ分によると、今月二十一日の夕暮れのことである。細川持常の被官人に七條というものがいる。その七條が召し使う小者は、十六、七歳のものである。上品で美しい男子である。この者が私宅へ帰るとき、二条西洞院で辻斬りに斬られましたが、その者の母親が主人の七條のもとへ走り入って、「この子はもともと飯尾加賀入道為行殿が召し使っていたものです。今夜斬り殺されました。もとの主人の加賀殿がそのように斬り殺しなさいました」と申し上げて、大声で嘆き叫んだという。そこで、七條は怒り真実だと思って、「その夜加賀入道飯尾為行のもとに押し寄せよう」と申したので、主人の細川持常はまず止めて、使者を加賀入道飯尾為行と肥前飯尾為種のもとに遣わして、「七条の主張は真実でしょうか。(そうであるなら)不届きであります。七條がそちらへ押し寄せようとしているのを止めました。平穏に処置するべきである」と細川持常は申したので、その夜に肥前守為種と四郎右衛門の両人は持常のもとへ参上して、「このことはまったく存じません。まず御使いを遣わされたことはありがたいことです」と取次に申したところ、細川持常は二人と対面せず、大酒を飲んで返答をせずに帰らせたそうだ。下手人を出しなされと、細川持常から催促があったが、「自分がしていないうえは差し出すことはできません。証拠があるなら、いただいてそれが間違いないときに、下手人を差し出すべきではないでしょうか」と四郎右衛門は返事をしたそうだ。そこで、細川持常から管領右京大夫細川勝元へこの事情を訴え申し上げなさったので、管領細川勝元から加賀入道為行と肥前守為種のもとへ御使いを遣わして、「下手人を差し出して平穏に決着をつけてください。知らないと言い張っていると、揉め事は落着しないのである。たとえ知らなくても、下手人を差し出して、平穏に落着するなら差し支えない」と口出ししたのである。加賀入道と肥前守は「相手の七條本人が下手人を取ろうとしたときも差し出しませんでした。それなのに、お口添えによって下手人を出しますと、すぐに自分の小者が犯行に及んだことに決まってしまいますので、ご命令ではあるけれども、下手人を差し出すことはできません」ときっぱり申し上げたそうだ。その後、管領細川勝元から室町殿足利義政へ申し上げなさって、「飯尾為種に下手人を出させてください」と申し上げなさったので、足利義政は室町御所へ肥前飯尾為種と飯尾四郎右衛門とを呼び付けなさって、「下手人を差し出して平穏に解決してください」と仰った。飯尾為種はすでに自分が辻斬りをしていないことを申し上げたので、室町殿はお聞き及びになっているはずだ。それなのに、下は管領から厳しく責められ、上は室町殿からはっきりしないまま「下手人を出してください」とご命令になりましたとき、「依然として私の思い通りにならないのでしょう。弓矢の義理は、そのような事柄であってはなりません。まったく存じ上げないことでこのように責められましたからといって、下手人を出しますと、この揉め事は決着するのでしょうか。辻斬りの犯人ではないのに下手人を出したとなりましたなら、今後の国中の先例となって、弓矢の道がなくなります」ときっぱり申し上げて、室町御所から退出した。その後室町殿足利義政は、この事情を管領細川勝元へお伝えになったので、管領と細川持常は依然として収まりがつかず、ただ「下手人を差し出してください」と繰り返し申し上げなさり、再び御使いをもって肥前飯尾為種と加賀入道飯尾為行にご命令になった。だから、肥前守らの考えとして、「この上は、こちらの主張は、詳細に室町殿のお耳に入っている。それなのに、管領細川勝元は我らの主張を受け入れず、無理やり下手人を出すよう申され、さらに『格別の事情をもって下手人を差し出してください』という室町殿のご命令だから、ただ道理を曲げて下手人を差し出してください」と加賀四郎右衛門を説得したので、二十三日の夜になって、やむを得ず加賀四郎右衛門方から下手人を室町殿へ差し出した。室町殿は伊勢備後守と伊勢六郎を両使として、下手人を管領へお遣わしになった。管領から下手人を細川持常へお遣わしになったので、持常は下手人を見て、慣例どおりに飯尾のもとにお返しになった。七條は下手人を見なかったので、依然として自分自身も見なければならないと申して怒っているので、主人である細川持常は書状を遣わして、七條に、「下手人を私が見て返した」との書状を七條に遣わしたそうだ。世にも珍しいことである。このような経緯で、この揉め事は二十六日夜、平穏に落着した。しかし、今朝飯尾四郎右衛門が夜明け方に髻を切って、行方もつかめないまま失踪したそうだ。「自分たちのやっていないことで、公方様のご仲介があって、下手人を差し出したので、もしかすると、そのことを悔しく思ったからだろうか。また父の加賀入道飯尾為行がこの件で強く諌めたから、ますます面倒に思って失踪したのだろうか」と聞いた。足利義政が愚かであることによって、大名の無理強いをご仲介になったことは、弓矢の道理を欠いているのではないか。もしやその怒りが収まっていないのか。いかにも気の毒なことであるよ。末世にふさわしくない高節の士であろうか。

 室町殿が宝生殿で猿楽舞を催した。山名持豊が執行したのであるという。

 

 「注釈」

「三福寺」─京都市左京区正往寺町四六三、仁王門通新高倉東入上る。浄土宗西山深草

      派の寺院。

「加賀入道」─室町幕府奉行人飯尾為行。法名真妙。

「細河讃州」─阿波細川家当主、細川持常。

肥前」─室町幕府奉行人飯尾肥前守為種。法名は永祥。

「四郎左衛」─加賀入道飯尾為行の次男、飯尾四郎右衛門の誤記か。

「弓矢の義理」─「弓矢の義」。弓矢をとる身としての道義。武士としての道義。武士

        の面目(『日本国語大辞典』)。

「弓矢の道」─弓矢に関する道義。武芸の道。武道(『日本国語大辞典』)。

「宝生殿」─未詳。

 

*この記事については、清水克行「喧嘩両成敗のルーツをさぐる」(『喧嘩両成敗の誕生』講談社選書メチエ、二〇〇六)で、詳細に分析されています。ここで書いた解釈の多くも、この研究を参照しました。

 さて、この記事、いろいろおもしろいことが書いてあります。まず一つ目。辻斬りの被害者である十六、七歳の小者ですが、わざわざ「優美の物なり」と記載されています。現代で言えば、美形の男子高校生といったところでしょうか。前掲清水論文によると、室町時代は同性愛(男色)が広まっていた時代で、自身の美貌を売りにしてさまざまな家々を渡り歩く児小姓(ちごこしょう)が存在していたそうです。この小者も同性愛の対象として、以前は加賀入道飯尾為行に仕え、その後は七條某に召し抱えられていたらしく、この小者の争奪がトラブルの原因になった、とその母親は考えたようです。飯尾側は真っ向から関与を否定しているので真相はわかりませんが、若い美男子をめぐるオッサン同士の嫉妬や争いが、このような殺人事件を引き起こしたと見なす社会的な認識が、確実に存在していたようです。現代でも、私が知らないだけで、同様の事件は起きているのでしょうか。こうした愛しい人をめぐる愛憎劇を見ると、室町人も現代人と同様、良くも悪くも、人間や人間の世の中が大好きなのだなと思います。執着心の強さには感服するばかりです。

 次に気になったのは、「弓矢の義理」「弓矢の道」という言葉です。この記事で、その内容が鮮明になってきます。今回の事件では、「下手人(解死人)」を出すか出さないかで揉めていました。「下手人」制というのは、「加害者側の集団から被害者側の集団に対して、『解死人(下死人・下手人)』と呼ばれる謝罪の意を表す人間を差し出すという紛争解決慣行」です(前掲清水論文)。小者を切り殺された七條は、すぐにでも犯人と目された飯尾の邸宅に攻め入ろうとしましたが、それを主人の細川持常が止め、飯尾側に下手人の差出を要求してきたのです。しかし、飯尾側は「やってもないのに下手人は出せない。証拠が明らかとなって初めて下手人を出すべきではないか」と、その要求を突っぱねます。つまり、下手人を差し出せば、罪を認めたことになる。冤罪であるのに下手人は出すということは、「弓矢の道(武家の道理)」に反する、と飯尾は主張したのです。今回の事例もそうですが、下手人は被害者側に引き渡されても、必ずしも殺されるとは限らなかったそうです。それでも、罪が確定していないのに、下手人を出すことを嫌っています。この事件を預かることになった七條の主人細川持常・管領細川勝元足利義政は解死人制を使って、穏便に処理しようとしましたが、被疑者である飯尾にとっては無実の罪を着せられることに我慢ならなかったようです。「疑わしきは罰せず」のような感覚が、「弓矢の道」の一つであったのかもしれません。